始めから薬効が疑わしい「江原道精神」

辛い時、必要な時、事あるごとに「○○精神」だの「▲▲運動」だの「□□闘争」だの名付けた用語で北朝鮮住民を急かしてきた。

=====ピンチのたびに登場する「○○精神」

2月12日朝、北朝鮮はまたミサイルの試験発射を行った。何回ものミサイル発射・核実験に国際社会が経済制裁で多角度から圧迫している、まさにピンチ中のピンチなのに、それにもかかわらず、北朝鮮政権が今までWMD開発を続けてこられた理由の一つは、北朝鮮住民の犠牲である。すなわち、北朝鮮当局による住民搾取によってここまで引きずってこられたと言って過言ではない。

しかし、北朝鮮住民にとっていくら当局がWMDを発展させても得することもないので、北朝鮮政権は住民に向けてプロパガンダを繰り返すことで住民を動かしてきた。

黒雲が吹き荒んで 誘惑の風吹きつけても

嚮導星に従って 社会主義守ろう

(※ 嚮導星 : 「方向を導いてくれる星」「北極星」を指す北朝鮮用語で、「人民を導く領導者」の意味で通用される)

これは、300万人の餓死を招いた1990年代半ば、北朝鮮当局が全ての人民に歌わせた大衆歌謡の歌詞である。

北朝鮮は食糧と生活必需品を十分に供給すると約束して配給制国家としてスタートしたが、食糧をくれる代わりに「精神」の重要性を強調しながら口先だけの扇動を繰り返した。辛い時、必要な時、事あるごとに「○○精神」だの「▲▲運動」だの「□□闘争」だの名付けた用語で北朝鮮住民を急かしてきた。

6・25戦争(朝鮮戦争)直後には、住民に対して「千里馬に乗って突っ走ろう」という「千里馬精神」で飢えと不便極まりない生活を乗り越えろと要求し、数百万人が栄養失調で倒れていった「苦難の行軍」時期には、トウモロコシや稲の根、草の根まで食べて耐えろという「江界精神」(※金正日が慈江道地域を訪問した後、この地域が「苦難の行軍」で一番模範になったとして慈江道の象徴都市である「江界市」にちなんで提案されたスローガン)などで、住民の忍耐と我慢を強要した。

今年に入って金正恩は「年末に'万里馬先駆者大会'を招集して'江原道精神'と'万里馬速度戦'を自祝する」と公言した。昨年から北朝鮮は、朝鮮労働党第7回大会を控えて「70日戦闘」を宣布し、それを「万里馬闘争の序幕」であると派手に宣伝したし、「江原道精神」という言葉は昨年12月から登場した。

私は北朝鮮で数え切れないほどの「○○精神」「○○運動」を聞いていたので、詳細内容を聞かなくても分かりそうだった。

金日成時代に革新を象徴する用語が「千里馬」だったが、金正恩はサイズを大きくして「万里馬」という用語を選んだようだ。しかし、今の北朝鮮は馬にたとえるなら一日に一里も走れない病気の馬である。韓国ではソウルから釜山まで3時間あれば行くのに、北朝鮮では同じ距離でも一週間、いやそれ以上かかるのが普通だから。

便りによれば、北朝鮮は昨年、「70日戦闘」に続いて「200日戦闘」まで施行し、大規模な労力動員事業を繰り広げたが、どれもこれといった成果がなかったそうだ。

それもそう。北朝鮮当局がいくら「万里馬運動」「70日戦闘」「200日戦闘」などの宣伝で住民を駆り立てるといえ、用語やスローガンが変わるだけで結果は決まっている。当局からの財源投入なしで、一方的に住民の労働力を搾取してばかりでは意味のある生産物は得られない。

=====「江原道精神」も金日成と金正日の真似にすぎず

再生困難の経済状況を前にして、金正恩は指導者として責任を取って実効性のある対策を提示すべきだが、「江原道精神」という新しいスローガンを打ち出して宣伝扇動で済まそうとしている。

「万里馬運動」も金日成の「千里馬運動」の真似にすぎないのに、今度は金正日の策だった「江界精神」を複製して「江原道精神」なのだ。

年末に一年間の成果を評価して優秀な単位を平壌に招待すると宣伝するなど、立て続けの労力動員で疲れが溜まった内部を結束し住民たちを競争の中に追い込む狡猾なやり口も加わった。

だが、北朝鮮住民の立場からすれば、万里馬も千里馬も五十歩百歩で、江界精神も江原道精神も似たり寄ったりであろう。

北朝鮮の宣伝媒体は江原道精神を「厳しい試練の中でも必勝の信心と楽観に満ちあふれて自力で光明の未来を早める朝鮮革命家らの闘志と英雄的な気性が凝縮された新しい時代精神」であると強調しているが、実は私にとって「江原道」は「群盗」のイメージが強い。

