高校2年生、私は母親の喪主を務めた

母に悲しい思いをさせられたこともあったが、基本的には仲の良すぎる親子だった。
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kf4851 via Getty Images

 私の母が亡くなった。年末に47歳の誕生日を迎えたばかりで、季節が春への歩みを始めた直後のことだった。

 四十九日を迎える前に、このような文章を書くべきではないとも思ったが、ブログとして記録することが、悲しみや痛みを癒やすことにも繋がるだろうと思い、書くことにした。

 人間は知っている。生きとし生けるものに永遠があっても、永久はないことを知っている。

 人間は終焉を迎える。そこにいたるまでの道のりは、誰一人として同じではないが、終焉だけは普遍である。

 この世に生を享けてから17年の私も知っていた。どんなに大切な人間でも、かつて私を身に宿した人間であったとしても、遅かれ早かれ終焉を迎え、永久などは作られた幻想であることを。「あと100年は生きてよ。もし死んじゃったら、俺は生きていけないよ」という冗談を、割と真剣な口調で話していたとしても、知っていたつもりだった。

 知っていると、受け入れるはまるで別物なのだと、思わされた。目の前に突きつけられた現実は、たしかに知っていることだったのだが、受け入れることができなかった。

 数日前に、デートをしたばかりだった。散髪に付き合ってもらい、私は少し早いバレンタインデーと称して、チョコレートを半ば強引に買ってもらった。最後に書店へ行き、なぜか進学雑誌を手に取った母に、母校の偏差値が上がったことを自慢された。

 前日、体調を崩して救急車で運ばれた。最後まで、私のことが心配だからと入院を拒んでいたらしいが、日常生活を営めるような状態ではなく、苦渋の決断で、入院をした。夕方、時間ができたので見舞いに訪れると、腰を痛がってはいたものの、日常の冗談が混じる会話ができた。数日で退院できると聞き、安心して、最後に「また明日」という言葉を投げた。

 深夜、なかなか寝付けずにいると、「ワルキューレの騎行」が鳴り響き、電話の画面が明るくなった。電話を取った祖母曰く、すぐに来てほしいと言われたらしく、今ひとつ状況が掴めないまま、パジャマの上にダウンジャケットを羽織って、玄関で靴を履いた。

 エレベーターが3階で止まり、フロアへと足を踏み出すと、暗闇の中から、けたたましいアラーム音が聞こえた。幼い頃、医療ドラマを妙に好んでいたからか、この音だけで、異常なことが起きているのだと理解できた。

 蛍光灯の点いた、「説明室」と書かれた部屋で、終焉が近いと告げられた。アラーム音でなんとなく予想はついていたとはいえ、青天の霹靂だった。一度、エレベーターで1階に下りて、ライトひとつ点いていない、受付前のフロアにあるソファに座り、ひどく動揺し、大粒の雨を頬に伝わせた。ベッドの上で闘っている母のために祈るべきだと、祖母に言われたが、そんな余裕はなかった。

 連絡を受けて出勤したらしい主治医が、時計を見てから、終焉を宣告する。祖父母は狼狽し、ドラマのワンシーンかのごとく、ベッドの上で眠る母の名を叫んだ。一方、ふたたびエレベーターで3階に戻ってきてからの私はひどく冷静だった。泣きわめくこともなく、淡々と事の顛末を見ていた。作家の伊集院静氏の言葉を借りれば――「最後の躾」を受け始めていた。

 やがて、黒いスーツを着た、葬儀会社の人が現れ、彼らの手によって、終焉した母は帰宅をした。

 その日から5日間は、感情の振れが激しかった。目を赤く腫らすことなく、喪主として、家族の助けも借りながら、葬儀会社の人と打ち合わせをし、弔問客に頭を下げた。正直な話をすれば、打ち合わせをしていても、誰の喪主を務めているのか、わからなくなることが何度もあった。助演として、喪主という役を演じているようだった。訪れてくれた人々はどんな言葉を掛ければいいのかがわからない様子で、多くの方から「頑張って」や「しっかりね」といった言葉を頂いた。得てしてそれらは心に傷を作ったが、悪気がない以上、決められたまま「ありがとうございます」と返すほかなかった。

