クリエイティブディレクターの原野です。代表作は、『森の木琴』『OK Go: I Won't Let You Down』『Honda. Great Journey.』『Godiva: 日本は、義理チョコをやめよう。』『ZOZO: Be unique. Be equal.』『POLAリクルートフォーラム』など。
新刊『クリエイティブ・スーパーパワーズ』(河尻亨一訳/左右社)から、私が寄稿した一章を「まるごと」ご紹介いたします。
ものづくりを成功に導く7つの原理
私の作品やそのつくり方は極めてユニークだ、と言われる。そのため、あなたはどのようにして作品をつくっているのか、という質問をよく受ける。ここでは、そんなとき私が話していることを簡単にまとめている。あえて体系的なものにしていない。体系化することによってわかりやすくことはできるかもしれないが、それによって失われてしまう何かがあるからだ。だからここからは、私と日本酒でも飲んでいるつもりで、気軽に読んでもらえればいい。
1 知りすぎるな
「学ぶ」ということと「創造的になる」ということは、実はトレードオフの関係にある。多くの人は、まずここを間違えていることが多い。つまり学ぶほど創造的になれる、と盲信している。たとえば広告の仕事なら、クライアントのブリーフをよく読み込むとか、テーマについてリサーチを行うとか、ターゲットの話をたくさん聞いてみるとか、そういうことが大切だと信じ込んでいる。
こうしたことは、もしあなたがただ単に、クライアントの問題を解決することを通じて彼らをハッピーにする作品をつくりたい、と考えているなら間違いではない。しかし真に創造的なものをつくることを通じて、クライアントをハッピーにしたいというのであれば、それは間違いだ。
なぜなら、対象について知れば知るほど、あなたが創造性を発揮できるエリアは狭くなっていくからだ。答えを出すにあたって、無視することのできないチェックポイントがどんどん増えていけば、おのずとやるべきことは決まってきてしまう。そうなると、あなたがつくり出すものは、次第にその他の人がつくり出すものと似てきてしまうのだ。知識は創造の敵なのだ。
創造するということは、実は「それまで大事だと思われてきたことを無視するということ」に他ならない。
たとえばUber。極めて創造的なサービスで、あっという間に世界を席巻した。世界には何万というタクシー会社が存在すると思うが、これまでどの一社も同様のサービスをつくり出すことはできなかった。なぜなら、彼らは自分たちの仕事を知りすぎていたからだ。Uberは、既存のタクシー会社が重要だと考えていたものをことごとく無視することによって、だれも思いつかなかったサービスをつくり出すことができた。
多くの人は、学ぶことや知ることは尊く、努力すべきことであると考えている。しかしながら、もしあなたが「ほんとうに新しいもの」をつくり出したいのであれば、知りすぎてはいけない。ブリーフを深く読み込むよりも、ぼんやりと聞いた話の中で自分の心に残ったこと、ひらめいたことを、もっと直観的に信じることが大切なのだ。
2 いきなり考えるな
ものをつくる前に考えることは重要だが、一人で考えるよりも、複数の人間で考えた方が圧倒的に早いということを、もっと重視すべきだ。何かをつくろうとするときにまずするべきことは、どうやってつくろうかと考えはじめる前に、「あなたが一緒につくりたい人を探すこと」から始めるとよい。
ものづくりというのは、砂場遊びのようなやり方が一番うまくいく。一部の天才を除いて(そういう人はこんな文章は読んでいないだろう)、多くの人は複数の人間とチームで考えたり、つくったりすることによって、よりよい成果を出すことができる。
公園の砂場で遊ぶ子供たちを観察していると、短期間にさまざまな「イノベーション」が連続して起きる様を見ることができる。最初はみんなそれぞれバラバラに遊んでいるが、誰かが山をつくりはじめると、それをかっこいいと思った子供たちはみんな山をつくりはじめる。誰かがそこに穴を開けはじめると、それを見た他の子供が、反対側からも穴を掘ることで、トンネルをつくることができると発見する、という具合に、影響しあい、付け加え合うのだ。
ものづくりの現場もこのような「砂場」スタイルが望ましい。必要な才能を集め、会議をするというよりは、砂場遊びのように各々がプレイする様子を鑑賞し合うようなスタイルがいい。ここでさらに創造性を高めるコツは、同じような分野の才能を集めるのではなく、「異なるジャンルの才能を集めて砂場遊びをする」ことだ。
私の会社、Mori Inc.には、クリエイティブディレクターである私と、アシスタントの二人の社員しかいない。広告会社なら、コピーライターやアートディレクターがいるべきかもしれないが、上記の砂場遊びの法則を徹底化するために、あえてそういう固定メンバーを置かないスタイルをとっている。
