世界最大のゲイタウンとも言われる新宿2丁目。ゲイバーを始めとする数百の飲食店が蝟集し、ゲイのみならずLGBTが集まるコミュニティの場となっている。ここに、およそ50年にも及ぶこの街の歴史のほとんどを見てきた老舗ディスコがある。かつて、三島由紀夫やフレディ・マーキュリーも足を運んだ場所だ。
新宿2丁目のランドマークともいえるBYGSビルの裏手、立ち並ぶ小さな雑居ビルの2階にその店、「NEW SAZAE」は居を構える。2丁目の揺籃期から現在まで、移り変わるLGBTコミュニティの様子を眺めてきたこの店を、初期から切り盛りしてきたのが現在のマスター、紫苑さんだ。
紫苑さんの目にLGBTをめぐる昨今の状況はどう映っているのか。話を聞いた。
「NEW SAZAE」2代目マスター・紫苑さん。
■今年で50周年を迎える2丁目最古の老舗の一つ
もともと赤線地帯と言われる売春街だった新宿2丁目。1958年に売春防止法が成立したことでこの街は大きな転換点を迎える。1960年代になると少しずつゲイバーが増え始め、現在の2丁目の基礎が作られていった。
NEW SAZAEの前身である「SAZAE」がオープンしたのは1966年のこと。現在地にあった木造ビルの半地下だった。初代のマスターは現在の新宿3丁目(当時は2丁目。その後、地番整理によって3丁目になった)にあったゲイバーの店員。彼の源氏名がサザエだったことから店名がついた。
看板にもSINCE 1966の文字が。今年、50周年を迎えた。
この店に客として出入りしていたのが現在のマスターである紫苑さんだ。
「当時、私は学生で、お芝居なんかもやっていました。この店が楽しくて毎日のように来ているうちに、スタッフとして手伝うようになり、いつのまにかそれが本職になったんです」
当初はジュークボックスがあって客が好きな曲をかけて踊るというスタイルだった。客はほぼゲイの男性のみ。オープンから12年後、ビルの建て替えと共に2階に移り、現在まで営業を続けている。
「有名なファッションデザイナーなんかが客として来てたんだけど、モデルの女の子を連れてくる。それで仕方なく同伴の女の子は入れるようにした。そうしたら"あの子はいいのに、なんで私は入れてくれないの?"って文句を言う女の子もいて、誰かだけ特別扱いというのも嫌だし、今の場所に移転した頃から男でも女でも入れるミックス営業にしたんです」
■「ただいま」と来日公演のたびにやって来たフレディ・マーキュリー
当時の2丁目にはゲイ男性のみ利用可という店が多く、誰もが楽しめるNEW SAZAEは貴重だった。
「当時のお客さんはゲイが9割。残り1割がノンケ(異性愛者)の男女やレズビアン。ニューハーフの人も来ていた。六本木や歌舞伎町にあるショーパブの有名ニューハーフが来店して勝手にショーみたいなことをしてましたよ」
そして、海外のゲイトラベル情報誌に紹介されたことから外国人の客も増えていった。ゲイが多いとはいえ、ストレートの男女やニューハーフ、海外からの客が入り乱れて盛り上がる、他にはない多様性を持った店だったのだ。現在、よく言われるダイバーシティとはストレートの社会がLGBT をインクルードしていくことだが、それとは違った方向性でダイバーシティを実践していたとも言える。
選曲はモータウン系のソウルがメイン。
客には国内外の有名人も多く、その中には三島由紀夫やクイーンのフレディ・マーキュリーの姿もあったという。
「三島さんはグラスを手に、踊っている人たちを静かに見ているといった感じだった。フレディ・マーキュリーは、来日公演があるとかならず"ただいま"と言ってやって来たものでした」
1960年代から1970年代、新宿がカウンターカルチャーを牽引していた時代。NEW SAZAEにも様々な人々が行き交っていた。著名人もいれば家出少年や家出少女もいた。当時、ディスコといえば薬物など犯罪の温床というイメージもあり、NEW SAZAEも警察にマークされていたという。
「警官が内偵に来たりました。でもそれと分かるとお客さんが警官をからかったり、入り口でブロックして中にいれないなんてこともあったんです」
紫苑さんは薬物には厳しく、問題のある人物は出入り禁止にしていたし、未成年者がドラッグを勧められるようなことがあれば必ず止めに入った。世話焼きな性分の紫苑さんは、なにかと若い人たちの相談に乗ることも多く、その実態を知った警察とはある種の信頼関係が出来上がっていたという。
「家出少女を助けたら、親から電話がかかってきて逆に家出の原因みたいに怒鳴られたりもした。むしろ担当の警察官からは"頼んだぞ"なんて言われてたんですよ」
