【戦後70年】日本国内で伏せられた降伏 1945年8月11日はこんな日だった

8月11日付の新聞各紙には、まったく方向性の異なる2つの談話が並んで掲載された。
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日本政府の対外情報発信を担う「同盟通信社」が8月10日、対外放送で、日本の降伏受け入れ意思を表明した。翌11日のアメリカ新聞各紙には「日本、降伏受け入れ」の活字が大きく踊った。

連合国は歓喜に沸いた。

しかしこのニュースは、日本国民には伏せられた。

8月11日付の新聞各紙には、まったく方向性の異なる2つの談話が並んで掲載された。

1つは下村宏・内閣情報局総裁の談話。「新型爆弾」やソ連侵攻で、戦況は「最悪の状態」と認め、国民に「国体の護持」、つまり天皇を中心とする社会体制の維持を呼びかけた。降伏が近いことを暗示し、戦時体制から新体制への移行が冷静に行われることを求めたとみられる。

「今や真に最悪の状態に立至ったことを認めざるを得ない。正しく国体を護持し民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため、政府は固より最善の努力を保持しつつあるが、1億国民にありても国体の護持のためにはあらゆる困難を克服して行くことを期待する」

これに対し、阿南惟幾・陸軍大臣の談話は「全軍将兵に告ぐ」と題し、徹底抗戦を呼びかける内容だった。

「断乎神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ。たとえ草を喰み土を囓り野に付するとも、断じて戦うところ死中自ら活あるを信ず」(*1

朝日新聞社内では、若手を中心に「阿南陸相の訓示を没にすべきだ」という意見が上がり、大激論になったという。

「政府がすでに宣言受諾に決定し、連合国に通告という段階で、徹底抗戦の陸相訓示を掲載するのは誤りだ。もしこの報道によって、さらに原爆が投下されることになったらどうするか」(部員・団野信夫ら)(*2

「載せたいと思う。この際の新聞の使命は、国全体がスムーズに終戦になるような役割を果すことで、急激に紙面の調子を変えることは、かえって思わぬ刺激を軍や世間に与えて、国内動乱などを引き起こさぬとも限らぬ」(政経部長・長谷部忠)(*2

結局、朝日新聞の東京本社版は、両方を掲載しながら、下村談話の見出しの活字を大きく、太くすることで目立たせることを狙ったという。しかし、8月15日の玉音放送で初めて終戦を知ったという証言も多い中で、どこまで意図が読者に通じたかは分からない。

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朝日新聞社(東京本社版)1945年8月11日付

戦闘は続いていた。

日本は降伏受け入れを表明したが、ソ連軍は満州侵攻を続け、10日には中朝国境を越えて朝鮮北部への侵攻を続けていた。

海軍の組織的な戦闘態勢も壊滅状態だったが、散発的な特攻作戦は続いていた。

日本海軍の潜水艦「伊号第366潜水艦」は8月1日、山口県の光基地を出撃していた。

この潜水艦には、魚雷を改造した特攻兵器「回天」が搭載されていた。

回天を操縦する3人のうち2人は、いずれも甲種飛行予科練習生、つまりパイロット候補生だった。戦争末期の航空機不足から、飛行機のパイロットとして訓練された予科練の卒業生は、魚雷での特攻を余儀なくされる。

上西徳英さんは18歳だった。家族に宛てて遺書を残した。

「お父さん、お父さんの髭は痛かったです。

お母さん、情けは人の為ならず。

忠範よ、最愛の弟よ、日本男子は〝御楯〟となれ。他に残すことなし。

和ちゃん、海は私です。青い静かな海は常の私、逆巻く濤は怒れる私の顔。

敏子、すくすくと伸びよ。兄は、いつでもお前を見ているぞ」

やはり18歳だった佐野元さんも、父母にあててわびた。 

「父上様、母上様、祖母様へ、休暇の時は何も真実を語らず、只語れるはうそのみ、何たる不孝ぞ。しかし軍機上致し方なし。黙って決別の外なし。やがてわかることならん。わが生存中の我儘切にお詫び申す」

8月11日午後5時30分、パラオの北500海里の地点で、連合国軍の輸送船団を見つけた。

潜水艦から、「回天」が3機、発射された。(*3

8月12日に続く)

*1朝日新聞(東京本社版)1945年8月11日付

*2『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』朝日新聞社、1991

*3北影雄幸『予科練 特攻隊員の遺書』勉誠出版、2011

文中の引用は現代表記に改めました。