2014年秋「平壌打令」(1)「12年ぶり」訪朝の長い道のり

日朝交流学術訪問団の一員として10月7日から13日まで1週間、北朝鮮を訪問しました。僕にとっては12年ぶりの北朝鮮訪問でした。

 日朝交流学術訪問団の一員として10月7日から13日まで1週間、北朝鮮を訪問しました。僕にとっては12年ぶりの北朝鮮訪問でした。

 北朝鮮を最後に訪問したのは2002年9月の小泉純一郎首相の訪朝取材で、当時、共同通信特派員として駐在していた北京から訪朝しました。それまで約10回訪朝したと記憶しています。しかし、その後、北朝鮮取材のために申請をしてもビザが出なくなってしまいました。関係者によりますと、僕が、北朝鮮を脱出したハンミちゃん一家が瀋陽の日本総領事館に2002年5月に駆け込んだ事件を取材、報道したため、「ブラックリスト」に上がったためらしいといいます。

 実は、僕はこの2002年5月の「瀋陽事件」以降も2回訪朝しているのですが、2002年9月以降、ともかくも、この12年間、ビザが出なかったのは事実です。現在、僕は立命館大学の客員教授も務めているので、学術訪問団の一員として訪朝を申請したところ、今回はなぜかビザが出ました。共同通信を2012年3月に定年退社したからなのかも知れません。でも、ジャーナリストとしても活動しているので、北朝鮮側の真意は分かりません。

 12年ぶりの北朝鮮でした。それほど驚くことはありませんでしたが、いろいろ考えていたことを確認はできました。

「フォーサイト」に、北朝鮮分析を書かせていただいているので、まずは12年ぶりの訪朝について報告をさせてもらおうと思いました。僕はソウル特派員時代に考えたことを素材に『ソウル打令』とか『コリア打令』とかいう本を書いています。「打令」(タリョン)というのは韓国語で「ぼやき節」「繰り言」「嘆き節」とかいうようなニュアンスの言葉です。「身世打令」(シンセタリョン)といえば、自分の身の上話をすることです。この次は「平壌打令」を書こうと思っていたのですが、北朝鮮に行けなくなり、「平壌打令」はまだ書くことができていません。今回は12年ぶりの平壌について、僕の「嘆き節」を書いてみようと思います。

台風で4時間遅れの東京出発

 東京を10月6日に出発しました。しかし、出発早々からアクシデントでした。台風18号により、午前9時羽田発北京行きの飛行機は、台風通過を待って午後1時出発になり、4時間遅れの出発です。飛行機の出発遅れは早朝に自宅を出なくてよいのでむしろ歓迎でしたが、この延発のために、この日に北京で北朝鮮入国のビザを取ることができなくなりました。

 北朝鮮旅行の問題点は、この「ビザ取得」にあります。事前に朝鮮総連を通じて受け入れ団体から了承を得ているのですから、そのまま入国を認めるとか、北京空港で旅行社からビザを受け取るとすることもできると思いますが、実際には、北京の大使館(領事部)にビザを申請しなければならないのです。このため、北京に1泊する必要が生まれ、旅費がそれだけ高くなります。

 今回の訪問団は、団長の和田春樹東大名誉教授や、小此木政夫慶応大学名誉教授など全体で僕を含めて10人でした。大変、平均年齢の高い訪問団で、既に還暦を越えている僕でさえ、下から4番目でした。最高齢の方は85歳、最年少は40代で圧倒的な若手の慶応大学のN氏でした。

 あらかじめ、訪問団としての意思統一のようなものはありませんでした。それぞれが実績のある方たちなので、何を考えているのかなどは確認をせずとも一定の理解があったと思います。羽田空港で初めて全員が顔を会わせ、北京のホテルでの夕食会でようやく簡単な打ち合わせとなりました。しかし、こちらから日朝交渉担当者、外交安保問題研究者、経済研究所専門家、朝鮮近代文学史専門家などへの面談と、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の故郷であり開発が進んでいる元山訪問を希望しましたが、北朝鮮側からは何の返事もなく、要するに行ってみなければ何も分からないという状況でした。

無愛想なビザ発給

 10月7日の北京は、数日前までのPM2.5のスモッグが噓のようになくなった秋晴れで、まさに「北京秋天」でした。北京の北朝鮮大使館の領事部が午前9時半に開くというので、その時間に合わせて領事部に行きました。領事部は大使館と地続きの同じ敷地内にあるのですが、入り口は異なります。大使館正門は両方に中国の武装警官が1人ずついて、門も立派なのですが、領事部はまさにどこかの会社の「裏口」「通用門」という雰囲気です。

