自分を「被災者」と呼ばなくなるまで。新しい“終のすみか“づくりをリードした40代が伝えたい集団移転のリアル

集団移転を率いた若手リーダーが後世に伝えたいこと。住民の分裂、ローンの現実…【東日本大震災】
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仙台市の沿岸にある荒浜地区で復興を願い風船を飛ばす人々=2016年03月11日
時事通信社

 東日本大震災で自宅を一瞬にして津波で奪われた人々は、新たな「終のすみか」を集団移転という形で求めようとした。ただ、実際に集団移転で再建を成し遂げた例は多くない。

そんな中、40代の「現役世代」が、経済事情も違う、考えも異なる、年代も様々な住民をまとめ上げ、集団移転を実現したところがある。仙台市の沿岸にある荒浜地区だ。

大災害は誰も無縁ではないはず。家を失った時、私たちは地域と自身の「懐事情」に向き合いながら、どう生活を取り戻せばいいのか。荒浜の当時の「リーダー」たちの話からヒントを得たい。

186人亡くなった場所に「また戻ろうと言えない」 集団移転を決意 

荒浜から内陸へ約5キロ。碁盤の目のように区画された住宅地に、生命保険会社員の前之濱博さん(55)は2014年5月、集団移転で2階建て4LDKの自宅を建てた。念願の新しい「終のすみか」。妻と長男、長女の4人で仮設住宅扱いのアパートから移り住んだ。震災で荒浜の自宅は、跡形もなく津波で流された。

「復興」を果たして今はもう自らを「被災者」と呼ぶこともなくなったという前之濱さん。現在の暮らしぶりに行き着くまでの道のりを語った。

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荒浜地区の集団移転で住民側の「リーダー」の1人だった前之濱博さん(集団移転先の新居前で、本人提供)
本人提供

「被災地の復興は『遅れてる』と言われてきましたが、僕らは早く、しかも望む形で復興できました。心から『良かったな』と思います。移転後、徒歩10分の場所に市営地下鉄の駅ができましたし、ショッピングセンターや『スタバ』もオープンしました。荒浜も好きでしたが、今の便利な住環境をとても気に入っています」

荒浜は、かつて白砂青松の海岸が海水浴場として賑わい、大きくせり上がる波で知る人ぞ知るサーフポイントでもあった。サーフィンが趣味の前之濱さんはこの波に魅せられ、1998年に移り住んだ。

13年後の2011年3月11日。2000人以上が暮らしていた荒浜は9メートルの津波の直撃を受けた。周辺にいた人を含む186人が亡くなった。

前之濱さん一家4人は避難して無事だったが、多くの知人が家と家族を失った。学校の体育館などに設けられた避難所で悲しみ続ける人々を支えた。
心は決まっていた。「あんなに人が亡くなった場所に戻ろうなんて、とても言えない」。海から離れた安全な内陸への集団移転をめざすことを決めたという。

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津波が押し寄せた直後の荒浜地区。荒浜小学校以外の家屋など建物は見えなくなった(2011年3月11日午後4時過ぎ、仙台市提供)
仙台市提供

「自分たちが将来住むまちのことなのだから自分たちで」。前之濱さんは震災から数ヶ月後、サーフィン仲間で同じように荒浜の自宅を失った末永薫さん(54)らとともに集団移転を具体化させようと「荒浜移転まちづくり協議会」を発足させた。

「自分たちが将来住むまちのことなのだから、行政や上の世代に任せるのではなく、現役世代の私たちが新しい発想で率先して動かないと。自分たちが望む復興はできない…そんな思いからでした」。2人は当時の心情について口を揃える。

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「荒浜移転まちづくり協議会」の会合で挨拶する末永薫さん(仙台市若林区で2012年1月)

私は2011年夏、2人に出会った。当時の私は全国紙記者で、震災後に東京から仙台に移り住んでいた。高齢者の発言力が大きい他の被災地と異なり、荒浜は40代(当時)の彼らが前面に出て行政と交渉などをしていたことに、私は強い関心を抱いた。

100万人都市・仙台にある荒浜は、同質性が高い漁村・農村が多い東北の他の被災地と違って、多様な人々が暮らしていた。彼らは仕事や子育てもしながらボランティアで、復興に向けて地域を取りまとめようとしていた。

私はそれまで町内会活動など自分が住む地域のことに全く関与してこなかった。「もし将来、私が暮らすまちが被災したら、私はどう地域と向き合うべきなのか」。そんな問題意識から、2人の取り組みを追うことにした。

 

異なる被災者の経済事情、生じる対立に「辞めたかった」

「安心・安全な場所に新しい荒浜をみんなで築こう」。
2人が中心になって打ち出した復興の目標だ。

荒浜に住んでいた多くの人々も当初、集団移転に前向きだった。だが、仙台市が2011年後半に集団移転の計画案を公表すると、雰囲気は徐々に変わった。 

集団移転とは、被災した土地を市町村が買い取り、それを元手に、内陸や高台に市町村が造成した宅地を被災者が買ったり借りたりした上で自宅を自力で再建するというものだ。

ただ、東北で最も地価が高い仙台は、沿岸部より市中心部に近い内陸の方が地価が高い。しかも内陸部は震災後、被災者の移転を見越して地価が高騰。逆に荒浜など被災した沿岸部の多くは再開発の見込みがなく地価は下落した。より広がった差額は自己負担で埋めるしかない。被災者でも、市場価格から乖離した価格で土地の取引はできないのだ。

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津波で建物がほぼ消失した荒浜地区から見えた仙台市中心部のビル群(2011年3月23日、仙台市提供)
仙台市提供

