陰謀論や、反ワクチン論。科学的な「正しさ」では動かない人とどう向き合うのか。

もしもネット上で陰謀論を拡散する人を見かけたら、まずは論理的に事実を示すべきだ。相手が意見を変えたなら、もうそれ以上は触れない。決して「論破」してはいけない。
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都内でトランプ支持者デモ
時事新聞社

アメリカや日本で、陰謀論が流行している。

先のアメリカ大統領選をめぐり「票が操作された」などというデマが世界中で拡散されたが、日本語での拡散が目立ったという研究結果も発表された。

既存の権威や専門家、マスメディアや科学を信じない態度は、新型コロナウイルスのワクチンにも及んでおり、反ワクチン運動は世界各地で観測されている。

科学的な事実を並べても通用しない人々とどう向き合うのかは、喫緊の課題だ。

新型コロナ、ワクチンを拒否する人々

日本でも2月17日から、新型コロナウイルスワクチンの先行接種が始まった。

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新型コロナ・ワクチンを接種する医療従事者
時事新聞社

筆者は、ワクチンは基本的に信頼できるものであり、多くの人が接種した方が全体の利益は大きくなると考えている。しかし、福島原発事故後のさまざまな議論などを見て、科学や真理の「正しさ」を啓蒙する態度には限界があり、時に暴力性もあるということを痛感した。

筆者の考える反ワクチンの源泉は、3つだ。

1つ目は、歴史的な薬害などの経緯である。薬害エイズ事件やサリドマイド事件など、実際に起きた薬害事件が、製薬会社や政府に不信の念を抱かせているケース。2つ目は、スピリチュアルや自然信仰に関わっている。生命に関するものなので、「人工的」なものを導入したくないと思う人々が一定数いるのだ。特に子どもを案じる気持ちと密接に関わる場合が多い。子宮頸がんのワクチンによる副作用を主張する声やMMRワクチンが自閉症を引き起こすという主張もこれに属するだろう。3つ目は宗教だ。日本ではあまり目立たないが、アメリカの一部の州では信仰を理由としたワクチン拒否が認められている。

こうした拒否感に対して「正しさ」を伝えるアプローチには限界がある。言葉にすると当たり前のようだが、信頼や不安などの心情もまた重要だからだ。

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コロナワクチン/もみ合う反ワクチンの英デモ隊
時事新聞社

「なぜやめられないのか?」と叱責しない

陰謀論を信じる人々と、反ワクチン論者。それぞれ違いはあり、一緒くたに語ることはできないものの、事実だけでは動かされない人々と向き合う方法を模索することが、これからの社会のあり方を考えるきっかけになると思っている。

もちろん陰謀論による攻撃を受けている当事者や傷ついている人にこうした態度を求めるものではない。それは非常に難しいものだ。一方で、公共心を持って社会を良くしたいと議論に参加しているのに、対話不全に陥っている方たちに、筆者がこれから書くようなことが役立つシーンがあるのではないかと期待している。

反ワクチン論者が依拠しているスピリチュアルや自然療法、宗教についてはまた別の機会に論じるとして、Qアノンやその日本版のJアノンなど、現在猛威を振るっている陰謀論を中心に、「分断」を克服するために有用な知見を紹介したい。

 

まず、依存症治療の考え方が役に立つ、と筆者は考える。

たとえばアルコール依存症や薬物依存症。あるいは単純化はできないものの、万引きなどを繰り返す人々のように、筆者がインターネット上で観察している中では、陰謀論や差別に“ハマる”人たちもある種の依存状態になっていると見られる。

QアノンやJアノンが発展していく匿名掲示板を見ると、ほとんどゲームのように次々と書き込みが行われる。自分たちの望む「真実」が明らかになりラスボスを打倒する快楽に依存しているように思われる。脅威を産み出す「悪」を特定できたと感じると、不安や恐怖も和らぎ、世界がコントロール可能であるという気分になってくる。

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イメージ写真
dusanpetkovic via Getty Images

依存症の治療では、非難や叱責は良くないとされている。周囲の人々からすれば「なぜやめられないのか」とでも一言言いたくなるかもしれないが、言うと罪悪感や劣等感、不安や孤独感でまた嗜癖行動が始まる。依存症は「否認の病」とも呼ばれ、自身の問題や現状を理解することを拒むことに特徴がある。現実や事実を突きつけ「対決」することでまた逃避が始まり、適切ではないとされる。 

