「またやるんですか、『盗聴法』という言い換え」

事実に基づかない噂を流したり、勝手なあだ名で人を呼ぶことは、それが学校であったらいじめである。

2015年の夏、安全保障法制の施行に関連して、日本中が喧しかったはずである。はずである、というのは当時、私はカナダの牧場でカウボーイとして働いていたので、そこの母屋にある弱いワイファイにスマホをつないでニュースを閲覧する以外に状況を知る術がなく、直接的にあの喧噪を知らないのである。

そして、私はそれを幸運に思ったものである。安保法制を知らないことではなく、あの騒ぎに日常生活や精神的安寧を阻害されずに済んだことを、である。

安保法制というのは、1つの新法案と10の改正法案を束にしてまとめた呼び方で、内容はとても複雑なため、落ち着いて仔細に検討しなくては本来理解が難しいものだった。

だから、それを「戦争法」と呼んで大きな声で圧倒しようとする活動は、ある種の方々にとっては見事な戦略で、多くの国民にとっては不利益なことでもあったはずだ。

重要な部分を改めて説明しておくと、大きな目的は「アジア太平洋地域でも、国際社会全体でも、平和、安全、そして繁栄を脅かす、様々な課題や不安定要因があきらかになって」いることに鑑み、「日本の平和と安全を確保するためには、紛争を未然に防ぐ力、つまり、『抑止力』を高めることが必要だった」からである(カッコ内は首相官邸HPの言葉)。あー、まどろっこしい。

つまり、これまでの法ではできないことが多すぎて、充分に国を防衛できないと政府が踏んだわけだ。なぜなら、北朝鮮は核兵器を保有してミサイル発射「訓練」を強行し、チャイナは南シナ海の領有権の不明瞭な地域の支配を軍事要塞化により着実に既成事実とし、武装した「公船」が我が国の領海侵犯、接続水域への侵入を繰り返しているからだ。繰り返されすぎてもはや「昨日は花粉が多かった」ほどの話題にもならない(もちろんこれが狙いだろう)。

そんな中、有事の際には自衛隊と海上保安庁は映画『シン・ゴジラ』に描かれたような笑えない混乱に陥ることは明白である。想定される敵が法の網目をかいくぐって突いてくることも想像に容易い。その隙間を小さくして、「抑止力を高める=攻められにくくする」のが安保法制の役割であった。どこに「戦争を始める理由」があるというのだろう。

法制の内容のポイントは、集団的自衛権と後方支援だ。

「日本が直接的な攻撃を受けたわけではないけど、アメリカがやる時、ジャパンもできることをする」

「戦闘地域以外ならあちこちで支援活動をする」

現実に即して簡略化すると、こういうことだ。本来は簡略化してはいけないのだが、あまりにまどろっこしい。まどろっこしくさせられているのだ。「ああいう人たち」のために。

戦闘地域以外を「後方」といい、そこで行なう弾薬や食糧、燃料といった物資、人員の輸送、車両や武器の修理、負傷者の治療などを後方支援という。その活動をこれまで日本独自の限定的な方法で行なってきたが、それを拡大をするということであった。

当然、「日本が戦争に巻き込まれる」という不安があり、安倍首相はわざわざそれを「絶対にない」と、強い言葉で否定した(2015年5月14日)。徴兵制も「明確な憲法違反で、導入は全くありえない」と言明した(2015年7月30日)。

やると「約束」した消費増税も延期した首相だから信用できないだろうか。

しかし、人が何度同じことを言っても、どう説明をしても、「信用できない!」「ウソつきだ!」「ヒトラー!」と叫ぶばかりでは議論にならない。野党をはじめとした彼らが聞く耳を持たずに、建設的議論がおよそ聞こえてこなかったことが、冒頭で言及した国民への不利益だ。もっと言えば、多くの常民から「なんか気持ち悪い人たちが目を吊り上げてあることないこと決めつけてるだけなので関わりたくない」と、興味を失わせてしまった。

正直言って、広範囲な戦闘になった場合、支援しようにも「ここは戦闘地域ですか? そうではないですか?」「もしそうでないなら、これはしていいですか? よくないでしょうか?」「これは自衛と言えるでしょうか? どこまで武器を使っていいでしょうか?」など、この国は雁字搦めでとてもまともな働きはできないのだが、かと言って、「なんにもしません」では本当に国が滅びることもありえないとは言えない。この複雑さと不自由さは、敗戦国の桎梏として逃れられまい。その中で国は果たせる責任を全うするべく、安保法制なり憲法解釈の変更という無理くりがあったと、私は考える。

議論をするなら、「戦争はダメ、絶対!」ではなく、「その法制で、本当に国を守れるのか」という視点でするべきではなかったか。ダメ絶対なことくらい誰でもわかっているが、この世に絶対は「人はいつか死ぬ」以外にありえないのだ。

その上で、日本の法律は、防衛体制は、そして憲法は、どのような進展をするべきなのかという議論がなされるべきではないだろうか。世界が動いていく以上、日本も様々な面で変わっていかざるをえないのは明らかだ。

