【戦後70年】原爆投下はどう報じられたか 1945年8月7日はこんな日だった

日本時間の8月7日未明、アメリカのトルーマン大統領は声明を発表し、「原子爆弾」であることを初めて明らかにした。
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「核の時代」の幕開けから一夜明けた。

日本時間の8月7日未明、アメリカのトルーマン大統領は声明を発表し、「原子爆弾」であることを初めて明らかにした。

十六時間前、米国航空機一機が日本陸軍の重要基地である広島に爆弾一発を投下した。その爆弾は、TNT火薬二万トン以上の威力をもつものであった。それは戦争史上これまでに使用された爆弾のなかでも最も大型である、英国のグランド・スラムの爆発力の二千倍を超えるものであった。

日本は、パールハーバーで空から戦争を開始した。そして彼らは何倍もの報復をこうむった。にもかかわらず、決着はついていない。この爆弾によって、今やわれわれは新たな革命的破壊力を加え、わが軍隊の戦力をさらにいっそう増強した。同じタイプの爆弾が今生産されており、もっとはるかに強力なものも開発されつつある。

それは原子爆弾である。宇宙に存在する基本的な力を利用したものである。太陽のエネルギー源になっている力が、極東に戦争をもたらした者たちに対して放たれたのである。

(中略)七月二十六日付最後通告がポツダムで出されたのは、全面的破滅から日本国民を救うためであった。彼らの指導者は、たちどころにその通告を拒否した。もし彼らが今われわれの条件を受け入れなければ、空から破滅の弾雨が降り注ぐものと覚悟すべきであり、それは、この地上でかつて経験したことのないものとなろう。この空からの攻撃に続いて海軍および地上軍が、日本の指導者がまだ見たこともないほどの大兵力と、彼らには既に十分知られている戦闘技術とをもって侵攻するであろう。

ヒロシマ新聞より)

8月7日付のアメリカの新聞各紙は、1面に横幅いっぱいの大きな見出しを掲げて歓喜した。

「最初の原子爆弾、日本に投下される。爆弾は2万tのTNTに匹敵 トルーマン大統領、敵に『破滅の雨』を警告」(*1

「原子爆弾の物語! この死の爆弾はどうやって開発されたか明らかに」「爆破された街では日本人が鉄道を止める トルーマン大統領、破壊の雨を宣言」(*2

「東京は次の原爆リストに載った模様」「日本のラジオ、爆弾の被害は比較的少ないと報じる」(*3

お祭り一色だったわけではない。この日のニューヨーク・タイムズ紙には、「トルーマン大統領の発表通りなら、約32万人の広島市民が犠牲になったことになる」と指摘した上で、「核の時代」の扉を開けたことへの恐れについても書かれていた。

「我々は壊滅の種をまいた。この戦争を通じての我々の爆撃はほとんど都市、そして民間人を標的にしていた。我々の爆撃は敵より効果的で、より壊滅的な打撃を与えたため、アメリカ人は「破壊」の同義語となった。そして我々は初めて、計り知れない効果を持つ新たな兵器を導入した。これは速やかに勝利をもたらすかもしれないが、より広い憎悪ももたらすだろう。我々自身に壊滅をもたらすかもしれない。

確実に我々は、神のような力を、不完全な人類の手で管理するという、重大な責任を背負うことになる。核エネルギー人類が、ともに仲良く暮らせる、明るい新世界をもたらすかもしれない。しかし爆弾とロケットの下で、地下に潜って暮らす世界をもたらすかもしれない。(*4)」

■日本ではベタ記事、その裏では

日本では、情報は制限されていた。

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たとえば朝日新聞の東京本社版の1面トップは、1945年の海軍の特攻作戦を指揮した伊藤整一中将(沈没した戦艦大和とともに戦死)の大将昇進のニュース。他の都市への空襲の記事と並び、広島についてはごく短い記事が載っただけだった。

