「日劇」の愛称で銀幕ファンから親しまれた東京・有楽町の映画館「TOHOシネマズ日劇」が2月4日に閉館する。
1933年から85年の長きにわたり「娯楽の殿堂」として親しまれてきた「日劇」の名が消える。
閉館前日の2月3日、実際に「日劇」に足を運んでみると、そこには別れを惜しむ人々の姿があった。
日劇にさよならを告げるファンの姿とともに、その歴史をふりかえってみよう。
■「娯楽の殿堂」として親しまれた日劇
1933年12月、東京・有楽町に日本初の高級映画劇場が生まれた。その名は「日本劇場」。定員2920人。当時としては斬新な湾曲した外壁や豪奢な内装から「陸の竜宮」と呼ばれた。
太平洋戦争(1941〜45)では銀座周辺が焼け野原になる中、奇跡的に戦禍を免れた。
戦後、日劇は舞台やショー、音楽ライブなどで人気に。ロカビリーブームの波に乗った「日劇ウエスタン・カーニバル」は社会現象になった。
だが、時代とともにその役割も変化。老朽化に伴い「日劇」は1981年に閉館。千秋楽には、別れを惜しむ人の長蛇の列ができたという。
旧「日劇」閉館から3年後の1984年。跡地に「有楽町マリオン」がオープン。「日劇」の名前はマリオン内の映画専用劇場として受け継がれ、東宝の映画作品のメイン劇場となった。
邦画・洋画を問わず、「日劇」は数々の名作を人々に届けてきた。アニメーション作品も例外ではない。
1997年7月公開のスタジオジブリ作品『もののけ姫』。宮崎駿監督が「自然と共存できぬ人間の存在」を世に問うたこの作品は、社会現象にもなった。
公開初日は、日劇で舞台挨拶が開かれた。サン役を演じた石田ゆり子さんも「徹夜組600人が列をなすという異例の事態」だったと、自身のinstagramでふりかえる。
そして「さようなら日劇。 ありがとう日劇。 映画館が閉じるとき。 感謝と切なさが押し寄せる」と、別れを惜しむ気持ちをつづった。
昭和から平成へ時代が変わっても、日劇は東宝系の主力作品が上映される劇場としてその役目を果たしてきた。
だが近年は映画館のシネコン化やデジタル化、作品の多様化がすすみ、映画館に求められる役割も変わった。
「平成」の終わりが見えてきたいま、時代の流れを受けて、戦前から日本の文化発信を担ってきた大劇場が役目を終える。
■「日劇ラストショウ」 上映後に拍手、涙する観客も
2月4日の閉館を前に、TOHOシネマズ日劇では「さよなら日劇ラストショウ」と銘打ち、過去に日劇のスクリーンを彩った名作映画を上映している。
閉館前日の3日、TOHOシネマズ日劇を訪れると、多くの映画ファンが在りし日の「日劇」の姿を写真に収めようとしていた。
「日劇」の名が消える――。85年の歴史を噛みしめるように、展示された年表をじっと読む人もいた。
劇場を訪れていた都内在住の50代女性は、「トム・クルーズ主演の『トップ・ガン』(1986年公開)をデートで見に来たことが思い出に残っています。青春の思い出の場所がなくなるのは、ちょっぴり寂しいですね」と語った。
この日の上映作品は『紅の豚』『ゴジラvsメカゴジラ』『トイ・ストーリー』『ラヂオの時間』など。満席となっていた作品も多かった。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』三部作のオールナイト上映には、マーティ・マクフライに扮したファンの姿もあった。
かろうじて席が残っていた『君の名は。』のチケットを購入。日劇のスクリーンに別れを告げるため、私も客席に座った。
1000人規模の観客を収容し、大きなスクリーンを要する映画劇場は都内でも少なくなった。大劇場から、小〜中規模のスクリーンを複数設置するシネコンへ。昭和から平成、そして「ポスト平成」へと時代が変わるにつれて、映画のスタイルや楽しみ方も変わってきた。
エンドロールでRADWIMPSの「なんでもないや」を聞きながら、ふとそんなことを思った。
上映終了後、橙色の照明がじんわりと灯る。涙を拭う人の姿がちらほら。ほどなく、観客席からは拍手が起こった。
85年間、お疲れ様でした――。それは、「娯楽の殿堂、日劇」の野辺の送りに銀幕ファンが示した、感謝と労いの拍手だった。
2月4日、「日劇」最期の上映作品は、宮崎駿監督の『もののけ姫』だった。
