”本当”に良いレストランを探すのは難しい。店の雰囲気、料理の焼き加減、店員の接客。ためしに食べログを見たとする。星が2つで、辛辣なコメントが並んでいる。権威ある評論家もあまり褒めていない。
そんなときでも、好きな人とお店に行けばぜんぶがおいしく感じて、周りの風景も光り輝いてみえるときがある。「それ、間違っているよ。おいしくないよ」と友だちに指摘されると、意地でも、なおさら信じたくなる。
原発や憲法改正への賛否、韓国や中国など隣国への嫌悪、様々なウラ話。私たちは、恋愛や信仰のようにネットの「情報」に寄りかかり過ぎるときがある。
だが、「情報」にはウソもある。人を傷つけたり、争いを起こしたり、選挙に影響を与えたりする。
フェイクニュースやデマがあるネットの世界。映画監督で作家の森達也さんに「情報」との距離の取り方を聞いてみた。
■100%の証明は可能か
——客観的な事実より、感情に訴える言葉が力を持つ「ポスト真実」の時代だと言われています。アメリカの大統領選やイギリスのEU離脱の国民投票でも「フェイクニュース」(ウソ情報)を信じる人がいました。
当たり前なのですが、大事なのはソース(根拠)の確認です。ネットの普及で情報が爆発的に増えた中、何でも鵜呑みにするのではなくて、「この情報、絶対どっかにソースがあるわけだよね」と見る。情報の元となったウェブサイトを見て、色々と分かるわけで(笑)。
同時に情報っていうのは、100%誰も証明できないんだっていう意識を持つことが大事だと思います。
——わざとウソを流したり、プロとして調べもせずに自分の政治的な意図に沿って情報を発信したりする「フェイクニュース」がある一方、メディアが様々なミスを犯す「誤報」もありますね。
「誤報」については、ネット、新聞、テレビも含めてメディアは「間違いを認めることを恐れない」姿勢が大事だと思います。
こういう間違いがありました、と正直に伝えるんです。読む側だって、「そうか、こうやって記事は間違えるんだ」って学んでいく。日本の場合、どうしても無謬性というか、メディア側も「絶対間違えちゃいけない」という強迫観念がありますよね。だからこそ、間違えた時は発覚が怖くなってうやむやにしてしまう。
間違えますよ、そりゃ人間なんだから。お互いに「間違えました」「ああ、そうなの」っていう雰囲気にしたい。でも、謝っては絶対だめです。謝らなくていい。
——え? 開き直るんですか…。
違います。お詫びじゃ済まないからです。メディアの過ちは。日本の新聞は、かつては戦争を牽引した張本人です。最近でいえば、ロシアとウクライナも、テレビがあおりました。ルワンダの虐殺はラジオがきっかけの一つです。
メディアは、場合によっては人を何千人、何万人殺す場合があるわけです。責任などとれない。「どうもすいません」で済むわけない。その意識をメディアは持つべきです。
謝罪を強要するから、メディア側も隠そうとする。ばれたらあわてて謝る。意地でもするな。謝罪はしないけど、間違った理由やメカニズムを徹底的に調べて、記者やデスクの固有名詞も含めて開示する。隠さない。すべて暴く。自分たちの加害性をしっかりと意識に刻む。これがメディアの謝罪です。
■映画「FAKE」を元に考える
——「ゴーストライター」騒動で話題となった作曲家の佐村河内守さんのドキュメンタリー映画「FAKE」を森さんは撮影しました。佐村河内さんは「耳が聞こえているのにウソをついて、障害者を装った」と、批判された方です。
世の中がどんどん二元的になっていますよね。黒か白か、右か左か、真実か虚偽か。本来はそんな簡単に分けられるものではないのですが、人々の気持ちがとても不安になっているので、背中を押されるように、分かりやすい情報を求めている。
かつてならば「ウソの可能性もあるね」で終わったことが、「どっちなんだ、はっきりしろ」という気持ちが強くなっている。多くの場合、その情報の真贋は、究極的に、自分にそこまで関係はないですよね。
目に入る「曖昧な存在」を許せない気持ちが強くなっているのかな。その究極が、正義か悪か、に結びつく。もちろんその場合、こちらは絶対に正義です。ならば対立する相手は悪。こうして相手を叩くことへの煩悶が消えてしまう。
■全ろうの天才からペテン師へ
——佐村河内さんは、騒動の前と後で評価が180度変わりました。
騒動が起きる前は全ろうの天才と呼ばれていました。騒動後はペテン師です。まさしくイチかゼロですね。映画を見てもらえれば分かりますが、佐村河内さんは「感音性難聴」ですから、聴こえる音、聴こえない音がある。
日によってコンディションも違うわけですね。聴こえたり聴こえなかったりする。彼は口の動きなどで言葉が多少分かりますから、会話が成立することもあるでしょう。一瞬だけを切り取って「聴こえるか聴こえないか」などと白黒をつけられるはずがない。グレーゾーンなんです。
聴覚だけではなく、そもそも人間の感覚って、100%見える、100%見えないじゃなくて、近眼もいれば弱視もいるしね。片方が見えない人もいるし、色盲もいる。僕たちが生きている世界はグラデーションです。時にはいろんな色が混じりあう。だから美しい。ところがメディアは、わかりやすさを理由にこのグラデーションを四捨五入してしまう。つまり矮小化です。
■「ちょっとビール1杯行こうか」
——フェイクニュースが、特定の人種や宗教を攻撃するヘイトスピーチにつながることは、問題だと思います。ネットには、韓国や中国、沖縄に関する差別的な情報もあります。リベラルメディアの「鼻につく優等生っぽさ」への反発もあるのかもしれません。
僕ね、もったいないと思いますよ。世界が単純化されてしまって。例えば、職場の上司を「気に食わないな」と思っていたけど、帰り道にばったり会って、「ちょっとビール1杯行こうか」って言われて、時間を過ごしたら意外とチャーミングだなって思うことは誰にでもあるでしょう。多面的なんですよ、世界は。人は。ネットで文句言っている人も、韓国や中国の人と会ったら結構仲良くなれるはずです。
フェイクニュース対策として、先ほどソースの確認の話をしました。それがいちばん有効です。でも同時に、それは実のところ、とても難しい面もある、と僕は思っています。
——どういう意味ですか?
