【戦後70年】長崎原爆、ソ連参戦 1945年8月9日はこんな日だった

8月9日午前2時47分、南太平洋のテニアン北飛行場を、プルトニウム239爆弾「ファットマン」を積んだ爆撃機B-29「ボックス・カー」が離陸した。屋久島を経て午前9時44分、小倉上空に到達した。
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8月8日から続く)

■ソ連参戦

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満州に侵攻するソ連軍

前日、突然のソ連による対日宣戦布告の直後だった。

8月9日、午前0時を回り、ソ連軍は国境を越え、満州に一斉に侵攻した。新京(長春)、哈爾浜(ハルビン)、チチハルなど主要都市を空爆が襲った。

満州東部の虎頭要塞には、兵士6万人に火砲950門、戦車・自走砲166が日本軍の国境守備隊に襲いかかった。眠りに就いたばかりの日本軍は不意を突かれ、防戦に終始する。明け方までに国境守備隊など部隊の玉砕(全滅)、居留日本人の集団自決が相次ぐ。(*1

東安省(現・黒竜江省)密山の日本人は、ソ連参戦と同時に避難を開始した。

県内開拓団のうち列車で避難できたものは殆どおらず、大抵が徒歩で避難し、途中ソ連軍と暴民の挟撃に遭いつつ山野跋歩の難行軍を続けた。黒台開拓団の場合は(中略)横道河子に到着するまでに約1カ月を費し、その間に乳幼児約500人を葬った。

東光村開拓団も東安に出たが列車に乗り遅れ、虎林県民、東安市民と合流(約1万)し勃利まで出た所でソ連軍に阻止され、以後各個行動をとり、ソ連軍および反乱満軍に攻撃された際、足手纒いになる乳幼児・老人等の肉親を自らの手で殺害するという悲惨事が発生するなど、多くの犠牲者が出た。(*2

ソ連軍による民間人への攻撃、略奪、強姦。逃避行の中、餓えや寒さによる大量死は、8月15日を過ぎても続いた。

■長崎原爆

8月9日午前2時47分、南太平洋のテニアン北飛行場を、プルトニウム239爆弾「ファットマン」を積んだ爆撃機B-29「ボックス・カー」が離陸した。屋久島を経て午前9時44分、小倉上空に到達した。

小倉付近はもやと煙に覆われていた。前日にアメリカ軍が仕掛けた八幡空襲の煙のほか、八幡製鉄所の元従業員が原爆投下を防ぐため「コールタールを燃やして煙幕を張った」という証言もある。ボックス・カーは上空を3回旋回したが、目標を目視でとらえることができなかった。

ボックス・カーは次の投下目標、長崎に移動した。ここも上空は雲に覆われていた。燃料切れが近づき、退却が迫ったそのとき、雲の切れ目から市街の一部がわずかに見えた。

午前11時02分、高度9600メートルの上空から、史上2発目となる原子爆弾が長崎に投下された

その瞬間、約7万5000人の命は一瞬にして奪われた。

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■ポツダム宣言受諾の流れは決まった。問題は…

昭和天皇の早期終戦の意を受けて招集された最高戦争指導会議は、8月9日午前10時30分開始のはずが、11時になってやっとメンバー6人がそろった。広島原爆に加え、早朝にソ連参戦の報も入り、冒頭から重苦しい雰囲気に包まれていた。

冒頭、鈴木首相は「広島の原爆といい、ソ連の原爆といい、これ以上の戦争継続は不可能だ」と宣言した。米内光政・海軍大臣が「ポツダム宣言受諾ということになれば、無条件か、それともこちらから希望条件を提示するか」と続けた。徹底抗戦の意見は出なかった。

会議の焦点は、どうやってポツダム宣言を受け入れるかに絞られた。東郷茂徳外相が提案した「天皇の国法上の地位を変更しない」1条件に絞るか、阿南惟幾・陸軍大臣らが主張する「占領は小範囲で短期間」「武装解除は日本の手で」「戦犯処置は日本の手で」を追加した4条件か。会議は紛糾した。

会議の途中、長崎に原爆が落とされたことが伝えられ、さらに衝撃が走る。

会議は休憩を挟んで断続的に午後10時30分まで続いたが、ポツダム宣言受諾の条件を巡って堂々巡りを繰り返し、結論は出なかった。鈴木首相は、昭和天皇が出席する御前会議の招集をかけた。

午後11時50分、約50平方メートルの地下防空壕の中で、御前会議は始まった。(*3

■戸坂潤獄死

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哲学者の戸坂潤が8月9日、栄養失調のため長野刑務所で獄死した。44歳の若さだった。

西田幾多郎を頂点とする京都帝国大学の哲学科で学び、『科学方法論』など、科学論や認識論の研究で知られた。偏狭な愛国主義や排外主義がはびこる戦時中の日本で『日本イデオロギー論』(1935年)を著し、ファシズムや軍国主義思想を批判した。1932年に「唯物論研究会」を創始し、月刊誌『唯物論研究』を発刊し続け、反軍国主義、反ファシズムの理論的拠点となった。1938年11月、会のメンバーが一斉検挙され、治安維持法違反容疑で逮捕された(*4)。

9月26日にはやはり「京都学派」を形成した哲学者の大家、三木清が獄死した。相次ぐ哲学者の獄死はGHQ(連合国最高司令官総司令部)に衝撃を与え、10月の治安維持法廃止につながっていく。

8月10日に続く)

*1 半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』文芸春秋、1999

*2 本島三千男編『満州 1945年』原書房、1986

*3 半藤一利『昭和史 1926-1945』平凡社、2004

*4 古在由重『教室から消えた先生』新日本出版社、1981