 バスで領事部に着きましたが、9時半を過ぎているのに、領事部の門は閉まったままでした。旅行社のガイドさんが領事部を警備している武装警官に尋ねたところ、先に、日本人の団体がビザをもらいに入っていて、中から鍵を掛けてしまったというのです。初っぱなから、北朝鮮らしい「社会主義的対応」の洗礼です。

 ガイドさんがインターホーンで入れてくれと訴えても、領事部からは無回答。僕もインターホーンで何度か「ヨボセヨ」(もしもし)とやってみましたが、うんともすんとも返事はありません。

 領事部の外で30分以上待たされたのですが、高齢の先生方からは何の文句も出ません。僕はイライラする方なので、領事部の門でも叩いてやろうかとも思うのですが、中国の武装警官がいる上に、みなさん実に忍耐強くお待ちなので1人だけ騒ぐわけにもいかず、ひたすら待つしかありませんでした。近年、北朝鮮は観光に力を入れていると言いますが、「これでは観光客も怒るだろう」という思いがこみ上げてきます。

 午前10時をかなり過ぎて、ようやく中から日本人の団体が出てきて通用門が開きました。先にビザをもらった日本人の団体の人たちは「あれ、日本人だ。私たち以外にも北朝鮮へ行く人たちがいるんだ」などと言っていました。

 私は1999年から2003年まで共同通信の北京特派員をしていたので、当時はこの領事部によく来ていました。ですから、この領事部がいかに愛想のないところか一応は分かっていましたが、久々の無愛想な対応に「変わらないなあ」と感慨を新たにしました。

 領事部には職員が1人しかおらず、しかも、その職員はビザを申請した人たちから見える空間にはおらず、奥の部屋にいます。だから、この唯一の職員がちゃんとビザ業務をやっているのか、やっていないのかも直接は分からないわけです。

 ようやく領事部の建物の中に入り、10人分の旅券を預けました。

 北朝鮮のビザについて、知らない方のために一応説明しておきます。北朝鮮は普通の国々が行っているように、旅券にビザのスタンプを押すというやり方をしません。旅券にスタンプは押さず、顔写真を添付した別途のビザ用紙が交付されるのです。ですから、旅券には北朝鮮のビザのスタンプは残りません。ですが、例えば、北朝鮮から北京経由で帰国すると、その日に中国に入国したスタンプと、その日のうちに中国を出国したスタンプが押されているわけです。しかも、その中国に入国したスタンプの前には中国を出国したスタンプが押されていて、どこかの国に行っていたらしい痕跡は残ります。法務省の職員も北朝鮮のビザや北朝鮮の出入国のスタンプが旅券になくても、旅券をちゃんと見ると北朝鮮へ行ったということは分かるわけです。

 領事部の窓口に10人分の旅券を渡してかなりの時間がたつのに何の音沙汰もありません。われわれの目の前には誰もいないわけで、奥の部屋にいる職員に朝鮮語で「まだですか?」などと言っても返事はありません。かなりたってから、領事部の中年の女性職員が出てきて、顔写真の大きさが駄目だと言います。正確に縦4センチ横3センチになってないというのです。その大きさの紙型を持ってきて同じ大きさにしろと旅券が返されました。みんな、慌てて、紙型に自分の顔写真の大きさを合わせたのですが、違いは数ミリです。「まったく杓子定規だなあ」と思いながらも、早くビザをもらわないといけないので、黙って顔写真のサイズを調整しました。

 その後も、かなり長く待たされ、ついに午前11時前になりました。飛行機は午後1時過ぎ出発でしたから、本来は、出発2時間前の午前11時には空港についていなければなりません。時間に余裕がなくなってきたので、僕は、朝鮮語で少し大きな声で「飛行機が出る時間まで余裕がないので早くしてくれませんか」と訴えると、少しして女性職員が現れ、ようやく10人分のビザが手渡されました。僕にとっては12年ぶりのビザです。事前に、今回の訪問団の受け入れ先である北朝鮮の対外文化連絡協会(対文協)から僕の受け入れも了承するという連絡を受けていたのですが、「12年ぶりのビザだ」と声を出し、同行の先生方の失笑を買いました。

牡丹峰酔い

 北京空港に急ぎ、出発ゲートに行くと、既にゲートの外には尾翼に北朝鮮国旗がある高麗航空機が待機していました。

 搭乗を待っている人たちの中には欧州地域の人たちの姿が目立ちました。搭乗を待ちながら本格的なテレビカメラで撮影をしている人もいました。カメラマンが使っていた言葉は、正確には分かりませんが、スペイン語のような感じがしました。

