日産「ゴーン逮捕」で「大いなる後退」を憂う--大西康之

1999年5月末、当時日経欧州総局の記者だった私はパリの日航ホテルに向かっていた。ドアを開けると、そこにあの顔があった。
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Bloomberg via Getty Images

 あの時の覚悟を、我々はこんな形で終わらせてしまうのだろうか。

 11月19日、日産自動車の会長、カルロス・ゴーンが有価証券報告書虚偽記載の疑いなどで東京地検特捜部に逮捕された。どういう経緯でこんなことが起きたのかは検察の捜査結果を待つしかないが、ゴーンが表舞台に戻ることは2度とない。それとともに、彼が日本の企業社会に持ち込んだものすべてが消えてしまうのかもしれない。それは日本経済にとって「大いなる後退」になる。

ただならぬオーラ

 1999年5月末、私はパリの日航ホテルに向かっていた。

 この年の3月、瀕死の状態に陥っていた日産自動車は仏ルノーから36.8%の出資を受け、ルノー傘下で再建を目指すことが決まっていた。ルノーはCOO(最高執行責任者)以下、数名の経営陣を日本に送り込むことになった。

 当時、私は『日本経済新聞』欧州総局(ロンドン)で記者をしていた。そこにルノーから電話が入った。

「今度、日産に乗り込む経営陣が『日本のメディアが日産をどう評価しているかを聞きたい』と言っている。日産に詳しい記者をパリに送ってくれ」

 私はロンドンに来る前、日本で自動車業界を担当していたことがあり、日産も取材対象にしていた。「お前が行け」ということになり、ユーロスターに乗ってパリに向かったのだ。

 ルノーが指定した日航ホテルの一室のドアを開けると、そこにあの顔があった。

 眉毛の両端がつり上がり、への字に結んだ口とつながって、顔に大きなバッテンが書かれている。射竦めるような視線でこちらを睨みつけている。

 カルロス・ゴーン、当時45歳。

 自分と10歳しか違わないはずなのに、男が発するただならぬオーラに圧倒された。財務担当のパトリック・ペラタら、のちに「四銃士」と呼ばれるゴーンの側近が両脇を固めている。開口一番、ゴーンはこう言った。

「トヨタと日産はどちらも日本で車を作っているのに、なぜこうも業績が違うのか」

 それは聞かれるだろうと思って答えを準備していた。

「今はそれほどでもないが、大衆車を作り始めた頃のトヨタと日産には品質に大きな差があった。特にタクシーで悪路を走ると、頑丈なトヨタの車に比べ、日産の車はすぐにサスペンションが効かなくなり、エンジンが壊れるのも早かった。日本ではそのイメージが今も残っている」

 ゴーンは「なるほど」という顔をした。

 それからしばらく、ゴーンは機関銃のように質問を浴びせてきた。はじめは日産のブランド力や販売力についてだったが、最後は経営陣1人1人に対する評価まで聞いてきた。

「ミスター塙(義一、当時の会長兼社長)はどうだ」

「最悪のタイミングで社長になったが、日産を救おうと私心なく経営している。立派な経営者だと思う」

 私がそう言うと、ゴーンは「そうだろう」という感じで頷いた。

「カー・ガイがいない」

 実は、私はルノーによる日産への出資が決まる直前、ルノー本社を訪れた塙を追ってパリに行った。シャルル・ドゴール空港で待ち構えていたのだが、裏口から逃げられ、帰国の便でなんとか捕まえるため、エールフランスのファーストクラスに箱乗りし、機中で塙にインタビューした。

 早い時期から「プリンス」と呼ばれ、なるべくして社長になった男だが、不運なことに存亡の危機での登板となったため、それまではエリート故のひ弱さが目立っていた。だが、出資を期待していたダイムラーに逃げられ、後がなくなった辺りから、なりふり構わぬたくましさが見えてきた。機中インタビューの時も、「俺は絶対に日産を救うんだ」という気迫が伝わってきた。ゴーンには、その印象を素直に伝えた。

 拷問に近い質問攻めが終わると、ホテルの和食レストランに場所を移した。四銃士は箸に悪戦苦闘していたが、ゴーンは器用に蕎麦を手繰っていた。練習済みだったのかもしれない。食事が終わるとゴーンが言った。

