【戦後70年】海上封鎖の打開策は松ヤニ増産? 1945年8月3日はこんな日だった

すでに東南アジアからの石油輸送が閉ざされていた日本は、苦肉の資源確保策を国民に呼びかけていた。8月3日、厚生省の勤労局長が、動員強化策を地方に通知した。
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■アメリカ軍、日本の海上封鎖が完成と発表

「もはや日本にとって安全な航路、港は残っていない」。8月3日、アメリカ第20空軍は、日本列島の海上封鎖が完成したと発表した。3月以降、B-29などが日本の主要な港湾に爆撃を繰り返し、沖縄や硫黄島もアメリカ軍の手に落ちて以降は戦闘機や哨戒機の拠点になった。すでに第3艦隊や潜水艦も日本の海域で公然と活動しており、アメリカ軍は福岡、唐津など地方港湾への機雷敷設を誇っていた。

「日本にとって、あとはどれだけ早く戦争を終わらせるかの計算が重要になった。日本は自給自足ができず、日本国民が生活する分の輸入すらできなくなる。中国大陸と朝鮮半島も、物資供給の海上輸送から切り離される」(*1)。

■病院船、偽装バレて1500人が捕虜に

8月3日、南太平洋を航行していた日本陸軍の病院船「橘丸」が、アメリカ軍の停船命令を受けた。乗船していた約1500人の大半は、白衣を着て傷病兵を装った健康な兵士で、国際法に反して武器や弾薬を30t以上積んでいたことが判明。ただちに拿捕(だほ)され、全員が捕虜となった。「橘丸事件」だ。

乗船していたのは、インドネシア東部のカイ諸島に駐屯していた第5師団の兵士たちだった。戦局の変化でカイ諸島の重要性が薄れ、シンガポールへの転戦を命じられたが、すでに制海権は奪われており、病院船を偽装しての兵力輸送の途中だったのだ。かつて「東京湾の女王」と呼ばれた大型貨客船は、戦時体制で軍に徴用され、太平洋戦争で日本軍が最も多数の捕虜を出した事件の主役として歴史に名を残すことになった。

■松ヤニからガソリン「機に応じて奇跡を創造」

すでに東南アジアからの石油輸送が閉ざされていた日本は、苦肉の資源確保策を国民に呼びかけていた。松の木から取れる松ヤニからのガソリン製造、イモからのアルコール製造、さらに日本酒の蔵元を燃料用エタノール工場に転換するため、8月3日、厚生省の勤労局長が、動員強化策を地方に通知した(*2)。

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朝日新聞(大阪本社版)1945年8月5日付

松の木の表面を傷つけて採取した樹液を、酸性白土(モンモリロナイトを主成分とする粘土)と混ぜて蒸留すると「非常にオクタン価の高い最優秀の航空燃料となる」という。陸軍燃料廠(しょう)本部の技術少佐は「機に応じて奇跡を創造するわれわれ民族は、またしても燃料生産に日本的化学の妙を発揮した」と誇った。

「軍では全森聯を通じ全国町村に供出割当てを行い、学童を動員して組織的生産に乗出すことになったが、特攻機を存分飛立たせるためにこの際全国民の協力が望ましいのである。しかも今は松脂の増産期である。一滴でも多く――これは本土決戦に勝抜く防空戦力増強の合言葉であることを深く認識してほしいのである」(*3)。

8月4日に続く)

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朝日新聞(東京本社版)1945年8月3日付

*1 The New York Times 1945年8月4日付

*2*3 朝日新聞(東京本社版)1945年8月4日付

※文中の引用は現代表記に改めました。