 高麗航空機に乗って、平壌までは約2時間(実際の搭乗時間は約1時間半)です。飛行機の中では、機内設置のテレビで、ずっと北朝鮮で人気の牡丹峰(モランボン)楽団の公演が流されました。

 牡丹峰楽団は金正恩時代を象徴する芸術グループとされ、北朝鮮にいる間中、公演の映像がいたるところで流されていて、メロディを覚えてしまいます。北朝鮮にいると「牡丹峰酔い」のような症状になるほどでした。

 牡丹峰楽団が登場したのは金正恩政権がスタートして間もない2012年7月です。牡丹峰楽団は金正恩第1書記がつくった楽団とされています。この2012年7月の初公演では米映画「ロッキー」のテーマソングが演奏され、舞台の背景には映画「ロッキー」の場面、シルヴェスター・スタローンが走るシーンが映し出されました。また、ミッキーマウスなどディズニーのキャラクターの着ぐるみがたくさん登場し、西側の軽音楽などもたくさん演奏されました。メンバーの女性は美人で、そろってミニスカート姿でした。最高指導者の指導によってこの楽団がつくられ、かなり西側文化が反映された初演奏会が盛大に行われ、しかも、これがテレビで放映されました。

 金正恩第1書記は公演を見て「人民の嗜好に合う民族固有のものを創造するとともに、外国の良いものは大胆に取り入れなければならない」と語りました。僕は当時、これは「上からの文化小革命」だと思いました。

 牡丹峰楽団はその後も大変な人気を集めていますが、金正恩第1書記の「唯一的領導体系」の確立が進むにつれて、彼女たちの公演内容に大きな変化が生まれます。演奏曲は金正恩第1書記の偉大さを称えるものが増え、彼女たちの服装もミニスカートから軍服へと変化していきます。

 飛行機の中で繰り返し流れたのは今年4月16日に平壌の4・25文化会館で行われた「朝鮮人民軍第1回飛行士大会参加者のための牡丹峰楽団祝賀公演」でした。

 彼女たちは軍のベレー帽に、パイロットのような黒い革ジャンパー、茶色の軍人のズボン、革のゲートルのような靴というスタイルです。美女が軍服を着て軍事歌謡を歌い金正恩第1書記を礼賛するというのは奇妙な雰囲気があります。

 公演は「首領様は永遠の人民の太陽」という金日成(キム・イルソン)主席を称える歌から始まり、金正日(キム・ジョンイル)総書記への思慕を歌った「将軍さまへの思い」へとつらなり、「人民の歓喜」「わが元帥様」といった金正恩第1書記を称える歌へと自然に誘導する構成です。

 この公演で歌われた「クイ オプシ モッサラ」(その方なしでは生きていけない)とか「ウリヌン タンシンパッケ モルンダ」(われわれは貴方だけしか知らない)という言葉が奇妙に耳に残り、平壌滞在中、ずっと頭の中に残っていたような気がします。「その方」「貴方」とはもちろん金正恩第1書記のことです。

スチュワーデスもイメチェン

 高麗航空の機内食はハンバーグに飲み物という簡単なものでした。昔、高麗航空に乗った時の機内食はかなり見劣りするものでしたが、今回は簡素ながらもそれほど味が悪いものではありませんでした。飲み物はサグァ(リンゴ)ジュースとポクスンア(桃)ジュースが人気でした。

 北京空港で撮影をしていたカメラクルーとみられる男性2人がスチュワーデスの撮影を始めましたが、怖そうな高麗航空の男性職員がやってきて撮影を制止しました。そのうちの1人は、スチュワーデスを撮っているのではなく、上映している牡丹峰楽団を撮っているのだと抗弁しましたが、結局は、この怖そうな男性職員に止めさせられてしまいました。

 このあおりで、僕も平壌行きの飛行機内でスチュワーデスさんを撮るのには失敗しましたが、掲載した写真は10月13日に平壌から北京へ帰る時に乗った機内でのスチュワーデスさんです。