「今日はありがとう。我々は2週間後に日本に行く。最後に我々へのアドバイスが欲しい」

 少し考えてから、私はこう言った。

「今の日産の最大の問題は、経営陣にカー・ガイ(クルマ野郎)がいないことです。ホンダやトヨタの役員にはカー・ガイがいて、彼らはクルマの話を始めると止まらない。日産の役員はマクロ経済や政治の話が好きで、クルマの話をあまりしない。ビューロクラティック(官僚的)な人がほとんどです」

 ゴーンは深く頷いた。

「結果にコミットする」風土

 その後、日本に乗り込んだゴーンの活躍ぶりはご存じの通りだが、しばらくして小さな新聞記事が出た。

「テストコースで役員会議」――。

 ゴーンが日産の経営陣を連れてテストコースに行き、「たまには自分の会社のクルマに乗りましょう」と呼びかけた。ゴーンのスピード狂はルノー時代から有名で、テストコースで時速200キロメートル以上を出して周りを青ざめさせた。記事を読んだ私は「ああ、ちゃんと覚えていてくれたんだ」と、独りごちた。

 しかし、ゴーンはこうした古株の役員より、現場の部課長クラスの意見を重んじた。事業部門を超えた「クロスファンクショナル・チーム」を立ち上げ、現場が感じていた問題点を次々に解決していった。

 その中でゴーンは、天下り先を確保する見返りに多少値段が高くても部品を購入する「系列」を解体し、世界中から最も安くて品質の高い部材を購入するようにした。系列解体は「ゴーン・ショック」と呼ばれ、日本鋼管(NKK)・川崎製鉄の合併で「JFEホールディングス」が誕生するきっかけにもなった。金融機関などとの株式の持ち合いも解消し、頭のいい社員たちが「言いっ放し」で終わりがちだった社内に「結果にコミットする」風土を醸成した。

 どれも日本の大企業の経営者が「必要だ」と思っていながら、実行できずにいた改革だった。誰もが「再建は難しい」と思っていた日産の業績はV字回復し、ゴーンは「カリスマ」になった。

 あの時、自分たちの決断力のなさ、実行力のなさを見せつけられた日本の経営者は、ある種の覚悟をしたはずだ。

「ここまでやらなければ世界と戦えないのか。もう馴れ合いの経営には戻れない」と。

「覚悟」を思い出すべき

 ゴーンがやってきたとき、日産の中枢にいた役員がこんな話をしていた。

「ルノーの出資が決まる前、メーンバンクの日本興業銀行(現みずほ銀行)にも見放された我々は、『日産という会社が社会に存在する意義はあるか』と真剣に話し合った。そして『まだ社会に貢献できる』という結論に達し、最後の望みを託してルノーとの交渉に向かった」

 塙以下、日産の経営陣は覚悟を決めていた。「どんなに苦しくても、日産はここで変わる」と。

 ゴーンが持ち込んだ改革と、日産の役員・社員の覚悟が呼応して、初めてあの奇跡の復活が実現した。それが世界と戦うための唯一の道だった。

「ゴーンは悪くない」と言っているのではない。私的な目的で会社の金を使って損害を与えていたのであれば「特別背任」も問われかねない犯罪であり、経営者としては失格だ。だが19日の記者会見で西川廣人社長が言ったように、ゴーンが来てからの19年間に日産で行われた数々の改革は、「従業員や取引先の努力の積み上げ」でもあり、今回の事件で「全否定」されるべきものではない。

 大統領の職にありながら、ホワイトハウスで実習生と情事に及んだビル・クリントンの恥ずべき行為は許されないが、彼の成し遂げた中東和平は米外交の大きな成果だ。「クリントンはけしからんから中東和平もダメ」ではない。

 むしろゴーンが去る今こそ、我々はグローバル競争と正面から向き合おうとした「あの時の覚悟」をもう一度、思い出すべきだ。「やはり日本的経営でいいのだ」では、時計の針が19年前に戻ってしまう。(文中敬称略)

大西康之 経済ジャーナリスト、1965年生まれ。1988年日本経済新聞に入社し、産業部で企業取材を担当。98年、欧州総局(ロンドン)。日本経済新聞編集委員、日経ビジネス編集委員を経て2016年に独立。著書に「稲盛和夫最後の闘い~JAL再生に賭けた経営者人生」(日本経済新聞)、「会社が消えた日~三洋電機10万人のそれから」(日経BP)、「ロケット・ササキ ジョブズが憧れた伝説のエンジニア 佐々木正」(新潮社)、「東芝解体 電機メーカーが消える日」 (講談社現代新書)、「東芝 原子力敗戦」(文藝春秋)がある。
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(2018年11月21日
より転載)