親子で性を学ぶ性教育のコミックエッセイが「すべてのおとなに読んでほしい本」などとSNSで話題を集めている。『おうち性教育はじめます 一番やさしい!防犯・SEX・命の伝え方』(KADOKAWA)だ。
同書は、子どもの性教育に親をはじめとする大人たちが取り組むためのハウツーをまとめたコミックエッセイ。月経、射精、性交、マスターベーションといった生殖にまつわるトピックのみならず、子どもが正しく自分の性を肯定するために必要な知識とコミュニケーションについても、わかりやすく説明されている。
ただ性教育には、ある大きな意識の差が夫婦間で生まれがちだという。
「自然とどうにかなるものだから」
「小さい頃から性教育なんて必要ない」
母親が子どもへの性教育に取り組もうとすると、とくに父親が及び腰な拒否反応を示すことが多いのだ。「性教育」を前に、どうして男女はすれ違ってしまうのか。
同書の著者であるマンガ家・イラストレーターで2児の母でもあるフクチマミさんと、長年、日本の性教育に携わってきた村瀬幸浩さんの2人に話を聞いた。
<プロフィール>フクチマミ
「わかりにくいことを、わかりやすく」をモットーに、日常にひそむ実は難しいことについてのコミックエッセイを多数刊行。著書に「おうち性教育はじめます」(村瀬幸浩との共著、KADOKAWA)、「マンガで読む 子育てのお金まるっとBOOK」(監修・大竹のり子、新潮社)など。
村瀬幸浩
東京教育大学(現筑波大)卒業後、私立和光高等学校保健体育科教諭として25年間勤務。この間、総合学習として「人間と性」を担当。同校を退職後、25年にわたり一橋大学、津田塾大学等でセクソロジーを講義した。現在一般社団法人“人間と性”教育研究協議会会員、同会編集による『季刊セクシュアリティ』誌編集委員、日本思春期学会名誉会員。
性教育を理解できないように育ってきた男性たち
――『おうち性教育はじめます』では、「自然とどうにかなるものだから」「性教育なんかしたら子どもがおかしくなる」と、性教育を避けようとする夫たちの姿が紹介されていました。
フクチ:本書の読者は子育て世代が多数で、「夫婦で、あるいはシングル家庭で(性教育に)取り組む方法がわかってよかった」という反響がたくさん寄せられました。
ただ一方で、「共有したくても夫が読んでくれなかった」という意見も少なくありませんでした。
村瀬:私は26年間、津田塾大学と一橋大学で「ヒューマンセクソロジー」という授業をしてきましたが、男子学生が圧倒的に多い一橋大学でも、その受講生は大半が女子学生でした。講演会やPTAの集まりなどでも、今も昔も聴衆はほとんどが女性です。
私が所属する性教育の研究団体で、昔、印象的なエピソードがありました。熱心に性教育を勉強していたある女性教師が、「夫が反対するから、もう勉強するのを辞めたい」と言うのです。
夫には、妻の行動が不可解だった。平日の夜、または長期休暇中にわざわざセミナーに出かけていって性の勉強をするなんて、わいせつな団体にだまされているのではないか、と。研究会の会場までついてきて、終わるまで外で待っていたことも。「入ってもらったら」と言っても、一度も入ってきたことはありませんでした。
フクチ:男性はことに、「性教育=セックス」というイメージが強いようですね。周囲の男性に聞くと、「自分の個人的な嗜好や経験について家族に知られるのが恥ずかしい」と話す人もいました。
ある男性は、「男性には征服欲、支配欲のようなものがあって、女性にマウントを取りたい気持ちがある。だから、性に関して無知でいてほしいと思ってしまっているのかも……」と、正直な気持ちを打ち明けてくれました。
村瀬:女性が性の知識をつけることで、自分との関係がうまくいかなくなってしまうのではと恐れているんだよね。
でも、そう考える理由は、男性がただ無知で無理解だからというわけじゃない。性を学びたいという女性の心理を理解したくないのでもない。彼らは、それを理解できないように育てられてきてしまったんです。
男性には、性を語る言葉がない
――「男性の場合、性的欲求が高まったときの行動をコントロールできないのではないか」という意見も耳にします。
村瀬:そんなことはありません。食欲のままに人前で目の前の物を食べ尽くしたりはしないように、性欲は自然であっても、性行動はコントロールできるものです。男性は欲望や感情のまま性行動をしてよいと、社会が許してきたということでしょう。
そもそも男性の多くは、性教育が何なのか、想像もつかないと思いますよ。1992年に義務教育化された性教育は極めて不十分で、またそれ以前に義務教育を受けた世代は男女ともにまともな性教育を受けてきませんでした。とくに男性は、学校で性について正しく学ぶ機会自体がなかったのです。
次に、男性にとって性は、(身体の仕組み的に)自分自身の欲望、快感の経験がぴったり張り付いている。それらといったん距離を置き、客観的に性について考えた経験のある人は、何らかのきっかけがない限り、ほとんどいないはずです。
性教育が成立するためには、性を対象化し、科学的に見ることが不可欠です。性を学ぶ機会も、性を自分自身と切り離して考える機会もなかった男性たちは、その視点を持たないんです。
