登山家・田部井淳子さんが情熱を傾けた高校生の富士登山。「被災地の復興の力に」と始まったプロジェクトは困難に直面している

富士山に登り、新しい人生を歩み始めた若者たちがいる。
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2013年の富士登山にて
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 富士山に登り、新しい人生を歩み始めた若者たちがいる。東日本大震災で被災した東北から、毎夏、100人近くの高校生たちが日本一の頂を目指す。世界的な登山家・田部井淳子さんが中心となって、その挑戦を支えてきた。しかし、一昨年に田部井さんはがんで亡くなった。プロジェクトはいま困難に直面し、クラウドファンディングに活路を求めている。

 街のすみずみまで、太平洋の潮の香りが届く町、福島県相馬市で平間郁妃(ひふみ)さん(21)は生まれ育った。

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平間郁妃さん=福島県相馬市
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 中学の時に東日本大震災に遭った。やさしい海があの時、高台にある自宅のすぐそばまで押し寄せ、慣れ親しんだ景色も、おだやかな日常も、たくさんのものを奪っていった。

 「なんにもやる気がしない。面倒くさい」

 心に力が入らず、学校も欠席しがちで、未来も見通せない。そんな高校3年の夏、学校の先生に「行ってきたら」と提案され、友だちも行くというので仕方なく参加したのが、富士登山プロジェクトだった。エベレスト登頂や7大陸最高峰制覇など、女性として世界初の記録を打ち立ててきた田部井淳子さんが総隊長を務めていた。

 見ず知らずの高校生たち100人近くと、福島から静岡県御殿場市へ向かうバスは楽しかった。7人ほどの班に分かれ、初日は6合目の山小屋に泊まり、翌日午前2時起きで頂上を目指す。

 歩き始めは余裕。でも3時間ほど登って標高3千メートルを超えたあたりから頭もおなかも痛くなってきた。

 「もう登りたくない。やだ。帰りたい」。そう言うたび、一緒に登っていた田部井さんが「がんばれ。あとちょっとだから」と声をかけてくる。福島県が生んだ世界的な登山家だということはよく知らず、「もう十分がんばっているから」と「元気なおばちゃん」に反発する気持ちもあった。

 立ち止まるたび、田部井さんは足などをマッサージし、励ましてくれた。

 「一歩、一歩でもいいんだよ。諦めなければ必ず頂上に着くから」

 登り初めて8時間、日本一の頂に立った。

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富士山に登頂した平間さん(右端)。その隣に田部井淳子さんがいる
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 「よかったね、本当によくがんばった」

 田部井さんが心から喜んでくれているのがわかった。握手した手の温かさは忘れない。その時は、田部井さんがいままさに、がんとの闘病を続けているとは想像もしなかった。

 「私はそれを知らなくて......。淳子さんもつらかっただろうに、私の背中まで押して、がんばれ、がんばれって声をかけてくれました」

 田部井さんは2016年10月、がんで亡くなった。

 平間さんは結婚して今年2月、母親になった。

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2月に長女を出産。来夢(くらん)と名付けた
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 真っ先に田部井さんの長男の進也さん(39)に連絡を取った。

 「富士山でたくさんの人のお世話になりました。淳子さんにも報告したいと思いました。何に対しても中途半端で投げ出していたけれど、あの時、励ましてもらって登山を途中で諦めないでよかった。やりきることの大切さをしりました」

 出産から半年、我が子を育てながら、保険会社でも働き始めた。

■亡くなる3カ月前も同行「後は頼んだ」 

 富士登山プロジェクトは震災の翌2012年に田部井さんの発案で始まった。ちょうどその年、がんを再発、病と闘いながらも毎夏、高校生と一緒に富士山の頂を目指し続けた。

 生涯最後の登山も、高校生との富士登山だった。亡くなる3カ月前の2016年7月26日、入院先の病院のベッドから登山口へ駆けつけた。

 濃霧、雨。「一歩ずつでも進めば必ず頂上に立てる」と高校生を笑顔で励まし、午後4時に富士宮ルート5合目から登り始めた。

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病室のベッドから登山口に駆けつけた田部井さん(右から3人目)
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 だが、足が上がらない。6合目まで、通常の倍の1時間かけた。

 「同じペースでは高校生と一緒に頂上に立てない」

 チームの宿泊予定地は6合目だったが、先行することを選んだ。胸に水がたまり、呼吸が苦しい。一歩進んでは休み、また一歩、一歩。「エベレストの時よりせつない」と、同行する夫の政伸さんに話した。日は落ち、ヘッドライトで足元を照らしながらさらに2時間40分、標高2780メートルの新7合目の山小屋に着いた。