映画ドットコムによると、最後の支配人となった佐藤希氏は「本日で日劇は閉館いたしますが、日劇の魂は3月29日にオープンするTOHOシネマズ日比谷へと引き継ぎますので、楽しみにお待ちいただけばと思います。日劇を愛していただきまして、誠にありがとうございました」と涙を堪えながら謝辞を述べた。
「日劇」を閉館するTOHOシネマズは3月、「東京ミッドタウン日比谷」に13スクリーン約2800席の映画館「TOHOシネマズ 日比谷」を開業する。
■「日劇」の歴史(1933〜2018)
・1933年 「日本劇場」として開業
1933年12月24日、東京・有楽町に「日本劇場」が誕生。定員2920人を誇り、湾曲した外壁、豪奢な内装から「陸の竜宮」と呼ばれた。
・1941年 李香蘭ショー、伝説の行列「日劇7回り半」
1941年2月に当時の映画スター、李香蘭(山口淑子)の『歌ふ李香蘭』の公演で観客希望客が殺到。劇場の周囲に「7回り半」の行列が形成され大混乱に。12月に太平洋戦争が始まる。この前後から、戦意高揚を企図した邦画作品が数多く上映される。
・1943年 「東宝」の直営劇場に
東京宝塚劇場と東宝映画株式会社が合併し「東宝株式会社」が誕生。創業者は小林一三。
・1944年 劇場閉鎖、風船爆弾の工場に
3月、政府命令により日劇や東京宝塚劇場などが相次いで閉鎖。日劇は2月29日の興行を最後に椅子が撤去され、以降は風船爆弾の戦争工場に。
・1945年 終戦、日劇は奇跡的に戦禍を免れる
空襲で東京は焼け野原となるも、日劇は奇跡的に焼失をまぬがれた。終戦直後の1945年11月、日劇は東宝の戦後第1作映画『歌へ!太陽』と実演『ハイライト』で興行を再開。
・1952年 「日劇ミュージック・ホール」開業
著名な作家・演出家が演出などを手掛けたトップレスの女性ダンサーによるヌード・ショーで人気に。ショーの合間にはコントも演じられ、落語家の立川談志やコント赤信号などが活躍した。
・1954年 黒澤明監督『七人の侍』公開
3時間27分の長編作品にも関わらず、封切り8日間で7万1000人を動員する大ヒット。
・1955年 日劇ダンシングチーム(NDT)、春・夏・秋「三大おどり」が最高潮
重山規子、上条美佐保ら人気スターが誕生。昭和30年代の日劇の黄金期を彩った。
・1958年 第1回「日劇ウエスタン・カーニバル」
人気ロック歌手を集めた公演で失神者が続出。当時の若者の間で社会現象に。同カーニバルは81年の劇場閉館まで20年以上続いた。
・1978年 『スター・ウォーズ』公開
日劇にとっては25年ぶりの洋画興行。記録的動員を達成。
・1981年 経営難・施設老朽化で閉館
「ラストショー」と銘打ち、ドリフターズや小柳ルミ子が公演。最後のウエスタン・カーニバルも。2月15日に日劇は閉館。千秋楽には、別れを惜しむ人々が長蛇の列を作ったという。
・1984年 旧日劇跡地に「有楽町マリオン」開業
「日劇」はマリオン内に3スクリーンの映画専用劇場「日本劇場」「日劇東宝」「日劇プラザ」として再オープン(現:TOHOシネマズ 日劇 スクリーン1〜3)。
・1997年 『もののけ姫』公開
公開初日に徹夜組600人。午前6時半から2館を開けての上映。日劇プラザでは189日間のロングラン。
・1998年 『タイタニック』『踊る大捜査線 THE MOVIE』公開
タイタニックは前年12月から「日本劇場」で公開が始まり、その後ロングラン。日本での最終配収は160億円に。『踊る大捜査線』は10月31日の初日に早朝から3200人の行列。
・1999年 『スター・ウォーズ エピソード1』公開
7月、「スター・ウォーズ」シリーズの新三部作の1作目として公開。日劇は1作目が公開された「聖地」としてファンが殺到した。
・2012年 フィルム映写機、撤去
7月、映写室から最後のフィルム映写機が撤去された。
・2016年 『君の名は。』『シン・ゴジラ』公開
・2018年 「TOHOシネマズ日劇」閉館
2月4日をもって「TOHOシネマズ日劇」閉館。かわって、3月には東京ミッドタウン日比谷」に13スクリーン約2800席の映画館「TOHOシネマズ 日比谷」を開業する。
(*展示パネル「日劇、その歴史をふりかえる」などを参考)