コピーライターやアートディレクターと組むかわりに、産業デザイナーと組んでみる。振付師と組んでみる。作曲家と組んでみる。プログラマーと組んでみる。もちろんこうした人びとも、これまで制作現場にいないことはなかったが、一番最初の砂場遊び(=アイデア開発)の段階にはいないことが多かったと思う。広告業界では常にコピーライターとアートディレクターの砂場遊びからすべてを始めることが多いからだ。
一人で考えるのではなく、複数で考える。しかも固定メンバーではなく、普段は一緒にいないメンバーと考える。こうしたやり方によって、新しいものは創造される。新しいものは、新しいつくり方からしか生まれない。つくり方、つくるプロセスがなにより重要だ。「つくり方をつくる」ことでしか、新しいものをつくり出すことはできないのだ。
3 侵犯せよ
先に書いたように、一人でつくるよりも、異なる分野の専門家を集めてつくった方が、より早く、より創造的なものができる。より新しいものをつくり出すことができる。しかしながら、このとき重要なのは、「侵犯する自由をルールとして共有すること」だ。
多くの場合、専門家同士で働くときには、互いの専門分野は侵犯しないというのが暗黙のルールになっている。しかしながら私は、そのことが創造性を大きく阻害する要因になると思っている。これを互いに許容し合うことで、ものづくりの現場は、変わる。
コピーライターがデザインに口を出しても構わないし、クリエイティブディレクターがフィルムのエディターがつくった編集に手を入れても構わない。デザイナーが作曲家のサウンドトラックを変えてしまってもOKだ。ほんとうに優れたクリエイターとは、こういう「侵犯」を受け入れて、さらにベターなものを提案しようとする人たちのことだ。
たとえばOK Go。私は彼らのためにミュージックビデオをつくったことがあるが、リハーサルの最中に、どうしても突破できない壁にぶつかった。彼らの作品の多くは「ワンショット」で撮影されていることで有名で、私たちの作品もワンショット撮影することが必須だった。ところが、それを成立させるために必要な、ある地点からある地点までの移動距離が少しだけ長く、ワンショット撮影が物理的に不可能ということが判明したのだ。あらゆる方法を検討した結果の結論だったので、現場は重苦しい空気に包まれた。
そのとき私が提案したのは「音楽の方を変更できないか」ということだった。その部分は曲の間奏部分で、その四小節をリピートして八小節にすれば、移動に必要な時間を確保できるということに気づいたのだ。
私がこれをバンドメンバーに提案すると、現場の空気は一瞬凍った。ミュージックビデオの撮影で、映像制作者側がアーティストに曲の変更を依頼する、というのは、常識で考えれば御法度だからだ。
しかしながら、私の提案を聞いたOK Goのメンバーは少し考えて、「曲の方を変えろって? なんて素晴らしいアイデアなんだ!」といって、その場で間奏を変更してしまった。その結果、私たちはその難所を乗り切ることができ、無事に完成したビデオは、OK Go史上最速でバイラルした作品となった。
こうした侵犯関係が、創造的な作品をつくる上では、極めて重要だ。一番最初に書いたように、知りすぎることは創造性に制限を与える。それを突破するには、専門家が素人のアイデアを受け入れる寛容さを持つことが重要だ。「侵犯する自由をルールにすること」が大切なのだ。
4 捨てろ
新しいものをつくり出す上で、何かが犠牲になることはほぼ不可避だ。ものづくりチームのリーダーにとって必要なのは、メンバーを大切にするあたたかい心ではなく、メンバーがつくったクズをクズと言い切って大胆に捨ててしまう冷酷さである。
人間には承認欲求というものがある。自分を大切にしてほしい、自分がつくったものを大切にしてほしいと考える心だ。これが、創造的なプロセスにおいては、しばしば邪魔になる。
たとえば、私の最も有名な作品の一つに「森の木琴」という作品がある。森の斜面に、四十四メートルの一直線の巨大な木琴のような構造物がある。その上を重力で転がり落ちる玉が、そこに取り付けられた四百枚以上の鍵盤の上を、順番に打鍵しながら落ちていくことによって、バッハの名曲を奏でていく、という作品だ。
この作品の制作過程において、この巨大な木琴を制作するメディアアーティストが、単なる一直線の木琴ではなく、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンのように、さまざまな仕掛けを突破しながら演奏した方が面白い、というアイデアを出した。もともとのアイデアを考えたのは私だが、私は先に書いた通りこの手の領域侵犯が嫌いではないので、それもやってみようということにした。
制作には三カ月以上かかった。メディアアーティストはその多くの時間をルーブ・ゴールド・マシンの実現に費やした。自分のアイデアだから、それは当然だ。そして、原案の一直線バージョンと、ルーブ・ゴールドバーグ・マシン・バージョンの二つがつくられ、撮影された。オフライン編集で、二本の試写が終わったあと、スタッフ全員が私の顔を見た。彼らの顔は「もちろん、ルーブ・ゴールドバーグですよね?」と言っている。なにしろ、そちらの方が手がかかったのだから、彼らからすれば、それが当然の結論だった。