憲法を改正しろと言っているのではない。私は個人的には「憲法9条を最後まで保持したまま、国防にできる限りの布石を打ち、策を練り、ズルかろうが理想と現実に齟齬があろうが、あらゆる手を尽くすべきだ」と考える者だ。なぜなら、繰り返すが、憲法9条は成り立ちはどうあれ、歴史によって与えられた桎梏だからだ。「永久」とそこに書いてあるからだ。

2年が経ち、いま同じことが繰り返されようとしている。共謀罪の構成要素がより厳格化されたテロ等準備法だ。

重大な犯罪の実行を目的とした組織的犯罪集団が対象で、

具体的な計画の存在があり、

実行にうつすための準備行為

が要件となる。通信傍受法を「盗聴法」、安保法制を「戦争法」と呼び換えたように、これを「自由を奪う共謀罪」などとして、あたかも一般国民が常に監視・盗聴されるという言説や、飲み屋の与太話で逮捕されるとか、「社会を変えようと相談するだけで犯罪になる」などいう程度の低いデマに終始することが賢明なこととは思えない。共謀罪それ自体が天下の悪法であるわけでもない。批判があったから、厳格化・具体化で対応しただけだろう。

監視についていえば、2004年に新宿のコマ劇前広場に監視カメラが設置された時にも「監視社会!」という批判があった。住基ネットでもそう、マイナンバーでもそうだった。

その後、映像技術やインターネットが急速に進化し、現代は監視など当たり前になっている。防犯カメラの設置に反対する人などもはや皆無に近いのではないか。

しかも、バカげたことに(とあえて書くが)、「自由が奪われる」「わたしたちは全員政府に監視されている」などとSNSに書き込む人がいる。監視と呼ぶかどうかはその人の自由な解釈に任せたとしても、現代社会とはすでにそういう世界だ。

「○○を殺す」とネットに書けば警察が追ってくるし、度を越えたバカをやればネットで拡散され、社会的に抹殺されかねないのがフツーのことだ(まぁ、このコラムもある程度は叩かれるだろう)。

グーグルとフェイスブックというのは、端的に言うと、「皆さんから個人情報をタダで提供してもらい、それをデータ化して企業に売るシステム」である。つまり、SNSに書き込んだ時点で、自分の素性や志向や思想を晒しているわけで、もはやそれが常態なのである。フツーのことなのだ。

〈Eメールを送れば、その内容は、メール機能を提供しているメールサーバーに記録されます〉

〈携帯電話を使えば、かけた電話番号、受けた電話番号、通話時間、テキスト・メッセージ等々に加え、位置も記録されます〉

〈スマートフォンはコンピューターそのものなので、スマホにインストールされた様々なアプリケーションが、様々な情報をアプリケーションの持ち主に送り続けています〉

〈キンドルで電子書籍や雑誌を読めば、誰が何をどの程度のスピードで読んで、どこにマークをつけたり、読み返したりしたかなど、全ての行動がアマゾンに送られます〉

〈買ったものや飲食したものは店のキャッシュ・レジスターやクレジットカード会社に記録されます〉(以上は小林由美著『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社)より)

グーグルにより我々一般人が受けている利益というのは計り知れないが、フェイスブックやツイッターといったSNSでも、知り合うはずもない人たちと知り合えたり、情報に触れたり、データ分析された結果から、志向に沿った広告により新しいものを知ったり、好きなものに出合ったりできるという利点がある。鬱陶しい広告も多いから、一概に利点とは言い切れない気持ちもあるだろうが、利用するならそのように考えて楽しむ他ない。

前出の書籍が指摘するように、それにより富の一極集中が止まらないが、かといって個々人がネット利用をやめるわけにはいかない現実の方が、一般人がテロ等準備罪を怖れるよりも、問題としては深刻である。

このように、人はすでに丸裸にされているのである。だから、今さら政府が進めようとするテロ等準備罪が、善良な国民を裏で掌握するというような浅薄な扇動で時間を無駄に使うのはやめてもらいたい。国会での有限な時間は、森友学園問題でもうあくびが出るほど浪費された。

ヨーロッパ各地やエジプトでテロ事件が起き、シリアでは化学兵器による一般人の殺戮があった。アサド政権の所為と断定したアメリカによる軍事基地への空爆と、ロシアの反発も世界が注視するところだ。

さらに日本に近いところでは、アメリカは北朝鮮への先制攻撃で、金正恩らの「斬首作戦」を実行するのかしないのか、これまでにない緊張が高まっている。その時、すなわち先ほどわざと簡略化して書いた「日本が直接的な攻撃を受けたわけではないけど、アメリカがやる時」、北朝鮮にいるであろう日本人拉致被害者を救出することは、果たして安保法や憲法の枠内において、日本政府に可能なのかどうか。

いま、大変重要なことである。

事実に基づかない噂を流したり、勝手なあだ名で人を呼ぶことは、それが学校であったらいじめである。いじめをする人間を普通の人は「卑怯者」と見る。そして、卑怯者に何が起きるかというと、

「人として信用されない」。

これに尽きる。