 最後まで頂上を目指していた。翌27日は午前3時過ぎに出発。午前5時50分、元祖7合目3010メートル。時折風雨がたたきつける厳しい状況で、山小屋に着いた田部井さんは座り込んだ。だが、高校生が追いついてきたのを知ると立ち上がり、びしょぬれになるのも構わず「お疲れさま」「ここまでよくがんばったね!」と一人ひとりに声をかけて回った。霧の中に高校生の姿が消えるまで「がんばれよー」と見送った。

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登ってきた高校生を励ます田部井さん
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 「淳子さん、大丈夫ですか?」と声をかけた記者に「もう、足が上がらなくて。これ以上迷惑かけられないから、ここまでにします。後は頼んだ!」。悔しそうだった。遅れてきた高校生を小屋で励まして出発を見届けてから下山した。

 なぜ、世界的な登山家は、東北の高校生の富士登山に力を注いだのか。亡くなる1カ月前、田部井さんが講演した際の音声が残っている。

 「いま18歳の高校生があと10年たてば28歳になり、復興の大きな力になる。なんとか千人まで登らせたい」

 かすれた声をふりしぼるように話した。福島県三春町出身の田部井さんは震災直後から、幾度も被災地に足を運び、被災者とハイキングを重ねてきた。気力がなえ、人生に目的が見いだせなくなった人にも会った。

 「自分になにができるかを必死で考えたら、それが、次の世代を担う若者たちを勇気づけることでした」

 応募してくる高校生の大半は、ほとんど登山経験がない。100人近い高校生を安全に日本一の頂に導くために、田部井さんの志に賛同した経験豊かなガイドやスタッフ約40人が集まり、支えている。

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雲海を眼下に
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 高校生からの参加費はお小遣いでまかなえる金額として3千円のみ。実際には交通費や装備費などで1人あたり8~9万円が必要で、晩年、講演やイベントのたび、田部井さんは富士登山の話に多くの時間を割いた。多くの個人や企業が寄付や協賛という形でプロジェクトを支えてきた。

 目標達成の千人までは残り500人強。ただ大きな存在を失ったいま、資金問題がのしかかっている。

 総隊長を継いだ長男の進也さんは「一年365日、金策に走っている」と笑う。来年までの資金はめどがたったが、それ以降はまだ。4月からクラウドファンディングを始め、支援を募っている。「母が亡くなったからおしまいというわけにはいきません。目標の千人に母が最後まで心配していたのが、このプロジェクトの存続でした」と話す。

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プロジェクトの総隊長を引き継いだ田部井進也さん
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 参加した高校生たちに、どう伝わっているのか。

 福島県浪江町で被災した半谷竜磨さん(22)は、高校3年で参加した。

 「余裕だと思っていたけれど、こんなにつらい登山になるなんて。でも、その分、達成感がすごかった。日本一の山に自分の足で登ったんだって」

 いまは福島市内で理容師として働く。祖父が震災に遭うまで理容室を開いていたふるさとの浪江町で、再び理容室を開業したいと思っている。

 「富士登山を乗り越えて自信がつきました。もっと田部井さんと話したかった。『いま、おかげさまでがんばっています』と報告したいと思っています」

 仕事の後も練習を続け、先月、理容師の技術コンテストで県トップになった。

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半谷竜磨さん
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 今年7月の富士登山には100人超の応募があった。養護教諭を目指して山形大学で学ぶ鈴木千紘さん(22)は高校生向けの事前説明会に参加するなどして、プロジェクトへの協力を続けている。

 「高校生の時は気がついていませんでしたが、たくさんの人の支えで日本一の山に登ることを知りました。これからは私たちが支える番です」

 将来は、子どもの心身に寄り添えるような人養護教諭になるのが夢だという。

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養護教諭を目指す鈴木千紘さん=写真手前右
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 田部井さん亡き後、総隊長を務める進也さんは「富士山を経験した一人ひとりが千人集まれば、復興の大きな力になる。母の言うように、最後まで諦めずに一歩一歩、プロジェクトを続けていきたい」と話す。

 支援は7月31日まで、クラウドファンディングサイト「A-port」(https://a-port.asahi.com/projects/fujisan_tabei/)で受け付けている。(斎藤健一郎)