鼻血と日本的ナルシシズム

まさか、あの話をまともに受け止める人がこんなにたくさんいるとは思わなかった。それ位、放射線の健康への影響についての教科書的な常識から、かけ離れている内容だと感じた。
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マンガ「美味しんぼ」で、福島県で鼻血の症状を訴える患者が増えているという描写があり、それが物議をかもした。たくさんの批判が起きた後で、今度は掲載した雑誌の編集長が「表現のあり方を見直し」ていくという見解を示す事態となった。

私は最初に「美味しんぼ」の鼻血の話を聞いたとき、その影響がこんなに長く大きく広がるとは思わなかった。想像力の豊かな漫画家が描いた空想なのだから、そういうものだと聞き流せば良いだろうと考えた。まさか、あの話をまともに受け止める人がこんなにたくさんいるとは思わなかった。それ位、放射線の健康への影響についての教科書的な常識から、かけ離れている内容だと感じた。

私は平成24年の4月から福島県南相馬市で暮らしている。精神科であるが、医師免許を持って診療に従事している身分である。市内に、医療・福祉の仕事に従事する友人・知人もたくさんいる。そして、少なくとも私と私の周囲が経験している範囲において、鼻血を訴える患者は増えていない。つまり、私は「美味しんぼ」の福島の鼻血の記事とそれを支持する人々に対して、反対をする立場にある。

私は、自分のことをいわゆる「御用学者」ではないと考えている。政府の姿勢などに示される、日本社会のある種の傾向については、相当に批判的な意見も発表してきた。「日本的ナルシシズム」という病理的な精神性が、原発事故の前も後もくり返し反復して現れているという強い危機感を持って生活している。

日本的ナルシシズムは、「社会全体や集団の都合のためならば、論理や人権を無視して何でも可としてしまう」ようにも現れる病理性である。それならば、「原発事故と関連した人権侵害を可として憚らない日本社会の問題を批判している今回の『美味しんぼ』のような表現を、なぜ支持しないのか?」という質問を受けそうである。

それに対しては、気持ちは分かるが、そのような「表現のあり方」を用いての異議申し立てには賛成できないというのが私の意見である。

「理屈ではなく力と情で真とする」を「理屈ではなく力と情で偽とする」に置き換えても、ナルシシズムを別のナルシシズムに置き換えるだけで、問題の解決にはつながらず、かえってそれを複雑化させてしまう。一時の勝利感からカタルシスを得たとしても、その後につながらないのならば空しい。「全部良い/悪い」ではなく、「良いものは良い/悪いものは悪い」と考える判断力を高めることによってこそ、ナルシシズムを克服して理性に導かれる自我が強化され、未来が開かれることへとつながるだろう。

しかし、「美味しんぼ」にかけられた圧力について知ると、これも落ち着かない気持ちになる。結局、空気に表現される力(ナルシシズム)と力(ナルシシズム)がぶつかり合って、片方が他方を抑え込むという結果になってしまったようだ。この機会に「日本社会の負の側面」を攻撃したい陣営にとっては、最悪の結果だったかもしれない。

ここで私は、かつて藤田省三が語ったことを連想した。

(日本)社会の原理は、人間社会が自然世界と公然と対立せず、国家が家や部落や地方団体と公然と対立せず、公的忠誠が私的心情と公然と対立せず、全体と個が公然と対立せず、その間のケジメがないままに、どちらが起源でどちらが帰結か明らかにされないで、ズルズルベッタリに何となく全体が結びついているところにある。このズルズルベッタリの状況に区切りをつけないでは、社会運動を起こしても、その結果がどこに吸収されるかわからない。被支配者は、支配者とケジメなく心情的につながっているのだから、被支配者のために、その経済的利益を増やそうとする運動は、やり方如何によっては、ひょっとすると、政治的にはますます支配者を楽にさせる結果になるかもしれない。そこで、ズルズルベッタリ主義的な精神態度や運動の方針を止めさせることが重要な問題になる。

私は、日本の構造的な問題を外部に実体化させてそれを攻撃する方法は有効ではなく、「日本的ナルシシズム」という心理構造としてそれぞれの組織や個人に内面化させて、個別の場面でその病理性の克服を目指すことの方が重要だろうと考えている。

うつ病の病前性格として記述された「メランコリー親和型」という性格は、「日本人」の性質を表していると考える。この特徴は、自分が所属する集団への同一化が強すぎて、自我が確立されていないことである。

「現代日本における意識の分裂について(1) 現代うつを巡る考察から」

日本社会への同一化が強過ぎることが自我の確立を妨げるのならば、日本社会を批判して同一化を解除することこそが、私たちが救済されるための手段ではないかと推測される。そこには、真実が含まれている。しかしその結果が、同一化できる「日本社会を否定する集団」を探し求めて、それを作り出そうとすることならば、それは支離滅裂で、かえって病理を複雑化させる恐れがある。

権威への拘束・依存を克服する試みが、それを単に「反権威」にひっくり返すだけで、「反権威」を語る権威や集団を生み出すことに留まる傾向は、「戦後」の問題かもしれない。

中根の、次のような記述はその典型を示している。

「ある会合で、『わが社はほかと違って、アメリカ式の能力主義を採用し、民主的な経営をしています』などと、上座にいる部長などが誇らしげにおっしゃり、課長・係長は、「いかにも、その通りで」などという反応を(それぞれのポストに応じたからだの動かし方で)される」ことの奇妙さを指摘した。

語られる内容について真剣に考えることを欠いたまま、空気に過剰に依存してそのことに無自覚であるという構造の方が問題なのである。

そして、日本社会の構造を批判しようとすると、「反権威」を語る権威という社会的には非機能的な存在に帰結する結果となりやすい。これが、無為の中心を抱く構造を批判することの困難さなのだ。同時に、「反権威を語る権威」が、社会の中で傷ついた人や心を病む人のために一定の場所を確保するという役割を果たしてきたことは、認めねばならないだろう。そして私が専門とする精神医学の内部では、このような「反権威を語る権威」という立場が成立しやすかった。しかし、このような逆説的な力を用いた解決は、他の力を呼び覚ましてそれによって屈服させられる危険性を抱えることとなる。

少なくとも、この10年ほどの精神医学の内部では、「効果が実証されない」アプローチがほぼ排除されるなどの、あいまいさを許容しない逆の極端な傾向が進行している。

これは、私の信念である。日本社会の構造に問題があるとしても、漠然と日本社会に反対する「空気」をつくるという、同じ構造を温存してその内容を置き換えることを目指す解決が、良い結果につながるとは思えない。論争において優位な立場を目指す人は、極端な表現を選びやすい。そうではなく、空気に流されずに、中庸を踏まえて適切に考えることができる個人が増えていくことこそが、遠回りに見えても、日本の誇りを取り戻すための本来の道だと考える。

私は被災地における高齢化の問題について報告したことがある。

復興や国防・財政・少子高齢化などの多岐にわたる分野で、現実に取り組まねばならない課題が日本には数多くある。空転する想像的な議論ばかりで時間を浪費し続けることには、私は強い不安を覚える。「論争」のもたらす興奮に熱狂して鼻血を流している場合ではなく、冷めて現実と向かい合って考えることが求められている。