そうしたことがわかり始めると、住民内で「分裂」が始まった。新たにローンを組めない高齢者や震災で仕事を失った人などから、「元の場所なら土地代はかからない」と、荒浜に戻って家を再建しようと考える人が出てきたのだ。

集団移転を早く実現しようと奔走する「移転推進派」と、荒浜に「戻りたい」派。意見の対立が次第に激しくなっていった。

2011年10月24日夜にあった元住民らの会合で、戻りたい派の男性は、険しい顔で「移転推進派」にまくしたてた。

「すんげえカネがかかるんだろう。具体的にどれくらいの負担になるのか分からないままベラベラしゃべってても進まねぇ」

2人に対し「行政のいいなりじゃねぇか」と非難する人もいた。

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集団移転について話し合う荒浜の元住民ら(仙台市若林区の仮設住宅の集会所で、2011年10月)

末永さんは当時の心境をこう振り返る。

「本当は、何度も嫌になって辞めようと思いました。みんなのためにボランティアで頑張ってるのに、なぜこんな言われようなのかと」 

所得・資産の差に加え、会社員、農家、漁師、年金生活者など様々な人々がまとまるのは容易ではない。「このままでは空中分解しかねない」と、末永さんと前之濱さんは考えた。考え抜いた末の結論はこうだった。

「移転したい人と、戻りたい人とで分かれて議論しませんか」

 

生保勤務の知見生かし資金計画づくりのボランティア 


その後、荒浜の元住民たちは、同じ仮設住宅の集会所内でテーブルを分け、間にホワイトボードを「ついたて」代わりにして話し合うことになった。

2011年冬には集団移転派と戻りたい派が別の日にそれぞれ会合を開くことにした。住民たちは実質的に「分裂」した。

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ホワイトボードを「ついたて」に、集団移転派(奥)と「戻りたい派」(手前)に分かれて話し合う荒浜の元住民ら(仙台市若林区の仮設住宅の集会所で、2011年12月)

「厳しい決断だった」(末永さん)という分かれての議論。しかしその後は移転候補地選びなど、移転実現に向けた動きは具体的になっていった。


住民の意見集約や市との交渉のかたわら、前之濱さんは生命保険会社のファイナンシャルプランナー
の知見を生かして、移転する人の自己負担がなるべく軽くなるよう、資金計画づくりの無償アドバイスなども積極的に担った。

住宅ローンを新たに借りる際の頭金の作り方、優遇金利で受けられる金融機関の情報、利子の負担を最も軽くするローンの計画…などだ。

中でも力を入れたのが、津波で流された家に住宅ローンの残債が残ってしまった人の支援だ。家が無くなっても債務が残る場合、土地には金融機関による抵当権が付けられたままで、移転先が見つかっても市が買い取ることができない。

収入が多ければ「二重ローン」で借りることができるかも知れないが、月々の返済を滞りなくできるほどの収入がなければ通常、金融機関は新たな融資はしない。

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荒浜にあった前之濱さんの自宅跡地。家は土台だけになったが、住宅ローンを借りた際に付けられた抵当権も残った(仙台市若林区で、2012年6月)

「地震保険に入っているか否かは、家を再建できるかどうかを大きく左右します。意外と地震保険に入っていない人は多く、自力再建をあきらめた人を多く見てきました。マイホームを建てる人は絶対に地震保険は入るべきです。これだけは断言します。地震保険でそれなりのお金のめどが立てば、『何とかなる』と、不思議とやる気が出るんです」(前之濱さん)

前之濱さん自身も流された家のローンが1700万円も残っていたが、地震保険を元に返済し、抵当権も解除できた。残るローンの額にもよるが、それなりの現金を地震保険か自分の蓄えなどから用意できなければ新たな土地への移転は難しいということだ。

そんなアドバイスもあってか、他の集団移転希望者の大半も資金計画を早期につくり、震災から4年後の2015年までには移転を果たした。前之濱さんと末永さんらが切り盛りした「荒浜移転まちづくり協議会」は2015年度に解散した。 

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サーフィンを楽しんだ後に荒浜の海岸で仲間と写真に収まる前之濱さん(中央手前)と末永さん(中央後方)=2019年12月、前之濱さん提供
前之濱さん提供

 

海は憎かった。でもやっぱり自分の場所 

2人は最近、大好きだったサーフィンを荒浜の海でそれぞれ再開し、真冬以外のほぼ毎週末、新たな住まいから車で10分ちょっと離れた荒浜に通う。

前之濱さんは「多くの知人を奪った海は憎かったけど、七回忌が過ぎたから、そろそろええかな、と思って」。末永さんは「住むのはあきらめたけど、荒浜の海はやっぱり自分の場所です」と話す。

今年の3月11日であの日から10年。2人はこれまでと同じように、荒浜で催される慰霊祭に出席し、海に向かって祈りを捧げる予定だ。

【集団移転とは】
国の制度で、正式には「防災集団移転促進事業」。市町村はまず災害が起きた地域を住宅の新築と増築ができない「災害危険区域」に指定し、そこに新たに人が住むことができないようにする。代わりに、市町村が造成した内陸や高台の移転先の土地を被災者に売ったり(売値は市場価格)貸したりする。被災者がその土地上に建てる住宅は自己負担だ。また被災者は移転の際の引っ越し代、元の家の解体代を市町村に全額補助してもらえるうえ、家を建てるのにローンを組む場合に利子補給金がもらえる。

(文・中村信義 @carlos_nkmr/ライター 編集・井上未雪/ハフポスト日本版)