また、加害者治療の考え方も同様に参考になる。 

陰謀論を信じる者の中には、差別的な言動や、破壊的なデマを撒いた(=加害)人々もいる。当然その考え方や行いをやめてもらいたいし、批判されるべきだ。だが、その人を責めるだけでは得策ではないことがある。依存症のケースと重複するが、糾弾は罪悪感を高め、自己肯定感を減らす。新しい考え方に移行しない方が心理的に楽だと感じさせてしまうおそれがあるからだ。

もちろん、犯罪に関わってくるなど、法的な措置、告発や糾弾、啓蒙が必要な場面はある。だが、「分断」が起きているこの現状で、そのアプローチだけでは効果が限定的だろう。

地球は平らだと信じる人々の「孤独」に目を向ける。

先日、『ビハインド・ザ・カーブ』という「地球平面説」を信じる人々を描いたドキュメンタリーをNetflixで観た。地球は丸くないと主張する人々はYouTubeなどで繋がり合い、明るく歌などを作っていた。どことなく滑稽でもあり、実に哀しい気持ちになる映画だった。

信者には、こんな人たちが目立った。地方に住み、社会的に高い地位にあるわけでもなく、おそらくは孤独で、白人で男性。自己責任社会では「負け犬」「敗残者」とレッテルを貼られ、不当に扱われた人々だろう。

科学者やジャーナリストは「地球平面説」を一蹴する。彼らはいい服を着て、いいインテリアに囲まれていた。これが、「リベラル・エスタブリッシュの残酷さ」と感じられるのはよく分かった。

ある精神科医は、信者をこう分析していた。彼らは孤独なのだと。陰謀論を信じることで、仲間を得るのだと。

精神的ドラッグのように陰謀論を信じることでしか、自己肯定感や仲間とのつながり、生の意味を得られない人々がいる。それに依存し、耽溺し、手放せなくなる人がいる。

もちろん超長期的には、そのような生の貧しさや荒廃をこそ根絶しなければならない。だが、今我々がまずできることは、一人一人の心情を理解すること。より良い未来に皆で向かうのだと穏やかに語り掛けあい、信頼の感覚を醸成していくことだ。

もしもネット上で陰謀論を拡散する人を見かけたら、まずは論理的に事実を示すべきだ。相手が意見を変えたなら、もうそれ以上は触れない。抵抗を見せたとしても、「論破」してはいけない。相手の人生を思いやり、想像する時間を持つといい。断片的なコミュニケーションになりがちなSNSのやり取りでそれが難しければ、小説や映画やドキュメンタリーの助けを借りるといいだろう。

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Westend61 via Getty Images

カントVSシラー。人類は同じ問題を抱えてきた

最後に、この問題はこの時代特有の新しい課題ではないことを補足しておきたい。

この問題系は18世紀には既にあった。あまりにも論理的にガチガチで隙がなく、道徳的な要求をしてくるカントの哲学・倫理学に対して、シラーという劇作家・美学者は、理性だけじゃダメで、感性に訴えかけなければいけないと主張した。彼の作品はフランス革命に影響を与えたという。

そのおよそ150年後、ナチスドイツによる、科学的で合理的で秩序正しいかのように理論武装をされたユダヤ人の大量殺戮が起きる。この事態に直面したアドルノ=ホルクハイマーらは、科学や論理の非人間性を問題化するようになる。彼らは言う。「論理が人間性に反する場合には、論理を無視することも必要なのだ」と。

彼らの主張にもまた批判はあるのだが、ホルクハイマーらの『啓蒙の弁証法』を読むと、「理性の暴力性を理性によってどう制御するのか」という問題に整理されていると言っていい。その問題意識は、現在でも重要性を失っていない。

こうした歴史をここで述べたのは、科学や論理の暴力性、伝わらなさなどの問題系に対する議論が、もう長く複雑に積み重ねられてきたことに注意を促したいからだ。「ファクトや正しさでわからせればいい」という態度だけでは解決できないことが歴史的な経緯からも見て取れる。

新型コロナウイルスのパンデミックが収束し、感染者が減り、経済活動が再び活性化することは、多くの人々を救い、未来の可能性をより豊かにすることは間違いがない。

ワクチン接種を拒む人々が増えると、イタリアの「五つ星運動」のような反ワクチン政党が政権をとる可能性もあり、危機感はある。

だが「打たない人は非国民だ」「非科学的で無知だ」という糾弾や批難ではなく、共感的に理解し、心に働きかける態度が肝要ではないか。

「分断」されているとは言っても、世界も人もつながりあっており、全員で支え合っているのだ。思想や意見が対立している相手も、一緒に未来に進んでいく仲間なのだから。

(文:藤田直哉 / 編集:南 麻理江)