1980年代後半から90年代前半にかけて、イランやパキスタン、バングラデシュなどから大勢の人が日本を訪れた。
バブル景気に沸く日本で、人手が足りなくなった製造業や3K(きつい・汚い・危険の略)労働の担い手としてだ。当時ビザ免除措置国だったこれらの国の人にとって、日本は来やすい場所だったのだ。
しかしバングラデシュとパキスタンは1989年1月に、イランは1992年4月にビザ免除措置が停止し、日本に滞在していた労働者たちは、追い払われていくことになった。
イラン出身のナディさんも1991年、6歳の時に両親と2人の弟とともに日本を訪れ、以来28年間日本で暮らしている。移民の子として来日してからこれまでの経験を振り返った単行本「ふるさとって呼んでもいいですか 6歳で『移民』になった私の物語」(大月書店)を6月14日に出版した。
日本は着物とちょんまげと機械の国?
ナディさんは1984年、イラン・イラク戦争のさなかにテヘランで生まれた。まだ幼なかったが、戦争の記憶は今もあると語る。
「空襲警報が鳴ったら地下室に逃げたり、配給制だったので物資をもらいに並んだりしたのを覚えています。テヘランが爆撃の標的にされると聞いたので、母の故郷のタブリーズ(イラン北部の都市)に疎開しようと家族で移動したら、そっちも空爆されたのでまた逃げたりしたのを、すごくよく覚えています」
4歳の時に戦争が終わるも、父親が経営する商店の経営が立ちいかなくなり、一家は家を売却。借金が残っていたので父はタクシー運転手、母はアクセサリーを作る内職を始めたが、家の状況はどんどん悪化していった。
「配給だけでは足りないので物資を闇市で買う人が多い中、父は安価な値段で品物を人々に売っていました。それも経営が悪くなった原因だと思います。最近『Mehrabad-Narita』という、1991年に日本に来た若者をテーマにしたイラン映画を見たのですが、その中で『きょうだいがたくさんいて両親は朝から晩まで働いていてもお金が少なくて、欲しいものがあってもお金が欲しいと言えなくて、苦しくて。だから日本に来るしかなかった』と言っている人がいて。これを見て『私たちだけじゃなかったんだ』と思ったんです。私は小さかったからお金をねだったりはしなかったけど、住む家が小さくなってしまったりスラム街に引っ越したりするのが、当時とても寂しかった。またイランは親戚付き合いがさかんで、誰かの家を訪ねたら次は自分の家に招待しなくてはならないのですが、招待しても何も振舞えないから、行き来しにくくなったのも覚えています」
両親は借金を返すために、日本に出稼ぎに行くことを決意した。イランでも「おしん」や「水戸黄門」が放送されていたことや、日本の製造業の現場をテレビで見た経験から、当時のナディさんは日本を「着物とちょんまげと機械の国」と思い込んでいたそうだ。
「テレビで日本のベルトコンベアがたくさん映ってるのを見たことがあったので、機械の国で仕事があるから行くんだと納得したけれど、おしんや水戸黄門を見ていたので、同時に日本は着物とちょんまげの国とも思っていました。当時はインターネットもなかったし子どもだったから、なぜか全部が繋がっていたのでしょうね(笑)。だから不安はなく、むしろワクワクしていたのですが……」
いざ成田空港に到着すると、父親が入国カードの生年月日を書き間違えたことで、別室に呼ばれることになってしまった。しかし4時間を超える取り調べののち、無事入国できた。その時のことを「奇跡だった」と、ナディさんは振り返る。
「大人になってから仕事の研修で入管職員の話を聞いたことがあるのですが、『イレギュラーな形で入国しようとする人は目が泳いでる』『緊張して汗をかき、書類を書き損じる』などと言っていたので、『それってまさしくうちのお父さん……』と思ってしまって。全てを処分して家族5人で日本に来てしまったけれど、入国できなかったら戻る場所もなく、借金だけ残ってしまう。だからどうにか入らないとならない。両親はすごいプレッシャーだったと思います」
病院に行けず、オロナミンCで風邪を治す
ナディさん家族はイラン人の集住地域にある、古びた木造アパートに住むことになった。
日本で働いて暮らさないといけないけど、観光ビザの期限は3カ月しかない。だからナディさんは6歳にして、「人目につかないよう、静かに暮らさなければならない」と思うようになったという。
