【戦後70年】予告された空襲、困窮する生活 1945年8月1日はこんな日だった

70年前の今日は、どんな日だったのか。戦後70年の今年、改めて振り返ってみたい。
|

■予告された空襲

70年前の1945年夏、アメリカ軍は日本各地に「日本国民に告ぐ」と題す伝単(ビラ)をまいた。12の都市を列挙して空襲を予告し、住民に避難を呼びかける内容だった。

8月1日にも、東京都八王子市や兵庫県西宮市などでビラはまかれた。1日に西宮で回収されたビラには、以下のように書かれていた。

「この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります。軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使う兵器を米空軍は全部破壊しますけれども爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分りません。ですから裏に書いてある都市から避難して下さい。

アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です。アメリカの考えている平和というのはただ軍部の圧迫からあなた方を解放する事です。そうすればもっとよい新日本ができるんです」(*1

Open Image Modal

ビラの文言からは、軍部に対して蜂起するよう、日本国民に促す狙いが読み取れる。アメリカでは、12都市に72万枚のビラをまいたと発表されていた(*2)。

もっとも、日本では「見てはいけないと言われ、婦人会が回収していたようだ」という証言もあり、必ずしもアメリカ軍の思惑通りにはならなかった。

「敵のこの種の謀略は今後ますます巧妙になるから恐怖、逡巡は絶対禁物である。(中略)この種の『敵の予告』を畏れたり、そのために浮足だったりしないでいざ空襲の際には防空鉄桶陣をしいて戦うことである」(*3)と、ビラに踊らされないよう呼びかけもされていた。

8月1日深夜から2日未明、予告された都市のいくつかを、アメリカ軍の空襲が襲った。

■苦肉の配給策も

一般市民の生活は苦しかった。1944年から配給制になっていたたばこも、8月1日から1日5本だったものが3本に減らされた。たばこの葉が足りず、様々な代用の葉をまぜた「代用たばこ」も使われていた。

魚を丸ごと粉にして野草と混ぜて揚げた「揚げかまぼこ」なる食べ物の配給が、この日から始まると伝えられた。魚を骨も皮も活用できて、かさが増えるからという。記事からは当時の食糧事情がにじみ出る。

空襲その他の関係でお魚の配給がトンと途絶えている対策として、東京水産燻製品統制組合ではお魚の代用食「揚げ蒲鉾(かまぼこ)」の製造を1日から開始、各家庭に配給する筈である。これは最近ときたま入荷する冷凍ホッケ、カレイ等、暑さと延着のため著しく鮮度が落ちているので、これらの骨、皮、頭、全部を機械にかけて粉にし、これに「ひめむかしよもぎ」等食べられる野草や大豆を混入、大豆油で揚げたもので、味は昔の「さつま揚げ」に似てすこぶる美味である。

魚のまま配給される場合は、食べられる部分は40パーセントに過ぎないが、これだと百パーセント食べられるし、少しの魚で大勢の人に配給される。つまり、魚1000貫で1人30匁配給として3万3千人に配給されるものが、骨、皮、頭と全部丸がけにし、さらに野草を入れると約10万人ができることになる。

材料の魚の入荷はこのところほとんどないが、同組合には相当の貯蔵があるので、8、9月中はたとい1尾の魚が帝都に入らなくても、この「揚げ蒲鉾」の家庭配給は引き受けられるといっている。(*4

8月2日につづく)

Open Image Modal
朝日新聞(東京本社版)1945年8月1日付。当時、新聞は1日1回、2ページだった。

 

*1 安達喜彦『15年戦争史学習資料 下』汐文社、1985

*2 Ellensburg Daily Record 1945年7月31日付

*3 朝日新聞(東京本社版)1945年8月3日付

*4 朝日新聞(東京本社版)1945年8月2日付

※文中の引用は現代表記に改めました。