好ましくない違いにも背を向けないことが本当の多様性『いろとりどりの親子』監督インタビュー

あえて殺人者の家族を取り上げるのはなぜか。レイチェル・ドレッツィン監督にその真意を聞いた。
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(C)2017 FAR FROM THE TREE, LLC

 11月17日から公開されるドキュメンタリー映画『いろとりどりの親子』は多様性について多くの示唆に富む映画だ。

 本作は、作家アンドリュー・ソロモン氏が10年以上かけて様々な違いを持つ家族を取材してかきあげた本を基にしたドキュメンタリー映画だ。ソロモンの本では300以上の親子に取材し、ダウン症、自閉症、低身長症、性的マイノリティや神童や殺人を犯した子どもを持つ家族を取り上げている。映画は、本で紹介される数多くのアイデンティティの中から6組選び出し、映画のために新たに出演者を募って製作された。

 本作では、ダウン症、自閉症、原作者のゲイの男性であるアンドリュー・ソロモン、低身長症の家族が2組、そして殺人を犯した子どもを抱える6組の家族が描かれている。

 筆者が特に注目した点は、殺人を犯した子どもを持つ家族を取り上げている点だ。先天的な疾患であるダウン症や自閉症というのはわかりやすい「違い」だ。ゲイや性的マイノリティだし、低身長症も身体的ハンディキャップのマイノリティである。そうしたわかりやすいマイノリティを包摂することは社会にとって重要なことは自明だ。現実に差別はまだ残るが、それらの人々を本来差別してはいけないことは多くの人が同意するだろう。

 だが、殺人を犯した者を上記の彼らと同列に紹介することに違和感を感じる人もいるのではないか。原作には300以上もの家族が登場する。その中から6組を選ぶ中で、あえて殺人者の家族を取り上げるのはなぜか。来日したレイチェル・ドレッツィン監督にその真意を聞いた。

殺人者の家族の出演交渉は特に大変だった

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レイチェル・ドレッツィン監督
筆者撮影

——原作の本は900ページ以上ある分厚い本です。映画に取り上げる家族とアイデンティティはどういう基準で選んだのですか。

レイチェル・ドレッツィン監督(以下ドレッツィン):映画では6つの家族を取り上げました。原作には300以上の家族が登場します。実は原作と映画両方に登場する家族はダウン症のジェイソンの家族だけです。アンドリュー・ソロモンは原作を10年かけて執筆していて、本に登場する家族のエピソードはある程度完結しています。私は映画にするなら、現在進行系のものにしたいと思ったので、新たに家族を探しました。例えば、低身長症の夫婦のジョセフとリアは子どもが欲しいと考えていたので、彼らが子どもを授かる過程を撮れると考えたんです。

 製作は、自閉症やダウン症など、どのアイデンティティを映画で取り上げるかを検討することからはじめました。それぞれのエピソードが響き合うかどうかを考えて選んでいます。それから、それぞれの家族は人生の意義をそれぞれに見出して自ら選択して人生を送っています。それも重要な基準となっています。

——6つの家族の中に、殺人を犯した少年を持つ、リース家という家族が含まれています。彼らの出演交渉は特に長い時間がかかったと聞いています。なぜ彼らが映画に必要だったのですか。

ドレッツィン:リース家の出演交渉は特に大変なものでした。何度もお会いして、長い時間をかけてようやく彼らの気持ちを聞かせてもらえるようになりました。こうした時、人は彼らを(出演するように)説得しようとするでしょうが、これは奇妙なことだと私は思います。私たちは、彼らを説得しようとは思いませんでした。できることと言えば、彼らが決断してくれるのを忍耐強く待つことだけです。

 この犯罪者の子どもを持つ家族というセクションは、他のセクションよりも候補となる家族は非常に少なかったです。単純に参加意思のある家族がまず少ないですし、白人の家族にしようと思っていました。というのも、アメリカでは残念ながら犯罪と黒人を結びつける偏見が存在します。もし、このセクションに黒人家族を採用したら偏見を助長してしまう可能性がありますから。

