死は陳腐であり究極の平等である。『ルイ14世の死』アルベール・セラ監督インタビュー

「この映画の死生観はこの映画自身から出てきたものです」
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©CAPRICCI FILMS,ROSA FILMES,ANDERCRAUN FILMS,BOBI LUX 2016

「21世紀の前衛」とも言われ、今欧州の映画界で注目の映画作家、アルベール・セラの作品が日本に上陸する。

 カンヌ国際映画祭でも驚きを持って迎えられた『ルイ14世の死』は、フランス王政の最盛期の国王、ルイ14世の最後の二週間を捉えた作品。1日の大半をベッドの上で過ごし、日々衰えていく身体を見て、死を恐れるルイ14世をフランスの名優、ジャン=ピエール・レオが演じている。その姿は太陽王と称される姿からは想像できないほどに見にくく衰えていて、その姿を見る取り巻きの宮廷人たちや医者が打つ手なく滑稽に右往左往している姿が映し出されており、絢爛豪華な衣装とセットとは対称的な人間模様が展開される。 

 全編に渡り、主人公がベッドの上で過ごし、事々しいことも何も起こらず、ゆっくりと死に近づいていくさまを観察するかのように切り取った本作。アルベール・セラ監督に本作のテーマや自身の作風について伺った。

 なお、これまでは日本語ではスペイン語読みのアルベルト・セラと紹介されてきたが、本作の配給会社が監督の母語であるカタルーニャ後読みのアルベール・セラに日本語表記を改めるとのことで、本記事もそれにならうこととする。

一つの映像は千の文字を語る

――あなたは映画から劇的な要素を排除していますが、どうしてそのようなスタイルを採用するのですか。

アルベール・セラ(以下セラ):それは映像の持つ雰囲気に集中するためです。映像によって固定できるものはそこにある雰囲気です。劇的な要素を加えることはいくらでもできますが、そうしてしまうとどこかで見たことのあるものの繰り返し、紋切り型のクリシェになってしまいます。

 雰囲気というと、とても曖昧で多義的な意味に聞こえるでしょうが、それこそが視覚言語の特徴と言えます。雰囲気に徹した映像は、100%理解されることはありません。しかしそれこそ表現の豊かさであり、何一つ確かなものなどない人生の豊かさにもつながるものだと思います。

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アルベール・セラ監督 ©RomanYnan

――映像作家として映像による表現を追求した結果、劇的な要素は不必要なものだと気づいたということですか。

セラ:はい。映像自体が強力なドラマツルギーを持っているのです。この映画で例えると、1人の人間が死に近づいていく、その姿を映像で切り取るだけで自然と物語が発生しているのです。それ以上なにかを加える必要はありません。

 あとは連鎖的に物語が生まれていきます。例えば、国王が何か言ったとします。彼は絶対的な権力者ですから、その言葉に応じて周りの宮廷人たちが反応していきます。そうやって自然と発生したものを観察するだけで十分なドラマがそこにはあります。

 フランスでは一つの映像は千の文字を語るという言い方があります。映像はそれ自体に膨大な情報量があるので、それを全て説明するにはいくら言葉があっても足りないでしょう。ジャン=ピエール・レオがカメラを見つめている画があったとしましょう。彼の視線や表情、頭の中で考えているだろうことを言葉で表現しようとすればものすごく複雑で長いものになるでしょう。

 そういう言葉にできないもの、雰囲気のようなものこそが映像表現の醍醐味であって、私はいつもそういうものを作ろうとしています。そのためにはストーリーはシンプルであった方がよく、私はそこに皮肉と重々しい要素を加えるのみです。

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――重々しい要素を加えるという話がありましたが、この映画ではそれは例えばルイ14世の死がそれに当たるのでしょうか。

セラ:そうですね。フランスの歴史は、ルイ14世以前と以後に分けられると言っても過言ではなく、彼は世界で最も権力を持っていた国王だったのに、身体が悪化していくことに対して何もできないでいる。そのこと自体が重々しく強烈なものです。

 しかし、そのことを強調したくはありませんでした。むしろ、全く逆の皮肉な要素を加えてバランスを取ろうと思ったのです。例えばそれは役に立たない医師たちや医学の虚しさといったものです。国王を尊重する気持ちが強すぎるあまり、壊死した脚を切断することもできない彼らは実に滑稽です。脚を切断すれば国王はより長く生きられたかもしれないのに。

 この映画は、死の凡庸さ、陳腐さを描いたものです。偉大な人物であっても、道端で交通事故であっさり死ぬこともあります。国王であっても病気でいきなり死んでしまうかもしれない。これは人間の人生に内在する皮肉だと思います。

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©CAPRICCI FILMS,ROSA FILMES,ANDERCRAUN FILMS,BOBI LUX 2016

死は究極の平等

――人は死を特別なものだと思いたがる傾向があると思います。僕も死は怖いし、より良い人生を歩んで、より良い死を迎えねばと思ったり、周りの人間がどんな反応をするのだろうなどと考えることがあります。でも、この映画を観て、そういうことを気にすること自体がバカバカしいなと思えてきました。あのルイ14世ですら、こんな風に死んでしまうのだから。死が陳腐であるというのは、言い換えれば死は誰にでも訪れる究極の平等であるということなのでしょうか。

セラ:おっしゃる通りです。あれだけの権力者でも医者のせいで死んでしまうのです。当時は今ほど医学は発展していませんし、金持ちでも貧乏人でもヤブ医者にかかれば誰でも死に直面するというのは、貧しい人からすればホッとすることかもしれませんね。(笑)

 現代は、ルイ14世の時代よりも遥かに発展した医学があり、これからも発展を続けるでしょう。しかし、それによって皮肉なことに究極の平等であった死すらも平等でなくなるのかもしれません。高度な医療を受けられる人とそうでない人が出てくるわけですから。この映画でも描いていますが、中世では医術は一種の呪術のようなものでした。しかし、現代は金でより正確な医療を買うことができるわけですから、経済格差によって死に対する不平等が拡がっていると言えるでしょう。

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――監督自身の死生観がこの映画にも反映されているのでしょうか。

セラ:この映画の死生観はこの映画自身から出てきたものです。あらかじめこういうものを描こうと決めて撮影に臨んだわけではありません。

 製作前にルイ14世についてリサーチしてシナリオを書きましたが、この映画は90%が史実に基づいています。撮影前からこのような死生観を描こうと思って決めていたわけではなく、これはジャン=ピエール・レオの功績が大きいと思います。彼はヌーヴェルヴァーグの象徴的な存在ですが、自分のことをずっと若者のままであると思ってきました。そんな彼が、この映画で初めて老人としての自分の顔を見たと言っていました。そこから彼の演技にはある種の超越性が備わったと思います。

 あまりにも素晴らしい演技だったので、他の役者がルイ14世を演じるということがもはや想像できなくなったぐらいです。彼自身がまさにルイ14世であったと私は言いたいですね。