「アパートでもあまり歓迎されていなかったので、住民の人に迷惑がかからないように、嫌なイメージを持たれないように廊下を掃除するなどして気を付けてました。あとはまだ日本語がよくわからなかった頃は、アパートで誰かとすれ違った際はとりあえずニコっと笑顔になって、ペコリとおじぎをすることを心がけていました。そうしないとオーバーステイとなった私たち家族は、生きていけないと思っていたからです。強制送還される可能性は常にありましたが、私にはどうすることもできない。でも日本語が少しでも話せれば将来役に立つかもしれないと思い、勉強はちゃんとやろうと決めていました」
ビザがないから小学校には通えないと思っていたものの、日本人の支援者たちによりナディさんは小学校に入学することができた。「国に帰れ」と言われたことはあるものの、友人や先生、周りの大人たちに対しては温かい記憶ばかりだと語る。
「いじめのようなことも確かにあったけれど、『ナディちゃん頑張って!』と言われることの方が多かったんです。小学校に入ってしばらくは家に電話がなかったのですが、友達が走って家まで連絡網を伝えに来てくれて。電話を買ってからは別の友達とそのお母さんが『連絡網が届いているか心配で』と声を掛けに来てくれました。漢字は漢和辞典で勉強して覚えましたが、それでもわからない文字は友達が読んで教えてくれて。こういった気遣いや、いたわる声の方が大きかったんです」
しかし学校は通えても、保険証は手に入れることができなかった。そのため病院での治療は全額負担となることから、怪我をしても我慢せざるを得なかった。学校行事で保険証が必要な時は、忘れたふりをしていたそうだ。
「両親が最低賃金で働いてるのが子どもながらわかっていたので、ケガしても病院に行きたいと言い出せなくて。咳をしたら耳鼻科に行くと友達から聞いていたので、なぜか耳鼻科にすごい憧れがあったんです。母は『体調不良はオロナミンCを飲んでおけば治る』と信じていたので、何かあると、うちはオロナミンCを飲んでいました。今でも好きでよく飲むのですが、ある時、夫から『ナディがオロナミンCを飲んでるのを見ると、辛くなる』と言われて。弟の奥さんには『なんでみんなすぐにオロナミンCを飲むのか、私もわからなかった』と言われました。オロナミンCさえ飲んでおけば元気でいられる、風邪も治るとずっと思ってたんですよね(笑)」
耳鼻科に憧れながらも行くことが叶わなかったナディさんだが、支援者たちの尽力により、来日11年目に特別在留許可を得ることができた。その足で家族は急いで市役所に向かい、健康保険に加入したそうだ。
その後は大学に通い、現在はエンジニアとして働くかたわら、子育てに追われている。2015年に結婚した夫のロナルドさんは、日本とパラグアイ出身の両親の間に生まれた「ダブル」で国籍は日本。
ナディさん一家は日本とイラン、パラグアイと3つのルーツを持つことになった。そんなエピソードをあますことなく描いた『ふるさとって呼んでもいいですか』の表紙は、どこか不思議なテイストになっている。
「この伊藤ハムスターさんによるイラストはイランから来た私が、日本で出会ったものやことをイメージしているのですが、よく見ると富士山がピンクだったりラーメンが青かったり、親子丼に鶏とひよこが乗っていたりします(笑)。でも自分が当たり前だと思っているものは他の人にとっては当たり前ではないし、日本には色々な人がいて、1人1人皆違う。そんな意味を込めたイラストになっているんです」
移民という言葉は、この数年で急に取りざたされるようになった印象があるが、日本ではずっと以前から、さまざまな人がともに暮らしている。だからこれまでは「日本に住まわせてもらっているのだから、外国人の権利や環境に対して、主張したり要求する権利はない」と思っていたけれど、それは間違っていると気づいたとナディさんは言う。
「つい3〜4カ月ぐらい前まで私も、日本の人が求めていない主張を移民の私がしてはいけないと思っていました。ロナルドも最近までは『自分はダブルだけど俺たち後から来たんだし』と、主張することを控えていました。でもそれは違うと思うようになりました。外国人労働者によって日本の産業は維持されていたのだから、私たちが日本を必要としただけではなく、日本も私たちが必要だったし、貢献してきた。そう気付いたことで、背負っていた十字架がストンと落ちたんです。全ての人に人権は平等にあるし、異なるルーツを持つ人がこの社会でもう一緒に暮らしている。だから私は外国人差別やヘイトスピーチに反対していきたいし、『ヘイトスピーチは決して表現の自由ではないということを言っていきたいんです」
ナディさんの著書『ふるさとって呼んでもいいですか』に、「?」はついていない。日本に住む人たちに問いかけていると同時に、「ここが私のふるさと」という強い気持ちが伝わってくるタイトルだ。
ではナディさんにとっての「ふるさと日本」への思いとは? それはぜひ、動画で確認して欲しい。