 リース家の出演を希望した最も大きな理由は、彼らがアンドリューの本を読み、手紙を送っていたことです。その手紙の内容が素晴らしく、この映画のテーマに関わる部分がたくさんあったのです。だからこそ、彼らのエピソードがこの映画には必要だと思いました。

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「私たちに背を向けないでください」

——ダウン症や自閉症、ゲイ男性や低身長症の家族と一緒に犯罪者の家族を紹介することに、アメリカで批判はありませんでしたか。

ドレッツィン:ありました。リース家のエピソードは、ポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ、観客から一番大きな反応が起こります。批判というより、心を乱されてなぜなのかと問う人がいたと言うべきかもしれません。しかし、犯罪者の家族がここに含まれているのが素晴らしかったと言ってくれる人の方がはるかに多かったですね。確かにリース家のエピソードは他の家族のエピソードとは「違い」ます。違うからこそ、なぜなのかと問う声は確かに多かったです。

 原作を読んでいる方には自明ですが、この作品が描く「違い」は、肉体的な違いだけではなく、行動や考え方や志向の違いも含まれるんです。だからこそ、犯罪者の子どもを持つ家族のエピソードも必要なのです。

——リース家の人々は、映画の他の家族と自分たちを比べて、負い目を感じるようなことはなかったでしょうか。

ドレッツィン:彼らはアンドリューの本を読んでいますから、映画の製作時にそれを感じることはなかったと思います。本では彼らのような家族も並列に扱われていることを知っていますから。

 ニューヨークのドキュメンタリー映画祭「DOC NYC」で本作を上映した時、映画に出演してくれた全ての家族が参加してくれたんです。リース家からは母のリサさんと弟のタイラーさんが参加してくれたんですが、正直に言って私は彼らが参加したいと言ってくれたことに驚きました。

 しかし、やはり自分たちは他の家族とは事情が違うんじゃないか、他の家族が観客に温かい拍手で迎えられても、自分たちに対してはどうなのだろうと不安に感じていたようです。壇上でリサさんにマイクの順番が渡った時、彼女は詰まらせた声で「私たちに背を向けないでください」と言ったんです。とても胸が締め付けられる瞬間でした。

——リース家のエピソードは最も重要な問いかけを観客にしているかもかもしれないと思いました。「違い」を受け入れるというのは、自分たちにとって好ましくない「違い」をも受け入れることではないか、という問いを。

ドレッツィン:そのとおりです。罪を犯したという「違い」であっても、家族はなんらかの形で彼を愛する方法を見つけるしかないのですから。

映画の公式サイトにリース家の写真がない件について

 ところで、本作の予告やチラシを見た方は、殺人犯の家族が取り上げられていることに気づかない人がいるかもしれない。日本版の予告動画にもリース家は登場しているが、彼らが何を代表しているのか予告動画から読み取ることは難しい。日本版の予告動画はこれだ。

 アメリカ版の予告では、はっきりと犯罪を犯した息子がいるのだとわかるようになっている。冒頭、刑務所からかかってきた電話に出るリサさんから始まるし、中盤でも殺人を犯したトレヴァー本人の顔写真を使用して、母親のリサさんがストライプの囚人服を着て拘束されていた、と話すカットが使われている。

 そして、映画の日本語公式サイトの出演者の紹介ページには、リース家だけ写真が掲載されていない。

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リース家の紹介欄は右上
『いろとりどりの親子』公式サイトより

 この理由を、本作を日本で配給する株式会社ロングライドに聞いた。リース家の写真だけがない理由は、「権利元から送られてきた素材に、リース家の場面写真が一枚もなかった。宣伝意図として敢えて彼らを除外しているのではなく、素材があれば彼らも6組の親子と同等のものとして、表に出して掲載していた」とのことだ。