■お店に来てくれる人は家族。子供を預かって育てたことも
そんなふうに関わった人たちが紫苑さんの家に何人も、半ば住み着いていた時期もあったという。その中の一人に風俗で働くシングルマザーの女性がいた。ある時、彼女に結婚の話が持ち上がる。しかし、彼女は幼い子供がいることをどうしても相手に言えない。子持ちであると知られたら破局する−−−。悩んでいる彼女に紫苑さんが出した救いの手。それは自分が子供を預かって育てることだった。
「その子は中学校に入るまで育てました。高校の卒業式にも行って、その後、しばらく会っていませんでしたが、ある時、女性を連れて店にやってきたんです。"この人と結婚します"と言って」
近年、LGBTの子育てが話題になることが多いが、紫苑さんはそれをとっくに実践していたのだ。
「もともと困っている人がいると黙って見ていられない性格なんです。それにお店に来てくれる人は単なる客ではなく家族だと思っていますから」
仲良くなったお客さんの子供を預かって育てるほどの面倒見の良さは、紫苑さんの辛い生い立ちから来たものなのかもしれない。家族が欲しいという気持ちは若い頃から強かった。
紫苑さんは長崎の出身。フランス人の船員を祖父に持つクォーターとして生まれた。5歳の時に交通事故で両親を亡くし親戚の間を転々。一時期は祖父の故郷であるリヨンに住んだこともある。
帰国後、長崎でタレント活動をしていたが、ある時、交通事故に遭い臨死体験をした。これを転機として上京し、学歴の必要性を感じていた紫苑さんは奨学金を得てあらためて大学に入学。SAZAEにはじめて来たのはこの頃のことだ。
■2代目のマスターとして店を託され
新宿2丁目、雑居ビル2階にある「NEW SAZAE」
入居していたビルの建て替えに伴い、SAZAEからNEW SAZAEへと名前を変えてしばらくしたころ、店は大きな危機に見舞われる。
「初代のマスターが糖尿病と痛風に罹って、しばらく入院するからというので実家のある地方に帰ったんです。それから連絡が途絶えて、おかしいと思ったら亡くなってたんですよ」
不幸は続き、当時いたスタッフ4人のうち2人が白血病とAIDSで相次いで亡くなった。店を守るために紫苑さんは2代目のマスターになることを決意したのだった。今でも紫苑さんは、毎日店をオープンする前に、亡くなった3人のために香を焚くことを儀式のようにしている。
NEW SAZAEは年中無休。最近になって年に一度休暇を取って海外旅行に出かけるようになったが、それまでは本当に1日も休まず店を開けてきた。
「お店でみんなと会うのが楽しみだから休みたいと思ったことがないんです。ここがあったからたくさんの人と出会えた。亡くなったマスターたちに託されたという気持ちもある、ここは私にとって特別な場所なんです」
半世紀近く、この街を見続けてきた紫苑さんに、今の2丁目はどう映っているのだろうか。
■みんなが自由に、自分を出せる場所でありたい
最近は息が苦しくて踊れなくなったという紫苑さん。「体が動くかぎり店を続けたい」。
「昔のお客さんのほうが自分の主張を持っていた。この街が出来て、唯一ここが発散する場所だったからなのかな。遊び方も知っていたと思いますよ。それに比べると今の若い子たちは大人しくて、自分から場を盛り上げようという感じは少ないですね」
バブル期は今と比べると2丁目全体が賑わっていた。平日でもメインストリートの仲通りには人が溢れていたが、現在では客足はかなり減っている。NEW SAZAEも1990年代前後には週末ともなると満員で入りきれない人がドアの外で入店待ちをしていたほど。今では以前ほどの集客はなく客層もずいぶん変わったという。
「今はノンケが7割。2丁目全体が観光地化しつつある影響でしょう。女性客が多くなって、その女の子をナンパしにくる男の子も多くなった。会社でカミングアウトしてる人がノンケの部下を連れて来るなんてこともあるんですよ」
以前と比べればLGBTが世間に受け入れられ、そのぶん2丁目が外に向かって開かれ始めたということなのかもしれない。セクシュアリティにこだわらず誰をも受け入れてきたNEW SAZAEの姿勢は先駆的だったとも言える。
「みんなが自由に、自分を出せる場所にしたい。そんな思いでやってきました。これからも私の体が動く限りお店は続けていきます」
(取材・文 宇田川しい)
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