災害対策の現場からみた憲法改正「国家緊急権」創設の危うさ

災害対策の現場からすると「国家緊急権」はいらない。理由は3つある。
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Japanese Prime Minister Shinzo Abe speaks during a press conference at his official residence in Tokyo Tuesday, July 1, 2014. Japan took a step away Tuesday from an American-drafted constitution that has long kept its military shackled, approving a plan to allow greater use of a force that was vanquished at the end of World War II. Abe said the shift is intended to protect the lives and security of the Japanese people. For example, he said, Japanese warships would be able to help protect U.S. ships that were fighting to defend Japan.
ASSOCIATED PRESS

与党・自民党は、次の参議院選後を目処に、緊急事態条項すなわち「国家緊急権」の新設を含む、改憲の国会発議を行う意向を明らかにした

国家緊急権とは、自然災害や戦争などの緊急事態に、憲法秩序を一時停止して、非常措置を行う政府の権限のことをいう。

災害対策の現場からすると「国家緊急権」はいらない。理由は3つある。

■それ自体とても危ない

ひとつ目は、国家緊急権は、それ自体とても危ないからである。

要するに国家緊急権は、危機に瀕したときは政府に全てをお任せしてしまうということだ。しかし、たとえ緊急時といえども憲法秩序を取っ払ってしまうことには強い懸念がある。憲法は、一人ひとりの生命や財産や権利を守るために、政府に義務を負わせ、暴走に歯止めをかける法システムである。つまり、災害などで市民の人権が危機に瀕しているときにこそ、まさに憲法の出番なのだ。ところが、逆にこうした憲法秩序を停止してしまい、「何人も‥国その他公の機関の指示に従わなければならない」(自民党憲法改正草案99条3項)というのだから、国民の目から見ればまったく本末転倒である。歴史を振り返ってみれば、緊急事態に政府が誤りを犯した愚例は枚挙に暇が無い。

■日本の制度は十分整っている

ふたつ目は、国家緊急権などなくても日本の制度は十分整っているからである。

諸外国には国家緊急権の規定があるのに、日本にはそれがない、とよくいわれる。それは日本の法制が劣っているからではなく、むしろ優れているからである。自然災害についていえば、我が国の災害対策基本法のように、精緻に整備された制度は類を見ない。それは、災害が圧倒的に多い日本だからこそ蓄積された教訓があるからこその重みであり、戦争と災害をごちゃまぜにしている大陸法系の法制度よりずっと練られている。この災害対策基本法の中には、きちんと「災害緊急事態」の章が設けられており、災害緊急事態の布告の規定もある。いざという時の法の備えは既に存在している。しかるに、あたかも不備があるかのように強調するのはペテンだし、国家緊急権を設けようとする動きは、法の無知に乗じたアンフェアな姿勢だと思う。

■国家緊急権があっても使えない

みっつ目は、国家緊急権があっても使えないからだ。

思い出して欲しい、東日本大震災の直後の政府の対応を。被災者を助けるための「災害救助法」があるのに、それを正しく活用しない。惨憺たる被災地を応援する「災害対策基本法」の規定があるのに、それを適用しない。地球規模の緊急事態である原発事故に際し、情報を隠蔽し、予定された法システムを無視し、「子ども被災者支援法」を制定したのに実行しない。要するに、たとえ良い制度があっても使い方を知らない、想定をしていない、訓練をしていないから、こうした愚かな結果を招いたのである。あまつさえ、特別増税で集めた復興財源を、「復興基本法」を悪用して被災地と無関係に流用する。国土強靱化の名目で公共投資を繰り返す。「政府は間違うことは無い」と心底信じている人がどれだけいるのだろうか。既存の法制度さえ正しく使えない政府に、あぶない道具を持たせるわけにいかないのである。

■「災害対策」の大義名分による思考停止

ところが、「大災害への対策だ」という大義名分を冠に載せると、社会もメディアも、何となく無批判に受け入れてしまう。

国民も、何となく良いことと受け止め、それ以上は深く考えない。

東日本大震災の直後に日経電子版が行ったアンケートでは、災害への対処や防災等のための私権制限に賛成する意見が約8割にのぼり、賛成派議員の論拠にもなった。国民の善意はよく理解できる。しかし、緊急事態条項を設けたら、真っ先に制限や束縛を受けてしまうのは、被災地の人々や避難した人々であるという想像力は働いていただろうか。

 2012年度の衆参両議院の憲法調査会でも国家緊急権について活発な意見交換が行われ、同年7月の中央防災会議が公表した最終報告では、現行の災害緊急事態の緊急措置を拡張して、有事法制である国民保護法制などを参考に、国家存立対策や法整備が必要だと指摘した。彼らは、本当に現行の法制度を正しく理解していたのだろうか。

私たちは、国家緊急権を取り入れるがごとき愚行は、絶対に避けなければならない。

■忘れてはならない歴史の教訓

忘れてはならない出来事を3点だけ挙げておく。

第1に、関東大震災では、旧憲法下の国家緊急権(緊急勅令)が適用された。多数の外国人や思想家たちが虐殺されたが、その契機となった悪質なデマの出元は、海軍省船橋送信所の9月3日午前8時15分の各地方長官宛の打電であるというのが定説である。わずか約90年前の出来事である。

第2に、最も優れた近代憲法といわれるドイツのワイマール憲法には第48条に国家緊急権の規定があり、社会不安の中でこれが乱用され、全権委任法が制定され、ナチスの独裁につながっていき、世界中を戦火に巻き込んでいった。

第3に、ごく最近、10年前に米国で起きたハリケーンカトリーナ災害では、FEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の失態に加え、大統領の非常事態宣言の後に、警察による市民の誤殺事件や被災者の遺棄などの事件が起きた。レベッカ・ソルニットは著書「災害ユートピア」の中で、こうした為政者が陥るパニックを「エリートパニック」といって、災害のたびに起きる普遍的現象であると指摘している。

東大の法哲学者の尾高朝雄は「国家の生命を保全せねばならぬ、という何人も肯わざるを得ない主張の蔭には、国家緊急権の旗旌をかざして国家の運営を自己の描く筋書き通りに専行しようとする意図が秘められやすい」と述べた(『国家緊急権の問題』法学協会雑誌62巻9号 1943年)。

70年余経った今、社会は、まさに同じ状況に直面している。