1923年、関東大震災から一夜明けた9月2日の午後8時頃。東京府北多摩郡千歳村字烏山において新宿方面に移動中のトラックが自警団によって止められ、竹やり、棍棒、トビ口などで武装した人々に取り囲まれた。
車中に乗っていたのは17人の朝鮮人労働者たちで京王電鉄の依頼を受けて土木作業現場に就く途中であった。すでに「震災の混乱に乗じて転覆を図る朝鮮人暴徒が世田谷方面から集団で襲って来る」等のデマが千歳村に流布されており、尋常ならざる興奮状態であった武装集団は数回の押し問答の末、朝鮮人という言葉に反応し手にした凶器で襲い掛かった。
法に基づいた調査もなされずにただ朝鮮人ということだけで凄惨を極める私刑が行われた。当時35歳だった洪其白さんたち13名が犠牲になった。
かつてその朝鮮人虐殺が起こった現場、千歳烏山の大橋場の現場を今、じっと見ながら中川五郎は言う。
「僕は1980年代に10年ほど烏山に住んでいて、このあたりもよく通っていながら、事件のことを知らなかったんですよ。それから烏山神社のことも。だから加藤さんの本を読んだときはショックでね。すぐに歌を作って現場を訪れました」
加藤直樹著「九月、東京の路上で」(ころから刊)は当時の文献や証言に踏み入り関東一円で同時多発的に巻き起こった虐殺の事実を徹底的に検証した良書である。難民を助ける会の長有紀枝理事長はボスニアのスレブレニッツァで起こった「民族浄化」を長年に渡って研究してきたアカデミシャン(立教大学教授)でもあるが、「九月」を読んで自分の足元でも同様にこのようなジェノサイドが起こっていたことに衝撃を受けたと語っている。
中川もまたこの本に突き動かされて「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」を作った。虐殺事件に触れる世田谷区50年誌によれば、かつて烏山神社にあった13本の椎の木は「自警団に殺された13人の朝鮮人の霊をとむらうために植えられた」とあるが、加藤は新たに「烏山神社の椎の木は朝鮮人供養のためではなく、殺人罪などで起訴された加害者のご苦労をねぎらうため」という地元に暮らす古老からの証言を掘り越している。
「怖いことです。僕も住んでいたからこそ分かるんですが、千歳の村でかばい合う意味での絆があったんでしょうね。身内の団結というか、例え誤ったことでもそれは地元のためにやったことだからと正当化してしまう。内向きでそれを正義にしてしまう。日本の恐ろしい所、この国が犯して来た過ちです。これを歌わなければと強く思ったわけです」
本が出たのが2014年3月で5月にはもう曲を作っていた。烏山で起きた事件をひとつの物語としてろうろうと歌い上げるバラッドは実に17分49秒におよぶ大作となった。
「でもね」と続ける。「僕が歌っているのは、94年前のことではなく、今の日本のこと。事件は過去のことでも現在と未来のことを歌っているんです」
一時ほどではないにせよ、白昼堂々と「朝鮮人を殺せ」と叫ぶヘイトスピーチが横行し、それらを企んだ人物が政党を作った。一年前には相模原の障害者施設で19人が殺害される事件が起こった。
「自分たちと異なる人たち、出自を外国に持つ人であったり、障害を持つ人たちとこの国で共に生きようとするのではなくて排除しようとしている。そんなひどい社会になっているじゃないですか」
そして関東大震災の虐殺については、歴代都知事が行って来た朝鮮人犠牲者の追悼式に対する追悼文を小池百合子都知事が、約6000人という犠牲者の数に疑義を呈して今回は見送ると表明した。
「ああいう歴史修正が恐ろしい。小池知事は東京大空襲や広島、長崎の被害の数字にはこだわりは見せていないじゃないですか。それでいて関東大震災の虐殺については数字から事実ではないのではないかという言いがかり。仮にその数字に信憑性がなかったとしても、例え犠牲者の数が少なかったとしても、デマがあって自分たちと違う人々がそれを理由に殺されたという悲惨な出来事自体はあったわけです」
「都知事の立場ならば、かつて東京でそういう事件が起こったということ、数字の正確さよりもそれを二度と繰り返さないという誓いを言わないといけないと思うんですよ。ところが、数字の問題にすり替えて、あった事実をゼロにしてしまう。知事が追悼の言葉を送らないなんて考えられないですよ。恐ろしい時代になって来ました。そのおかげで僕はこの年になって歌いたいことがどんどん出て来ました」
岡林信康や高石ともやら日本のフォークソングの始祖の一人、中川が歌い始めたのは1967年、大阪寝屋川の高校二年のときである。アメリカのシンガー、ウディ・ガスリーやピート・シーガーそしてボブ・ディランに大きな影響を受け、被差別部落の問題やベトナム反戦をテーマに曲を作った。1969年には伝説の第一回中津川フォークジャンボリーにも出演している。
「フォークジャンボリーも第一回は本当に手作りでウッドストックなんかの海外の野外フェスと関係のないところでやったんですよ。画期的でしたね。ところが翌年から野外フェス=ウッドストックになって、71年にも出演しましたが、規模が大きくなりすぎて違和感がありました」
「当時の関西フォークは反戦歌が当たり前でした。でも70年代に入ってその後は政治を歌に持ち込まないということが主流になっていった。僕が影響を受けたアメリカのフォークからすればあんなのはただの流行り歌です。フォークは暮らしを歌う、暮らしは政治を歌う。でも自分たちの暮らしだけで完結してしまう歌が増えた。自分たちだけが幸福だったら良くて他の人は知らない、そんな歌ばかり」
一時は歌の世界から離れていたが、2000年代になって戻って来た。それはやはりフォークシンガーとして看過できない社会になってしまったからである。
「どんどん不自由になってきてジュネーブでの軍縮会議でも日本の高校生のスピーチが無くなってしまいましたよね。僕の表現に対する考え方は飾ったり、難しいことや誰もやったことのない新しいことをやることじゃなくて、正直になって裸になることです。それが一番伝わる。逆に言うと裸になって真っ直ぐな思いを表現するというのは50年やってきたけど一番難しいんです」
自ら訳詩集も出しているボブ・ディランのノーベル文学賞についてはこう言った。「受賞理由をよく読むと歌詞が文学的ということではないんです。トラッドなアメリカの民衆音楽をベースにして訴えたいことをやり続けて来たことを文学だという。僕もその評価が正しいと思う」
ディラン同様に自らも活動を続ける。「まずは人前で歌いたいという気持ちが強い。そして歌詞を見ずに歌いたい」今は月に20回のライブを行っている。9月5日は作って3年歌い続けて来た「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」がついにCDになり発売となる。
問い合わせはC.R.A.C. Recordings(クラック・レコーディングズ)
メール= info@crac.jp
ショップアドレス=http://CRACSTORE.com
発売記念として9月1日には「駒込琉球館」で、翌2日には渋谷区の「Galaxy Gingakei」で19時よりライブが行われる。