普通に生活している人ならば、ニュース一つ一つのソースをチェックしたり、他の媒体の伝え方と比較検証するような時間もお金もないですよね。じゃあどうすればいいか。
世界の見方を変えるだけで良いんです。情報は必ず誰かの視点が入っている。誰か記者が書いてる。カメラマンが切り取って撮っている。記事や映像はすべて、事実ではなくて一部の断面であり、その断面は誰かの解釈です。
これをまず意識に置いた上で、多面的で多重的で多層的、どこから見るかで変わるんだっていう意識を持つだけで「情報への距離感」が変わると思う。伝える側も同様です。
これはたったひとつの真実ではなく自分の視点なのだとの意識を常に持つこと。つまり後ろめたさです。これがなくなったとき、メディアは正義になります。最もダメな状況です。
「この領土は俺たちのもんだ」「いや、これは俺たちだ」って、日本や周辺諸国の一部の人たちがもめていますが、物事はどこから見るかで全然変わる。人が100人いれば真実は100通りある。
確かに事実はひとつです。でもここに「ボールペンが2本ある」などよほど単純なケースを別にすれば、人にはすべてを把握することなどできない。それは神の視点です。尖閣諸島の帰属のラインはどのように引けばよいのか。
いちばん古い取り決めを探すのか。でもそのあとにその取り決めが変わっているかもしれない。そのときに両者は納得したのか。無理矢理ではなかったのか。無理矢理でも合理性があるのか。対価はどうしたのか。当時の国の力関係は?
特に領土問題などにおいては歴史が絡むから、変数は無限にあります。線など簡単には引けない。平行線は当たり前。コップは横から見れば長方形だけど上から見れば円です。どちらが正しいのかと言い合っても意味はない。
線の痕跡を躍起になって探して攻撃し合うのではなく、現在の視点で合理的に、争いのないように調停できるラインはどこにあるのかとの議論をすべきです。
■情報は常にグレーが混ざる
——情報に対して、「どこかに100%のモノがあるはずだ」と期待しすぎなのでしょうか。
情報っていうのは、常にグレーが入り混じっています。よく「ならばどのメディアを信じればよいのか」と質問されます。そもそも「信じる」という述語がダメ。信じるか信じないか、この二元化は情報への視点として根本から間違っています。
「信じる」という言葉は曖昧さを許さない。非常に過激な言葉ですよね。身も心も捧げるわけですから。情報ごときに身も心も捧げちゃダメですよ。
特にドキュメンタリーは、100時間や200時間撮影して、これを最終的には2時間にするわけです。いろいろつまんだり、分かりやすくしたりしている。そしてこの編集作業は、自分の視点や主観をより先鋭化することと同義です。
端数がどんどん消えてるんだっていう意識を僕らが、見る側が、読む側が持たないと、分かりやすく選定された世界が全てになっちゃうわけでしょ。これは怖いですよ。
フレームがあればフレームの外があるんだとか、カットが変わればこのカットの変わった後も実は時間軸は続いてるんだって、当たり前のことですけど、映像に対してはそういった意識を持つことが必要だし、もちろん文章もそうですね。
■佐村河内さんのウソを暴く?
——森さんは「真実の情報」には興味ないんですか。映画「FAKE」に対して、森さんが「佐村河内さんのうそを暴いてくれる」「真実が明かされる」と期待した人も多かったと思うんです。
観客の半分以上はそうでしょうね。期待するように作っています。非常に意地が悪いです。それは自覚しています。
ジャーナリスティックな「真実の検証」をすべきじゃないかっていう意見を言う人もいました。僕は自分がジャーナリストだなんて思っていません。一度も名乗ったことはないはずです。佐村河内さんの言い分を伝えるなら、対立する(佐村河内さんの記事をスクープした)神山典士さんや(ゴーストライターをつとめた)新垣隆さんの言い分も伝えるべきだとの意見もあります。両論併記ですね。
ならばやはり両論だけになる。つまりイチかゼロです。何度でも言うけれど、イチかゼロではないことを言いたいのです。それは現実ではない。
■情報や映像は切り取られたもの
——でも映画の中では、神山さんと新垣さんに接触しようとしていますね。
だから、いちばんのFAKEは森です。本当は取材したくなかった。たまたま成り行き上ああなっちゃたっけれど、映画としてどうすれば面白いかをいつも考えています。まあ、これ以上は言わないほうがいいかな。
情報や映像は切り取られたものなんです。そういう「性質」の上に成り立ったうえで、表現がある。情報は多様で、複雑。そうした意識でニュースや映像に接して欲しいな、と思います。