「6日7時50分頃B29 2機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもって同市付近を攻撃、このため同市付近に若干の損害を被った模様である(大阪)」(*5

大阪本社版は、さらに続けて、こんな記述がある。

「敵米はわが中小都市、軍需工場などの攻撃は時間を選び、専ら自軍の損害をさける隠密行動をとっていたが昼間、偵察をこととしていた敵がわが方が油断したかと思ったか、白昼僅か2機をもって爆弾、焼夷弾を混投したことは今後十分警戒を要する」(*6

新聞社と軍当局、内務省は情報統制を巡って水面下のせめぎ合いを繰り広げていた。

被害の異常さから各新聞ともただごとではないと察知し、各社編輯局長が内閣情報室に集まったが、情報局も現地の正確な情報が得られないこともあって、第一報は前述のようにきわめて簡単なものとなった。

しかし各社はすぐ米大統領、英首相が「原子爆弾投下」を声明した、という放送をキャッチした。久富情報局次長の戦後の談話によると、これによって情報局も原爆であることを信じ、その旨を発表することとし、外務省もこの方針に賛成したが、軍部は頭から反対し、「敵側は原爆使用の声明を発表したが、虚構の謀略宣伝かもしれない。従って、原爆とは即断できぬ」と主張したのであった。

情報局は、「敵側は原子爆弾なりと称して発表した」ではどうかと妥協案を出したが、軍部は応ぜず、内務省も軍部に同調して、けっきょく政府としては原子爆弾の文字を報道には使わせず「新型爆弾」とよんだのである。(*7

8月7日午後3時半の大本営発表は「広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じた」「新型爆弾を使用せるものの如きも目下調査中」だった。

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朝日新聞(東京本社版)1945年8月8日付

日本各地への空襲はこの日も続いた。愛知県豊川市では7日午前10時ごろ、兵器工場の「豊川海軍工廠」を中心にB-29の編隊が約3500発の爆弾を浴びせた。小学生や女学校からの動員を含む、約2500人が犠牲になった。空襲と、主産業だった兵器産業の壊滅で、9万人以上いた人口は、終戦直後には約4万人に半減したという

■ソ連の対日参戦が繰り上げに

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ソ連の大元帥スターリンは8月5日深夜(日本時間6日早朝)、ポツダムでの会談から帰国し、深い眠りについていた。一夜明けてアメリカの原爆投下を知らされ、指導的な原子物理学者5人をクレムリンに集めた。

「費用はいくらかかってもかまわない。こうなれば、できるだけ早くアメリカに追いつかなくてはならない。諸君、全力をあげてやり給え」

そして8月7日午後4時30分(日本時間7日午後10時30分)、スターリンはワシレフスキー元帥に、以下の命令を下した。

「1.すべての前線の航空機による先頭は、第1にハルピンならびに長春への爆撃を目標に、8月9日朝に開始すべし。

2.ザバイカル方面軍および第1極東方面軍の地上部隊は、8月9日の朝に満州との国境を越え攻撃を開始すべし。」

ソ連はすでに1945年2月のヤルタ会談前後に、対日参戦の方針を固めていた。しかしアメリカの原爆開発成功の見通しを聞いたスターリンは、6月29日の段階で、当初、8月下旬の予定だった「Xデー」を繰り上げて「8月11日」に変更していた。それがさらに、原爆投下のニュースを聞いて、2日前倒しされたことになる(*8)。

すでに太平洋戦争の勝利が絶望的だった日本は、この時点でまだ、ソ連の仲介による和平に望みをつないでいた。

に続く)

 

*1*4 The New York Times 1945年8月7日付

*2 Chicago Tribune 1945年8月7日付

*3 Nashua Telegraph 1945年8月7日付

*5 朝日新聞(東京本社版)1945年8月7日付

*6 朝日新聞(大阪本社版)1945年8月7日付

*7 『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』朝日新聞社、1991

*8 半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』文芸春秋、1999

文中の引用は現代表記に改めました。