核兵器は廃絶が先? 禁止が先? 二者択一の偽り

核軍縮という目的を達成するためには近道など存在しない。
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先月、軍縮・安全保障を扱う国連総会第一委員会が開催され、オーストラリアのジョン=クイン大使は演説の中で次の様に発言しました(筆者訳):

私達は核軍縮に実用的なアプローチをとる。ゆえに私達は核兵器禁止条約を支持しない。仮にそのような条約が結ばれたところで核兵器が根絶されるわけではない。国々は安全であると感じなければ核兵器を手放すことはないだろうし、もともと彼らが核保有へと至った安全保障上の経緯を考慮することが大切なのだ・・・私達は皆一緒に長く困難な道を歩んでいる。核軍縮という目的を達成するためには近道など存在しない。

クイン大使は多くの核保有国や核の傘下にある国の意見を代弁しています。すでにこの発言の以前から、そうした国々の間では「近道なし」はいわばスローガンとなっていました。世界における安全保障の現状を考えれば、核兵器廃絶を待たずに禁止を求めるなど無責任かつ希望的観測に過ぎず、世界から核兵器を除去するには核軍縮を推進する他に手段はない、というのです。

この背景には、禁止条約の交渉・採択へ向け具体的な行動を起こすべきだという見方がいま多くの国や国際市民社会で支持を急速に広げている、という事情があります。一部では、核兵器禁止はもはや廃絶の必須条件だとする声さえ聞かれます。世論がこうした展開を見せるのには、遅々として進展しない核軍縮に対する深い失望が大きく関わっているといえるでしょう。

この問題を核兵器廃絶・核兵器禁止の二者択一と捉える考え方には一定の説得力があるように見えるかもしれません。しかし、このジレンマは偽りです。核兵器禁止を訴える人達は、禁止がおのずと根絶をもたらすとは誰も考えていません。彼らの主張はむしろ、違法化は核兵器のない世界を実現する上で避けて通れない一ステップであり、また違法化を含まない核軍縮努力には誠実さを見出すことが難しい、というものです。必要条件として示された命題をあたかも十分条件であるように曲解し、そして誰も唱えていない十分性に異議を唱える -- これは命題自体を拒否する側がよく用いる論理のすり替えです。

この様な詭弁は今に始まったことではありません。

1824年にあった英国国会下院の討議で、当時外務大臣を務めていたジョージ=カニングはその時大問題だったある案件について次の様に述べました(筆者訳):

私は掻き立てられた情熱に任せて事を急いでしまう危険を十分承知している。私はまた準備に手間がかかり過ぎるという反論も承知している。手間をかけよ!手間はかかるであろうし、かけるべきであり、かけなければならないのだ!・・・我々は新たなる革新の精神に惑わされる余り、この制度が歴史を通じて存在し続け、また誰一人として改革に手を染めようとした立法者がいなかった事実を忘れていないか?我々は一撃でこの問題を葬り去ることができる、などと自惚れていないか?いや、物事は段階的に注意深く進められなければならないのだ・・・

段階的に注意深く進めよ -- カニングが示したこの訓戒は、二百年近くを経た今もなおクイン大使の掲げる実用主義に受け継がれています。

もちろん、カニングがしていたのは核軍縮の議論ではありません。実はこの時、彼は西インド諸島における奴隷の状況改善について語っていたのです。注目すべきは、二者択一の幻想がここでも巧みに用いられている点です。件の演説では、カニングはこうも述べています:

我々の植民地において奴隷制が永遠に続くことに賛成かと聞かれれば、それは明らかに反対である。しかし、奴隷制を直ちに廃止することに賛成かと聞かれれば、これも反対せざるをえない。そして、奴隷制の恒久的継続と即時廃止のどちらを取るかと聞かれれば、この問題の特殊性を考えた場合、現状維持が好ましいと言ってはならないかどうか判断しかねる。明らかに、それは今の状況に何ら愛着があるからではない。突然もたらす変化によって現状を修復する、という責任が多大だからである。

公平を期するために言うと、カニングは奴隷制度を悪と信じていたし、また奴隷制は最終的に根絶しなければないと考えていました。しかし彼は、不必要にも自らを恒久的奴隷制と即時廃止の狭間に陥れ、倫理的方向性も政治的創造性も閉塞させてしまいました。しまいには、即時廃止に伴う激変を憂慮するよりは奴隷制を維持する方が良い、と実質的に言い切らざるを得なくなってしまったのです。

奴隷制の即時廃止が混乱を招きかねないことは確かです。でもそれは、即時廃止のほかに何もせず事態を放置すればこそ起こるのです。労働力と富の源泉を多様化する、平等や社会的流動性といった考え方を広める、解放された人々が迎える新人生を支援する、人間の尊厳・共存などの価値観の普及を促す -- 奴隷制即時廃止がもたらした動揺は、これらの抜本的対策が長期的・総合的に機能して初めて緩和されるに至ったのです。

今日、私たちは核兵器が人類を許容しがたい危険に晒していること、また核兵器の根絶が重要な使命であることを認識しています。にもかかわらず、核兵器の早計な違法化は世界の脆弱な安全保障を脅かすに過ぎない、と核保有国や核の傘下にある国はいうのです。彼らによれば、「長く困難な道」とは核兵器禁止を伴わない道のことを指し、そしてその道こそが唯一踏破可能な道なのです。

核兵器の即時禁止が安全保障に悪影響を及ぼしかねないことは確かです。でもそれは、即時禁止のほかに何もせず事態を放置すればこそ起こるのです。核軍縮・安全保障政策の非核化などの分野で何ら有意義な進展が見られない無策ぶりを考えれば、このような状態で核兵器禁止条約だけが採択されてもそれが不安定化を招くことは明らかです。ここで重要なのは、この無策状態を作り出しているのは核保有諸国とその傘下にある国々だということです。彼らが禁止条約の支持者をさして煽動者呼ばわりするのは全く的外れです。

核兵器は禁止さえすれば廃絶に至る、などと考えるのは確かに夢想です。しかし、廃絶達成のみが後の禁止を可能にするとの主張はそれに劣らず不誠実です。禁止を訴える人々は反対勢力が考えるほど初心でも無謀でもないのです。

歴史を顧みると、正義はただ貫けばいい訳ではないことが分かります。むしろ求められるのは、正義を貫くことによって起こる結果を受け入れ、ふさわしい対応を模索する準備です。こうした責務に背をむけることは実用的ではありません。それは単なる臆病です。