 そして予告に関しては、アメリカ版よりも短く1分45秒前後に収める必要があったため、短い尺の中で殺人について言及すると、他の家族の印象を打ち消して映画全体のメッセージが伝わりにくくなるのではと懸念して、親が子をどう感じているかを強調する方向で編集したそうだ。筆者も昔、予告動画の作成に少しだけ関わったことがあるが、35秒の差は確かに大きく、含められる情報量が大きく変わることは確かだ。

 では、予告とともに映画宣伝で重要な役割を果たすチラシはどうだろうか。こちらにもリース家への言及はない。

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映画宣伝用チラシの裏側。
筆者撮影

 チラシ上段は原作本に関する描写が主で、「自閉症や、ダウン症、低身長症、LGBTなど、"違う"性質を抱えた子を持つ300以上の親子に取材」という一文がある。ここで挙げられた4つは、殺人を犯した子どもを持つ家族以外の、映画でも紹介されるマイノリティだが、原作には他にも、神童やレイプによって生まれた子ども、ろう者、統合失調症、複合障害などさまざまな子どもを持つ家族が描かれている。原作を説明するにあたり、たまたまその4つを選択しただけで、殺人への言及を避ける意図はなかったとのことだ。下段の文章が映画についての概要で、ここでは「さまざまな"違い"を抱えた子どもを持つ6つの親子」という言及となっている。

障害を持つ親は公的資金の援助がある、犯罪者の親は時に訴追される

 そもそも原作者のアンドリュー・ソロモンはなぜ犯罪者の子どもを持つ親をも紹介しようと思ったのだろうか。彼の想いの一端を知るために原作から引用する。

While parents of children with disabilities receive state funding, parents of criminals are frequently prosecuted.(障害を持つ親は公的資金の援助があるは、犯罪者の親は時に訴追される。)

<中略>

Having a child with physical or mental disabilities is usually a social experience, and you are embraced by other families facing the same challenges. Having a child who goes to prison frequently imposes isolation. (身体的・精神的障害を持った子どもを抱えることは社会的経験であり、時に同じ経験を持つ他の家族に受け入れられることもあるだろう。だが、刑務所に入った子どもを持つと孤立しがちになる。)

(Solomon, Andrew. Far From The Tree: Parents, Children and the Search for Identity (pp.537-538). Random House. Kindle 版.)

 時に障害を持った子どもを育てることは、励ましの言葉をもらうこともあるだろう。ソロモンの言うように公的資金の援助が受けられるケースもある。しかし、犯罪者の子どもを持つことは、社会から厳しい目で見られる場合が多いだろう。子どもが犯罪を犯したのは親の責任だと言われることすらある。本作は子どもと親が「違う」のだということを描いている。ドレッツィン監督の言うように「違い」とは身体的・精神的なものだけではない。品行方正な両親から犯罪者の子どもが生まれることだってある。健常者の両親からダウン症や自閉症、低身長症の子どもが生まれるように。異性愛者の両親から同性愛者の子どもが生まれるように。

 それらの「違い」は、ソロモンが書くように同等に扱われていないのが現実だろうが、少なくとも映画と原作は同等に扱っている。その作り手の意図を日本の宣伝はどの程度汲めているのだろうか。犯罪者を出すと他の家族の印象が薄くなるのではという、配給会社の懸念は果たして適切であろうか。その懸念を乗り越えて違いを認めるというのが、この映画の趣旨ではないか。

 

 ニューヨークでの上映時にリサ・リースさんが壇上に立った時、相当な勇気が必要だったのではないかと思う。実社会でも非難され、無視され、孤立することが多いのだろう。だからこそ、やっとの想いで絞りだした一言が「私たちに背を向けないでください」だったのだろう。

 本記事の後半は、筆者の偏った視線が露呈しているのかもしれない。しかし出演者が「背を向けないでくれ」と言っているのに、このことに言及しないわけにはいかないと思った。その分、他の家族について言及がなくなってしまったことについては反省があるが、5つの家族に関しては宣伝で充分伝わるだろうし、すでに素晴らしい記事が世に出ているのも目撃している。(例えば、この記事とか)

 いずれにしても多くのことについて考えさせられる素晴らしい映画だ。1人でも多くの方に届くことを願う。