右や左や上や下、いつからこれほど家族の絆礼賛となったのか。
10歳の児童を対象とする「2分の1成人式」での親への感謝。涙。BGMを背にした教師もまた涙。感謝すべき親を持ってない子どもは、そこのけ。シラける者は「いない」ことになっている。
かつて、家族という重荷からの解放をかかげた勢力はどこへ消えたのか?
独り身をつらぬけば、「あいつは"こっち"だ」と頬に汚れた手の甲をあてられる。「子持ちでなければ子どもや親の気持ちなんてわからない」と、なぜか上から目線で嘆息される。家族持ちの上司や同僚に、独り身は身軽だと逆忖度され、過大な仕事を押しつけられる。
あんたに子どもや家庭を作ってくれなんて頼んじゃいない! 上下左右を家族の絆派に囲まれる独り身は、インモラルな一言を胸につつしむ。
そんなこんなで、えも言われぬ孤独にひたることしばしばの独り身。
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この国では、「ため」「ゆるみ」が日に日に目減りしている。
ヨーロッパ各国ではムスリムの社会的統合がうまくいっていないこともあり、テロが相次いでいる。こうした分析が耳タコになった日本では、やっぱり移民なんて害毒だとのムードもただよう。
少子高齢社会となろうが、外国人労働者の受け入れ拡大は事実上タブーだ。すでに巷は外国人労働者に広く支えられているのに、彼・彼女は「見えない」ことになっている。
反面、戦後日本で最大の民族マイノリティの一つ、在日コリアンの統合が「わりとうまくいってきた」面には、目もくれられない。
7月16日には、在日コリアンを「ゴキブリ」とみなす一団が、川崎市中原区でデモを行なった。一部急進右派は、日本国という健康体を侵す「異物」の排除にやっきになっている。
害虫を駆除せねば! 病原菌を根絶せねば!
これは、どこか19世紀後半の社会帝国主義をほうふつとさせる。当時のキーワードは「国家の健康」だった。健康を維持すべく、人々のエネルギーと商品のはけ口として、植民地が求められた。
他方、今日は国外へエネルギーを放出することはむずかしい。そこで、国家の健康維持のため、国内の「異物」を排除・摘出することに血道があげられる。
正真正銘、日本人たることを証すべし。1920年代、アメリカに渦まいたナショナリズムの大波「100%アメリカニズム」の日本版ともいうべき「100%ニッポニズム」が、この国に少しずつ広がっている。
100%アメリカニズムの延長上には、アメリカと日本の開戦後、強制収容施設に送られた日系アメリカ人の屈辱と苦境があった。日系アメリカ人は、米国民として信用ならない存在と認定された。
ひるがえって今日、100%ニッポニズムのほこ先は最大野党の代表に向かっている。戸籍という、日本国民ならではの証をさらすべし。その圧を受けつづけた蓮舫氏は、7月18日、ついに戸籍謄本の写しを一部公開した。
「なぜ公開するんだ? 外国に出自を持つ少数派の差別を助長するだけだ」との声が、リベラルからはあがる。とはいえ、公党の代表として国民に「異物」扱いされることが、どれほど恐怖だったか......。
この一幕は一見できの悪い茶番劇だが、その実、100%ニッポン人を自任する一部国民が仕立てた重大な悲劇だろう。
自己に都合が悪ければ、即「在日認定」されるネット世上。テロがつづけばそれに慣れてしまって衝撃度が低くなる。同じく、自らの価値観に合わない人物へ「在日」という非国民のレッテルを貼る営みが、目くじら立てられることは少なくなった。
ただ、自他ともに「在日」と認める筆者からすれば、こうした文化はやはり深刻だと思う。論理や根拠にもとづいて在日コリアンの存在を批判しようとする人びとの声もまた、圧殺されるからだ。
「在日」を語ることがいとも華麗なダンピングを受けた今日、これを真面目に語ったり、これに誠実な批判の刃を向けることは、それこそアホらしい所業として放棄されてしまうだろう。
悪貨が、色とりどりの良貨を駆逐しつつある。
そのうち、純なる日本国民の再生産に寄与しない独り身、ダブル(ハーフ)、LGBTもまたニッポニズムを疑われ、戸籍を示せと迫られ、あげく「在日認定」される世になるのか? こうなれば、いつか来た道をたどり、ディストピアの喜劇を一億総出で演ずるに等しい。
立場弱き者にとって、この世はいささか塩っ辛い。
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日露戦争へ向かう時期の1901年、福沢諭吉の「瘠我慢(やせがまん)の説」が『時事新報』に掲載された。
「強弱相対して苟(いやしく)も弱者の地位を保つものは、単に此瘠我慢に依らざるはなし」
「一片の瘠我慢は立国の大本として之を重んじ、いよいよますます之を培養して、其原素の発達を助くること緊要なる可し
弱者の「ヤセ我慢」が立国の根本だと、20世紀最初の福沢はいう。小国にもプライドがあるし、大国のえじきにならぬよう、立国へ向けて抵抗をつづける精神は大事だ。小国の日本人がプライドをかけてナショナリズムを維持することこそ、福沢が説いた「ヤセ我慢」だった。
では、立国をとっくに終えた21世紀の今日、福沢のメッセージをどう再読すればいいだろうか?
むしろ、100%ニッポニズムというぱんぱんの風船から、空気を細くぷすーっと抜く営みを地味につづける。これこそネオ「ヤセ我慢」だと僕は思う。
もはや死語となりつつある「雑種」文化大国よもう一度、といったところか。国民の純潔の追求が仇するシーンが、早晩来るんじゃないかと懸念しながら。
思えば、アメリカの公民権運動やたびたびの反戦運動では、抵抗者たちが愛国心を否定することはなかった。本当のアメリカはこっちだ、という確信が抵抗者側にはあった。
同じく、今のこの国はちっともニッポンらしくないじゃないかとの違和感は、大事だと思う。
もちろん、非国民と名指されたものが、お前こそ非国民だとやり返す泥仕合は痛い。「まーまー、まーまー」と、清濁あわせ呑む一片のゆるみを持っていたい(心理学でいうアサーションのようなもの)。
ヤセ我慢、雑種文化、白黒つけない曖昧の許容。かなたに忘却されたこの国の徳を、再びはぐくむ時が来ているのではないか。
それには、一人ひとり孤独な弱者が、まずはヨコをまなざすことが重要だろう。そこには、100%ニッポニズムを前にたじろぐ昨日の私、あるいは明日の私がいるはずだから。
そう思えば一抹の勇気もわいてくるし、ヨコの誰かと手をそっとつなぐ気持ちも芽生えるかもしれない。
孤独ではあるけれど、孤立はしていない。
そんなニュアンスフルな社会に恋する人間が増えたら、それはもう、100%ニッポニズム風船に一刺しされる極細針といっていい。