(8月5日から続く)
8月6日午前0時、南太平洋、マリアナ諸島のテニアン島で、アメリカ軍第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、乗員休憩室で、26人の飛行士に訓示した。
「いま我々が落とそうとしている爆弾は、これまでの爆弾とは違うものだということをよく覚えておいてほしい」
ここでもティベッツ大佐は機密保持のため「原子」や「核」という言葉は、一度も使わなかった。言ったのは、この爆弾が「非常に強力」で「戦争を終結させる力を持っている」ことだけだった。
従軍牧師ウィリアム・ダウニーが、今回のために特別に作った祈りの言葉を唱えた。「全能の神よ。彼らをお守りくださるように祈ります。そしてあなたのお力に助けられて、彼らが戦争を早く終わらせることができますように」
乗組員への説明会は15分で終わった。
午前1時37分、3機の気象偵察機が広島、小倉、長崎を目指し、テニアン島を離陸した。
午前2時45分、重さ5tのウラン235b爆弾「リトル・ボーイ」を積んだティベッツ少佐の「エノラ・ゲイ」もテニアン島を離陸した。
午前6時40分、エノラ・ゲイは日本に接近し、予定高度3万フィートへ上昇を始めた。
◇◇◇◇◇
広島上空は、雲一つない青空だった。
エノラ・ゲイを先頭とする3機のB-29が広島市内上空に入った午前7時09分、空襲警報のサイレンが市内に鳴り響いた。多くの市民が慌ただしく防空壕に駆け込んだ。
B-29の部隊が旋回しながら、一部の戦闘機が離脱していった午前7時31分、空襲警報は解除された。
一方、広島市の東、西条町では、監視兵がエノラ・ゲイと後続機の不自然な旋回を見つけ、広島の通信司令部に電話をした。
午前8時13分、再び空襲警報が発令された。
8時15分、エノラ・ゲイは、広島市中心部の相生橋にさしかかった。
爆弾倉の扉が開いた(*1)。
青木美枝さんは当時23歳。縁談が来て国民学校(小学校)の教員を辞めた直後だった。広島市中心部から2キロほど離れた自宅にいた。
「洗濯でもしなくちゃ」と空を仰いだ瞬間でした。ピカーッと、マグネシウムどころじゃない、その何億倍もの光が目の前を走りました。ガラガラと家が崩れ、土煙が落ち着くと、4歳下の妹、久枝ががれきに埋もれていました。両親の声はしませんでした。
きっと爆弾だ。助けを呼ばなくちゃ。壁に穴を開けて外に出ると、広島市内は見渡す限り家が一軒もなくなっておりました。「誰か、誰か」と裸足で呼んで駆け回りましたけど、「熱い、熱い」とぼろ切れのような皮膚を垂らして歩く人はまだ元気な方。目を見開いた死体が、そこらじゅう転がっておりました。
いったん家に戻ると妹は「お姉様、私にかまわないで逃げて」と言います。やっと通りすがりのおじさんを捕まえたとき、家は火の手に包まれていました。「ここにいたら死んじゃう。あきらめなさい」。おじさんは逃げました。私は何度も振り返り、ごめんね、ごめんねと、拝みながら逃げたのでございます。(*2)
人類史上初の原子爆弾(原爆)は、地上600mの上空で炸裂し、中心温度100万度の火の玉をつくった。爆心地周辺の地表の温度は3000~4000度に達したという。爆心地から1.2kmの範囲内では、その日のうちに約5割が死亡した。1945年12月末までに約14万人が死亡したと推計されている。
エノラ・ゲイの機尾付近に座っていた写真撮影手ジョージ・R・キャロンは、巨大な空気の塊が衝撃波として押し寄せてくるのを感じた。叫んで乗組員に知らせようとしたが、言葉にならなかった。
ティベッツは日誌に書いている。「驚いた。いやショックを受けたと言ってもいい。(中略)わたしが実際に想像したより、はるかに大きい破壊が行われたということだ」
キノコ雲の周りを3回旋回して、エノラ・ゲイと後続機は、午後2時58分、テニアン島北飛行場に着陸した。
数千人のアメリカ将兵や軍人らが着陸を出迎えた。祝賀パーティーがすでに始まっていた。ティベッツと乗員一同は帰還後の報告会議を終えると、すぐに横になって眠ってしまった(*3)。
(8月7日に続く)
【訂正】2015/08/09 23:19
当初の記事で@広島市の東、西条市」とありましたが、正しくは「西条町」(現・東広島市)でした。また、「丸木位里・俊夫妻」とあったのは「丸木位里・俊夫妻」の誤りでした。大変失礼いたしました。
*1*3 ゴードン・トマス、マックス・モーガン=ウィッツ『エノラ・ゲイ ドキュメント――原爆投下』TBSブリタニカ、1980
*2 朝日新聞2011年8月11日付(栃木版)
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