 スチュワーデスさんはそれほど写真を撮られるのを嫌がっている様子はなく、その辺が以前とは違った雰囲気でした。彼女たちのユニホームもかつてのものより洗練されたもので、イメージチェンジは明らかです。それは社会主義的な堅苦しさがとれたというようなイメージの変化でした。ですが、北朝鮮の女性の魅力は「清楚さ」です。清楚さを失わずに、親しみやすいというのは、言うは易しですが、なかなか困難なことだと思います。商業化が進むと、親しみやすさは出ますが、清楚さは失われがちです。北朝鮮社会の変化が、北朝鮮の女性をどのように変化させていくか、今後も注目したいところです。

 僕の隣には西洋人の男性が座っていました。どこから来たのかと聞くと、英国だと言いました。なんでも、高校で働いていたが、もう引退して休暇で北朝鮮観光に来たというのですが、「ホリデイを北朝鮮で」というのもなかなかの好奇心です。僕が「かなりミステリアスな国だからね」と言うと、彼は「そうだ」と微笑んでいました。

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ビザがない!?

 約2時間の「牡丹峰酔い」の中で、ついに「革命の首都・平壌」に到着です。

 これまでの訪朝で見慣れた金日成主席の肖像画が掲げられた空港ターミナルが見えて来ると思ったのですが、飛行機の窓の外を見ても何もありません。ターミナルも何もないところで飛行機を降りました。

 乗客たちはめったに来ることができないところだからなのか、飛行機のタラップを下りると、しきりに記念写真を撮っています。僕も同行のメンバーに写真を撮ってもらって空港ターミナルに向かうバスに乗り込みました。バスに乗った時に、慶応大学の小此木先生が「平井さん、写真」とおっしゃるので小此木先生の方を向きました。小此木先生がシャッターを切ると、「平井さん、書類が落ちたよ」と言うのです。小此木先生の写真撮影に応えるために体の向きを変えた時に、旅券の間に挟んでいたビザや税関申告書などがすり落ちたのです。確かに、旅券を見ると、さっきまで挟んでおいた書類一式がありません。

 心の中で「小此木先生、なんで、あんなタイミングで写真撮ろうと言うの」と思いながら、慌ててバスを降りました。バス周辺を探すと、バスの車体の下に書類のようなものが落ちています。バス上ですり落ち、風に飛ばされて車体の下に入ったようです。慌てて、バスの車体の下に手を伸ばしますが届きません。もっと、体ごと車体の下に入ると何とか手が書類に届きました。ここで、もしバスが動き出せば一巻の終わりです。しかし、ビザなどの書類がなければ入国できません。バスの運転手に事情を説明する暇もないので車体の下にぐっと潜り込んでようやく書類をつかみました。税関申告書など一式をホッチキスでとめていたのが不幸中の幸いでした。「バスよ、動かないでくれ」と願いながら、ようやく書類をつかみ、バスの下から脱出しました。

「これで助かった」と思って、書類一式を見ると、北京でもらったビザだけがありません。これはホッチキスでとめていませんでした。空港にはかなり風が吹いていましたから、ビザは飛んでいったのだろうと思いました。「あれ、肝心のビザだけ、またバスの下か」と思って再び、バスの車体の下を探したのですがありません。平壌までやってきて「ビザをなくしました」で通用するかなあと不安感がこみ上げてきます。必死で探しますがありません。「くそ、なんで北朝鮮は旅券にビザのスタンプを押さないのだ」と怒りが湧いてきます。絶望感がぐっとこみ上げてくる中で、ふと、バスの中をみると、何か紙切れのようなものが落ちているではありませんか。すぐに駆け寄って、この紙を確認すると僕のビザでした。「助かった」というのが偽らざる心情でした。この様子を横で見ていた小此木先生は「変なタイミングで、写真なんて言っちゃって悪かったねえ」と言って下さいました。別に、小此木先生が悪いわけではないのですが、そのタイミングで指の圧力が弱まり、書類が落ち、風でバスの中や車体の下に落ちたのです。でも、僕の心の中の本音は「小此木先生、そうですよ」というものでした。

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平壌空港はリモデリング中

 バスで空港ターミナルまで向かったのですが、かなりの距離を移動しました。その途中で、見たのは膨大な数の軍人が空港内で工事を行っている光景でした。数は100人ではきかないと思います。少なくとも1000人以上の軍人たちが動員されていました。近くで見たわけではないので詳細は分かりませんが、滑走路の拡張工事を行っているのではないかという印象を受けました。