江原道地域に「金剛山発電所」を建設する時期(80年代後半~90年代)、深刻な食糧難が続く中で人民軍たちが住民を略奪して「馬賊団」「匪賊群れ」などと呼ばれた。

略奪がひどい時期には人民軍の群れが白昼にも堂々と強盗・殺人を繰り返したので、一人で出歩くことは絶対危険とされるほど悪名高かったのが、江原道である。

ところが、金正恩はいきなり江原道精神を「見本にすべき時代精神」として打ち出して「全ての人民が見習う」ことを訴えている。

北朝鮮の媒体は、昨年12月の金正恩の「元山(ウォンサン)軍民発電所」視察以来、「江原道精神」という用語を作って連日歌っている。

江原道精神の登場について北朝鮮専門家の多くは、北朝鮮制裁の強化の影響で経済状況が壁にぶつかると北朝鮮当局が住民の犠牲を強制するために打ち出したプロパガンダであると見ている。

また、江原道元山が金正恩の故郷という点から「江原道精神」プロパガンダが今後の金正恩偶像化に向けた事前作業であるとの見方もある。

1月24日付けの労働新聞は1面に「江原道精神で自力自強の勝戦砲声を力強く鳴らせよ」という題目で論説を掲載、「江原道精神は、自力更生のみが生き残る道という透徹した信念を抱き、一から十までの全てを自分の力で解決していく自力自強の精神」と宣伝した。

実は、一般的に北朝鮮で言う「自力自強」とは、国際社会からの制裁と圧力で貿易・投資のルートが遮られた北朝鮮が「我々だけでうまくやっていこう」という趣旨を強調するスローガンだった。

しかし、最近住民の一方的な忍耐と犠牲ばかり訴えるふるまいを見ると「当局からやってあげられることはないから、あなたたちの力でなんとかやっていきなさい」という意味にまで聞こえる。

金正恩は新年の辞から「自力自強」を強調していたが、「江原道精神」という体のいいスローガンまで掲げて住民の労力動員を堂々と強要している。これは、表では愛民を叫びながら本当は住民の犠牲を求める偽善に過ぎず、私の目には一昔江原道で出没していた人民軍「馬賊団」が重なって見える。

=====住民にとっては嘘つき少年の叫び声

確かなことは、北朝鮮当局が次々と新しいスローガンと宣伝手法を開発して世間に出しているが、長い間「○○精神」「○○運動」という名の宣伝・扇動に疲れてしまった北朝鮮住民たちは、もう騙されも従いもしないということである。

経済的な富はウソで扇動してかっこいい用語で惑わして得られるものではない。一生懸命汗を流して努力してこそ得られるのだ。

さらに肝心なのは、そうやって汗を流して生産した結果物が住民たちに公平に分けられる時にこそ、誠実な労働へのモチベーションが続くということである。

現在のような搾取・抑圧の状況が変わらない限り、いくら意気込んだスローガンや脅迫、ウソなどで住民たちの背中を押しても北朝鮮の貧困と食糧難は絶対に解決しない。

金正恩政権は空っぽのスローガンで住民を惑わし彼らの犠牲を求めることを止めて、実質的な経済再生のためにどのような政策と改革が必要かを悩んでほしい。

3代目同じパターンに騙されてきた北朝鮮住民たちがこれからは従わないというのはもちろんのことで、政権に対する不満と裏切られた気持ちが膨らんで金正恩政権にそのツケが回ってくるはずだ。

北朝鮮が「江原道精神」を大々的に打ち出す背景には、国際社会の北朝鮮制裁の煽りで深刻な経済的困難に直面した状況で、これを乗り越えるために過去の「苦難の行軍」時期のような耐乏を正当化するといった思惑がある。

さらに、金正恩が子供時代を江原道・元山で送ったとされおり、金正恩自身も執権以来この地域に格別な関心と愛情を示してきただけに、今年本格化すると予想される金正恩偶像化の作業にこの「江原道精神」が活用される可能性も大いにあると見られる。

先週の日曜日にまた日本海に向けてミサイルの試験発射をした北朝鮮は、またこれを住民たちには「北朝鮮がミサイル大国」になったのだと大々的に宣伝している。この勢いを盛り上げて核・ミサイル開発に必要な労力・財源を住民に求めるだろうと考えられる。しかし、それに熱烈に応える住民は何割いるだろうか。

イ・エラン 韓国・自由統一文化院 院長、1997年脱北