私が南米出身のトランスジェンダーとして、アメリカの名門女子大に入学するまで

母国で、私は暴行を受け、誘拐され、死ぬべきだと言われました。
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NINOTSKA LOVE

この大学に来たからには、私はラテンアメリカ系の人々、移民、LGBTQのコミュニティーにとって、メンターになりたいのです。それが私の目的です。

今月初め、私は、アメリカ最高峰の女子大学であるウェルズリー大学初のトランスジェンダーの女性の入学者のひとりとして、学び始めました。

ウェルズリーは2015年、トランスジェンダーの女性入学者を正式に受け入れると発表しました。

そして今、私はこのキャンパスの歴史ある窓の一つを覗きながら、自分自身の歴史を思い出すとともに、この大学における学生の多様性に貢献できることがいかに幸運であるかを実感しています。

私が自分の夢であるこの大学にたどり着くまでの道のりは、長く曲がりくねったもので、多くの人々が私を助けてくれました。

私の旅は、エクアドルの都市グアヤキルから始まりました。私は5歳のとき、好奇心とともに「なぜ自分の心に合わない体に生まれてきたのだろう」という質問を自らに問いかけ始めました。

私は、男子校から、通りを挟んで向かいの女子校を眺め、自分がいるべきと感じていた女子校での生活を空想したものでした。私は自分自身を男の子の体を持つ女の子と思っていましたが、他人からはゲイ、または女性的すぎると思われていました。

その後の高校でも、私は依然として自分の感情を表現できずにいましたが、自分の知的好奇心と優秀な成績が、クラスメイトと自分の壁を多少は取り払ってくれました。

同級生たちは、プロジェクトやグループスタディで私の手助けを必要としたので、敬意を持って接してくれましたが、女性として接してもらえたのは、クラブでショーパフォーマーとしてパフォーマンスをしていたときだけです。

ステージの上では、自分のアイディンティを表す代名詞にようやく違和感がなくなり、スーパーヒーローになったかのように感じました。

不幸なことに、ある日クラブを出た後に、私は暴行を受け、誘拐され、死ぬべきだと言われました。この経験から生き延びた私は、自分にこう問いかけました。

自分の命の危険を感じて、いつまでエクアドルで生きることができるだろうか?

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自分の性自認に対する迫害から逃れるため、私は勇気に満ちた心と背中に背負った衣服だけで、2009年にエクアドルから移住することにしました。

メキシコ移住に数週間で失敗した後、私は国境を越えてアメリカに渡り、ノースカロライナで代母と一緒に暮らしました。

そこでは、私は正式書類のないラテン系移民で、"ホモセクシュアル"のレッテルを貼られ、強い訛りがあって、英語を話せないため、さらに(差別の)ターゲットとなってしまいました。

私は、新しい言語を学ぶことで自立を獲得し、この国で新たな物事を発見できると思いました。知的好奇心は、言語学習への高いモチベーションをもたらしてくれました。

私は英語を読める限り読み、地域の教会の無料講座に出席し始めました。自分の頭脳に挑戦することで、私は依然として自分の心と一致したように思えなかった、自分の体の現実から目を背けることができたのです。

2010年、私はたくさんの夢を持って、「ここは夢が叶う都市」と思い描いたニューヨーク市に引っ越しました。それは、少なくともTVで観た映画がいつも描いていたニューヨークの姿でしたが、誰も夢を叶える方法は教えてくれませんでした。

私には多くの疑問がありました。

女性として通用するか? パフォーマーでなくとも女性として接してもらえるか? そして最も重要なこと——アメリカに合法的に滞在する許可を得ることができるか?

徐々に、私はいくつかの答えと私が切望していた励ましに出会いました。

私の最初のメンターは、マンハッタンのLGBTコミュニティーセンターで働いていたクリスティーナ・ヘレーラです。彼女は私にカウンセリングをして、私が、男性から女性へ性別移行するときに支援してくれました。

そして、プロボノ活動を行う弁護士ジョン・サンチェスの優しさと情熱により、私は幸運にもアメリカ合衆国での亡命が認められました。

彼らのサポートにより、私は、自分がなるべきと常に感じていた女性になることを決意しました。2013年、ついに私は法的に自分の氏名と性別を変えることができたのです。これらの出来事は、人の寛大さと意志の力が、誰かの夢を実現させる手助けになることを私に教えてくれました。

初期のメンターたちとともにつかんだ成功が、さらに前に進む自信を与えてくれ、2015年、私はラガーディア・コミュニティーカレッジに入学しました。

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そこで、私は新しいメンターたちとチャンス——数人の教授、プログラム、カレッジのアンバサダーのひとりとしての役割ーーのおかげで、カレッジのスーパーヒーローになりました。

私にとってのターニングポイントは、カプラン教育財団の奨学生に選ばれ、恵まれない環境で育った成績優秀なコミュニティカレッジの学生が、優れた4年制の大学に転校しようとするプログラムに参加したことです。

この素晴らしい機会が、教育の観点からだけでなく、私個人の人生も変えました。私がリーダーとなる手助けをしてくれました。

以前であれば、私は自分の物語をシェアできなかったと思います。私は自分のセクシュアリティのせいで拒絶されることに怯えすぎていたのです。今はそれが間違いであることを知っています。もし私が私であることを理由に、大学が私を拒絶するとしたら、私はその大学には関わりたくありません。

1月初め、私は教育財団のメンターたちとともにウェルズリー大学を訪問する機会がありました。私は自分の足が地面に根付き、木になったかのような気持ちになったことを覚えています。車の中でみんなに 「ここにいるべきだ」 と言ったことを覚えています。

プログラムのサポートにより、私はウェルズリー大学を含む数十の大学へ転校した学生のひとりとなりました。「女子校で学ぶ」という幼き日の空想が現実のものとなりました。

私は、ウェルズリー大学で過ごす時間で、学べること全てを学び、私を待ち受けるすべてての知識を吸収したいです。

現在ウェルズリー大学で、大学初のトランスジェンダーの女性入学者のひとりとして、"すべての人に対する公平な機会を"という私のメッセージを広め続ける必要性と責任を感じます。

私の物語は、自分の意志の力とすべてのメンターが与えてくれたサポートによって実現しました。

私はこれらの物語を、学生、とくにラテンアメリカ系の人々、移民、LGBTQIのコミュニティーにシェアし、彼らのメンターとなりたいのです。これが私の目標です。これが私の原動力です。

私は、同じように悪戦苦闘する人々の手助けとなること、そしてトランスジェンダー、すべての女性のロールモデルとなることを目指します。

私の最終的な目標は、身体的、感情的変化の中での気の遠くなるような医療的、法的プロセスといった、トランスジェンダーの人たちが直面する事柄について、社会が理解するサポートを行い、私たちもみんなと同じく愛と敬意に値する人間であると示すことです。

これまで以上に、私はいま、溢れんばかりの力を感じています。私は、ウェルズリー大学で過ごす時間で学べることすべてを学び、持てるすべての知識を吸収したいです。

それが自分の物語のなかで、自分がスーパーヒーローであり続け、私と社会が依然として悪戦苦闘する問いに、答えを出し続ける方法なのです。

ハフポストUS版に掲載されたものを翻訳・編集しました。