 こんなに大規模な工事をして滑走路を大幅に拡張しても、就航する飛行機がそんなにあるのかなという疑問を持ちましたが、とにかく大規模な空港拡張工事が行われていました。

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 香港のサウスチャイナモーニングポスト紙は2013年7月29日付で、金剛山空港の補修改装を請け負った香港の「PLT建設設計会社」が平壌の順安空港(平壌空港)のリモデリングも請け負うと報じました。北朝鮮は2011年末に金剛山観光を活性化させるために、元山市の軍用空港である葛麻(カルマ)飛行場の第1段階の拡張工事を発表しました。これに香港のPLT建設設計会社が計画案を提出し、採用されたと言います。

 金正恩第1書記は首都の飛行場が経済特区の飛行場より劣ってはならないとして、平壌空港のリモデリングにもこの会社に計画案を出すように求めたと言います。葛麻飛行場の拡張工事は2450メートルの滑走路を3500メートルに拡張し、12機の飛行機が受け入れられる規模に拡張する計画だったはずです。

 しかし、この計画は2012年の事実上の長距離ミサイルである人工衛星発射や2013年2月の第3回目の核実験で工事が中断したという話で、現在はどこまで工事が進んでいるかの情報がありません。

 一方、首都・平壌の玄関である平壌空港では大規模な工事が進んでいるわけです。

 朝鮮中央通信は今年7月11日、金正恩第1書記が平壌空港の空港ターミナルの現地指導を行ったと報じました。

 金正恩第1書記はこの時、「平壌空港のターミナルは平壌の関門、わが国の顔同様であるとし、第2航空ターミナルを建築形式や内容において社会主義文明国の体裁にふさわしい労働党時代の誇らしい建築物にうち建てなければならない」と語っています。

 さらに興味深いのは「建築においても主体性を徹底的に固守するのが重要である」としながら「世界的な趨勢と他国のよいものを受け入れるとともに、民族性が生かされるように仕上げなければならない」と指示したことです。

 金正恩第1書記はここで「民族性を生かす」ことと同時に、「世界的趨勢と他国のよいもの」を受け入れることを強調しています。かつての北朝鮮は「世界が変わってもわれわれは変わらない」ということを言い続け「自力更生」を基本路線にしてきました。スイスに留学した3代目だけに「他国のよいもの」は受け入れ、「世界の趨勢」に遅れをとってはならないと強調しているのです。その象徴が平壌空港であるという指示でした。

 金正恩第1書記は「空港ターミナルの到着ホールと出発手続ホール、出発待機ホール、休憩室、面談室、食事室などを旅客の便宜を最高の水準で図りながらも建築美学的に、造形芸術的に遜色がないように建設すべきである」と述べています。

 かなりの時間、バスに乗ってようやく出入国手続きをする空港ターミナルに到着しました。ところが、われわれが入った建物は近代的なターミナルが完成するまでの仮事務所でした。この仮事務所横には既にほぼ完成した新ターミナルがあり、その前にはターミナル内に運び込まれる予定の内装用品などが積まれていました。

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「低姿勢で厳格な審査」という「初体験」

 入国審査と税関審査の行われる仮事務所の中に入って行きました。到着した人数はそれほど多くないのに、中は雑然とした雰囲気です。入国審査の方は簡単に終わりましたが、税関審査が大変でした。

 税関審査の列に並んだのですが一向に進みません。気になって前の審査を受けている人たちの様子を見ると、パソコン、携帯電話、書籍などをすべて出してチェックしています。

 旅行社から税関申告書を2枚渡されました。「なんで同じものを2枚も渡すのか」と思ってよく見ると、1枚は入国時の税関申告書、1枚は出国時の税関申告書です。どうやら、持ち込んだパソコンや携帯電話などをちゃんと持ち出せということのようであります。

 僕は2002年秋までに10回ほど北朝鮮を訪問していますが、今回ほど厳格な税関審査は初めてでした。旅行中の暇つぶしにと思って、浅田次郎さんの文庫本を3冊ほど持っていたのですが、これはどういう内容の本だと尋ねられました。

 団長の和田春樹先生などは自身が書かれた北朝鮮に関する書籍などを持っていて、税関で少しもめました。受け入れ団体の対文協の担当者が来て、これは対文協への提供品であると説明し、ようやく通関しました。また、パソコンをインターネットにつなぐ機器を持っている人がいて、審査の軍人が何に使うものなのか理解できずもめましたが、税関審査の上の方の職員はさすがにインターネット関連機器と知っていました。この機器は結局、持ち込みが許されず、税関で保管扱いになり、出国時に持ち出すことになりました。インターネットのWi-Fiが飛んでいないのですから持って入っても問題はないと思うですが、どこかに電波が飛んでいるところがあるのでしょうか。