その結果、男性は自身の主観や思い込みでしか性を語れなくなってしまったんです。
フクチ:性を客観的に語りたい女性と、主観でしか語れない男性。このズレがあるから、女性が「伝えようとしても何かうまくかみ合わない」と感じるのですね。
村瀬:そう、だから簡単にはいかない。その背景には、男性がAVをセックスのお手本にせざるを得なかったというのもあるでしょう。日本には、セックスの仕方を学べる教材は、それ以外にありませんから。
フクチ:たしかに、もし私が男性でも、不安でAVに手を伸ばしてしまうと思います。自然とわかるようにはならないし、何も知らなければ、笑われそうだし。
村瀬:海外では、エロチックな表現は自由でも暴力表現は禁止されている国があると知りました。日本のAVはセックスと暴力をセットで描いたものが多すぎる。最近は男女が対等に関わる作品もあるようですが、大多数は違います。
だから、AVを教科書代わりに観てきた男性たちには、セックスにおける暴力的、支配的な感覚がすり込まれていく。「ああしないといけない」と思い込んだり、「あんなことをするのならセックスなんてしたくない」と後ろ向きになったりする人たちもいるでしょう。最近の若者にセックス回避傾向が出ていることにも、無関係ではないと思います。
フクチ:たまたまいい作品を入り口にできることは、きっとまれですよね。そして、AVで学んだことをそのまま実践しようとして、(女性に)嫌がられ、憎まれる。つらいですね。
村瀬:そういった点では、本当に男も不幸です。相互性、対等性のもとでのセックスが描かれたエロチックアート、エロチックシネマから性を学ぶことには、大きな意味があるんだけれどね。北欧ではそういった作品を性教育の授業に取り入れる試みをする国も出てきていると聞きました。
「性への罪悪感」の正体
――男性の性教育への抵抗感は、どこから生まれるのでしょうか。
村瀬:男性は勃起や射精を通して性と出合うことが多い。つまり、男性の性との出合いは、快感とつながりやすいんですよ。
長い間、忍耐や禁欲を美徳とされてきた日本では、快楽は卑しいこと、罪悪のように考えられてきました。そのせいもあって、男性は自分の、また人間の性を下品で卑しいものではないかと、いつもどこかで思ってしまう。幼い頃、ちょっと性器を触っていて、親から「いやらしい子だ」と言われた人もいるでしょう。
フクチ:女性の側にもまた、根強い性への不潔視がありますよね。私の中にも「性に関することはいけないこと」という思い込みがあり、長いあいだ体にけがれたものを抱えている、という不安に悩まされてきました。
実際に周囲の母親たちからは、性交や避妊については自分から子どもに教えたくないし、学びたくもないという雰囲気も感じます。
もともと「性教育」という言葉には、女性である私も抵抗感がありました。「重要なはずなのに(子どもに)教えられないなんて」と悩んだ時期もありましたが、村瀬先生のお話でいまの親世代には正しい性の知識をつける機会がなかったこと、そして性を不潔視してしまっていることが原因だったとわかったんです。
村瀬:いまの時代、かなり認識も変わってきてはいるけれど、“性の快楽は男のもの”という考え方はまだまだ強いですね。
また女性は、「妊娠、出産することがすばらしい」「性の快楽とはふしだらなもの」と言われて育ち、その意味で性とは卑しいものだと考えやすい。
男性はまじめに性を語ることを軽視し、女性は性の快楽を軽視する傾向にある。こうした深い溝が、男女の関係を悪くするんです。男女ともに、性の快楽性について、もっとポジティブにとらえられるようになったらいいですね。それも教育の役割です。
いま、女性が一生のうちに子どもを産む一般的な数は、1人か2人。産まない、産めない人もたくさんいます。しかも、100年近い人生のなかで、女性が妊娠、出産できるのはわずか25年ほど。つまり、人生における「生殖の性」の比重は、以前に比べてどんどん小さくなっているんです。
フクチ:いままでの性教育は、そのわずかな期間の事柄しか教えてこなかったということですね。それ以外の若者の性と中高齢者の性は、存在しないものかのように扱われている。
村瀬:私はずっとそのことにあらがって、性の話をしてきたんです。
性には「生殖の性」「快楽・共生の性」「支配の性」と三つの側面があります。このなかで、私は「快楽・共生の性」についてもっと認められ、取り組まれるようになってほしいと思っています。
快楽・共生の性とは、文字通り、共に楽しく生きるための性。
相手との対等なコミュニケーションを通して歓びを分かち合うセックスで、相互に心身の心地よさを得ることです。心地よいことにきちんと焦点を当てなかったら、生きた性の学びと言えないですよ。
フクチ:「快楽」は、本来「心地よくて楽しいこと」なはずなのに、「いやらしい」「うしろめたい」とネガティブに捉えられがちな言葉。でも本書を通して、「思い込みを外せば、快く、楽しいってとてもいい言葉じゃないか!」と気づいたんです。
自分の、そして相手の快楽の性を肯定できるようになったとき、男女の性教育に対する意識のすれ違いも解消されていくのかもしれませんね。
後編【子どもの“おしりポンポン“、実はダメ】
(取材・文:有馬ゆえ、編集:笹川かおり)