 家族の前では、溢れる思いが抑えきれずに、涙を流した。棺の中で眠っている母は、何を言わずしても、私のすべてを理解していた人間だった。そんな人間がもう二度と現れないことはわかっていたが、わかりきれずに、祖父母に「俺のすべてを理解してくれ」と無茶な要求をしたこともあった。

 2日間に渡って行われた極楽浄土への壮行会には、私たちの想定を超える数の人が参加してくれた。喪主として、一滴の涙も流すことなく、台本通りに動き回ったが、その間、個人的なハイライトは2つあった。

 1つ目は、1日目に私の小学校時代の友人たちが駆けつけてくれたこと。すべてのプログラムが終わったあと、人のいなくなったロビーでずいぶんと話し込んだ。彼らは私を励ますでもなく、ただいつものように、くだらない話をしてくれた。喪主を演じていた2日間の中で、唯一素直に話すことができた時間だった。友人たちには感謝してもしきれない。

 2つ目は、喪主挨拶。2日目に予定されていたそれを楽しみにしていた。楽しみ、という感覚が異常であることは自認しているが、本当に楽しみだったのだ。涙を流さないことで、悲しみや痛みを抑え、喪主を演じきるには、唯一アドリブが許された喪主挨拶を楽しみにするしかなかったのかもしれない、と思う。

 喪主挨拶も無事に終わり、壮行会も終わりを迎えた。「最後にたくさん触ってあげてください」と言われたが、氷のように冷たくなった額を少し触ったとき、えもいわれぬ恐怖心を感じて、それ以上触ることができなかった。

 壮行会からの帰り道、車中で私は、生きていた証が入った箱を抱いていた。たぶん、このときにようやく、私が母の喪主を務めたということを、終焉を迎えたのが私の母であるということを、受け入れられたような気がする。

 それから、今現在までの日々は、泣く暇もなく、事務手続きに忙殺されている。年金だの保険だのと、はじめてが連続している。同居しているのが祖父母だけであるため、私自身で書類を読み込む毎日が続いている。下調べを欠かさない元来の性格ゆえ、窓口の方にたいてい、「お詳しいですね」と言われるのは少し嬉しいが、4月から高校3年生になり、受験が控えていることを思い出すと、身震いする。

 先述したように、私は母がいなければ生きていけないと、ずっと思っていた。それでも、現実として毎日は続いている。続かせているわけでも、続かされているわけでもない。ただただ、続いている。もちろん、今後諦めなければいけないことが出てきたり、四十九日や一周忌を迎えれば、悲しみや痛みがより鮮明に浮かび上がってきたりするだろう。それでも、私はそんな毎日を、どうにか生きていくつもりだ。

 結局、これは不自然なことではないのだ。逆縁ではない以上、自然なことなのだ。ただ、私の感覚として、「早すぎた」だけなのだ。物心ついた頃から、父親がいなかったせいもあって、母との関係は――世間一般にマザコンと言われてもおかしくはないくらい――密接なものだった。前回の記事で、母との登校バトルを書いたように、母に悲しい思いをさせられたこともあったが、基本的には仲の良すぎる親子だった。

 だからといって、親のことは大切にしろ、などと言うつもりはない。たしかに、親のいる家庭にほんのわずかな羨ましさを抱いてしまうのも事実だが、私の場合はたまたま、母と共依存して生きていくかたちが、私にとっての幸福であり、家族のかたちであっただけだ。極論になってしまうが、親との縁を切ることが、その人にとっての幸福であり、家族のかたちであるということもあるだろう。そして、それは否定されてはいけないはずだ。

 今回の出来事を通じて、17歳の私から僭越ながら申し上げることがあるとすれば、当たり前の話になってしまうが、「家族について見つめ直してみる」ということだ。見つめ直した結果はなんだっていいと思う。家族を大切にするでもいいし、しないでもいい。でももし、大切にするべきだという結論に至り、なにかやってあげたいことがあり、それができる状態にあるのならば、決して無理をする必要はないが、できるだけ早く実行した方が良いのではないかと思う。

 なんの保証もされていないまま続く毎日は、時として、予告もなしに途切れてしまうからだ。

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