 北朝鮮の税関申告書には裏面にパソコンなど所持品を書き込む欄があり、僕はパソコン、携帯電話、カメラ、ビデオカメラなどはもちろん税関申告書に書きましたが、X線でカバンを調べられ、「雨傘の横にバッテリーみたいなものがあるでしょう」と言われました。「カメラやビデオカメラのバッテリーはありますよ」と答え、カバンを開けると、審査の軍人が「これですよ、これ」と雨傘の横にあった荷物を引き出します。結果的にはカメラのフラッシュでした。「ああ、カメラ用のフラッシュですよ」と開けて見せると「ああそうですね。すみませんでした」という答えが返って来ました。

 今回の税関審査で実に奇妙な体験をしました。通常、厳しい審査を受けるときは税関職員の姿勢も厳しいのが普通です。ところが、今回は僕がこれまで経験したことのないような厳しい審査をしているのに、審査をする軍人がとても低姿勢なのです。「いや、長く待たれてお疲れですね」「申しわけありませんがカバンを開けてもらえますか」「いろいろ言ってすみませんねえ」とこちらを慰労しながら、荷物チェックをするのです。普通は居丈高な態度で「開けろ」「これは何だ」という姿勢でやってくるので、それにカッとするわけですが、厳しいことをやっているのに丁寧で、低姿勢な言葉で接してくるので、怒る気持ちが出てきません。これは奇妙な経験でした。

 昔、板門店取材で、軍事境界線付近でカメラを持ってうろうろしていてよく北朝鮮の軍人と言い合いになりましたが、その時とはまったく異なった雰囲気です。

「低姿勢で、厳しく」というのは、金正恩時代の1つの変化かも知れません。北朝鮮が観光による外貨収入などを今後の課題にする中で、独自の政治体制を維持するために情報統制を維持するしかなく、しかし、観光客を増やすには観光客に嫌な感情を持たれてはなりません。今回、初体験の「低姿勢で、厳しく」という税関の軍人たちの姿勢は、北朝鮮なりの努力なのかもしれません。

黄昏の平壌へ

 厳しい通関を終えてみると平壌空港で最後の税関通過者はわれわれとなっていました。受け入れ団体の対文協から日本局の李副局長と金さんが出迎えに来ていました。僕はこれまで約10回訪朝していますが、初めて会う人たちでした。

 ですが、金さんは「平井先生は最初に共和国に来られたのは1992年ですね」と語り、過去の訪朝歴も知っており、僕のファイルがあるのだと実感しました。

 訪問団のメンバーは10人でしたが、大型バスが用意されていました。これはバスの中から写真を撮るのには左右に自由に移動でき便利でした。対文協の2人も軍の検問所や事前に写真撮影を控えるようにと言った場所以外では、私たちがバスの中から写真やビデオ映像を撮ることに何のクレームもつけませんでした。

 僕にとっては12年ぶりの平壌です。平壌空港から市内までの道をバスの中から眺めていて感じたのは、平壌が何となくこざっぱりとして、少し明るくなったような印象でした。そして、この印象は約1週間の北朝鮮滞在中にさらに自分自身の中で確認されていきました。

 ホテルは平壌では1番老舗格の高麗ホテルでした。高麗ホテルに着いた時はもう日が傾き、黄昏の平壌となっていました。部屋の割り振りを決めて、北朝鮮滞在中の日程の説明がありました。宋日昊(ソン・イルホ)朝日国交正常化交渉担当大使を含めて5部門と意見交換をして、党創建記念日の10日に元山を日帰り訪問する予定が紹介されました。訪問団からは党創建史跡館への訪問や、コンサート鑑賞、ショッピングセンター見学などがしたいという要請が出され、対文協側でも調整してみるということになりました。

 夕食は高麗ホテル近くの歩いてすぐのレストランでした。在日朝鮮人が経営しているレストランのようで、女性の御主人の話では開業して10年ということでした。従業員のサービスもよくて、北朝鮮に「市場(いちば)経済」が浸透し、サービス部門に従事する人たちの姿勢に大きな変化を感じました。

 僕はカルビタンを頼んだのですが、韓国のカルビタンとはちょっと違う味でした。韓国のカルビタンは肉汁の甘さがあるのですが、この時食べたのは辛いユッケジャンの中にカルビが入っている感じでした。期待した味とは異なった味でしたが、カルビの量も多く、おいしく頂きました。平壌の最初の夜はこのようにして更けていきました。(つづく)

執筆者:平井久志

ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。

(2014年10月29日「新潮社フォーサイト」より転載)

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