しかし、私の答えは違った。仕掛けものは興味深いが、一直線だけのシンプルさこそが、この作品の魅力になると考えたのだ。表現の純度において、圧倒的に秀でていると感じた。それをスタッフに伝えると、明らかにスタッフの顔は曇った。私の考えを変えようと、みんなが私を説得しにかかった。それは当然だ。自分たちが最も熱意をかけてつくったものが、現場にたいして出てこないクリエイティブディレクターによって否定されたのだから。
ここで、私がスタッフの熱意を汲み取って妥協する、あたたかいタイプの人間だったら、この作品の成功はなかっただろう。私はスタッフ全員の反対を押し切って、彼らの案をボツにしたが、その結果「森の木琴」は世界中の人から絶賛され、いまでは当時反対したスタッフも、自分の代表作としてポートフォリオの一番上に掲げる作品になった。
ものづくりをするとき、特にものづくりのチームのリーダーとしてそれを行うとき、あなたに必要なのは「捨てる勇気」だ。捨てることは痛みをともなう。しかしながら、その痛みが最終的な成功につながると信じられるなら、勇気を持って、その痛みを受け入れてもらわなくてはならない。それが全員の幸せにつながると信じて。
5 寝ろ
多くの人は勤勉は美徳であると考える。ところがものづくり、特にそのアイデアを考える段階においては、それは美徳ではなく、むしろ傲慢ですらあると私は考えている。
このことを話すと、特に勤勉な若い人は、どうして一生懸命考えることがいけないのですか?と、私を責めてくる。一生懸命考えている、徹夜をしてまで考えている私のどこがいけないですのか、と喰ってかかってくるのだ。
しかしながら、こういう人たちは根本的な勘違いをしている。なぜなら、アイデアを考えているのは、彼ら自身ではなく、彼らの脳である、ということを理解していないからだ。あなたは、あなた自身が考えている、そう信じて疑わないだろう。デカルトもそんなようなことを言って歴史に名前を残した。そんな当たり前すぎることは誰も疑わない。しかしながら、そもそも「あなた」という意識そのものが、あなたの脳があなたに与えている限定的な思考空間にすぎないということが、現在の脳科学の研究では明らかになっている。あなたは、あなたの脳によってつくり出された、脳のしもべに過ぎないのだ。
人間の脳は、あなたが考えている以上に、実にたくさんのことをしている。たとえばよく知られるのは、カクテルパーティー効果という現象だ。ざわざわと多くの人が会話をしているパーティー会場で、突然どこかで自分の名前が話されたのが耳に入ってくる経験をしたことがあるだろう。これは、あなたには喧騒にしか聞こえていないが、あなたの脳はそれらを常に聞き分けていて、あなたに関係があることだけ、必要なことだけを、あなたに送り込んでいるからなのだ。
アイデアのつくり方、というような本を読めば、アイデアが二つ以上のコンセプトの組み合わせに過ぎない、というようなことはよく説明されている。しかしながら、なぜそのような組み合わせが突然「ひらめく」のか、その原理については、まだあまりわかっていない。また、アイデアが生み出されるためには、それ以前にたくさんのインプットが必要なことや、リラックスした空間の中でアイデアがひらめきやすい、ということも、たいていどの本にも書かれている。
では、なぜそのようなことが起きるのか。
私の仮説はシンプルだ。「アイデアは、あなたがつくっているのではなく、あなたの脳が、あなたの意識の外でつくり出している」ということだ。
人間の脳は、睡眠中に短期記憶と長期記憶を整理していて、夢はこの整理に関係していると言われている。私は、そのとき同時に、あなたの脳の中に「アイデア」が生まれていると考えている。睡眠は、夢とともに、アイデアを生み出しているのだ。
しかしながら、生まれたこのアイデアは、あなたという意識の外側にあるので、すぐには手に入らない。あなたの脳の中には存在しているが、あなたという意識の中には入ってきていない状態なのだ。なぜなら、翌朝目が覚めた後も、あなたの脳はフル活動する必要があり、そんなものをあなたに教えるヒマがないのだ。しかしながら、もしあなたがひとたびリラックスして、脳の情報処理の負荷を極端に下げてやると、脳は突然それをあなたの見えるところに置く。これが俗に言う「ひらめく」という現象だと、私は考えている。
こう考えると、多くのアイデアについての本が、アイデアはリラックスできる場所や閉鎖された空間(トイレやお風呂など)で生まれやすい、と説明していることと辻褄が合う。また、アイデアが生み出される前提として、事前にたくさんのインプットが必要になる、ということも説明できる。
つまり、あなたの脳を働かせて、アイデアを生んでもらうためには、①まず、あなたがたくさんのインプットを行うこと、②睡眠をとることで、あなたの脳に、私たちが「アイデア」と呼んでいる新しいコンセプトの組み合わせをつくり出してもらうこと、が必要だ。そして、それを受け取るためには、③起きたあと、脳の負荷を下げて、脳が新しいコンセプトをあなたの意識に手渡す余裕をつくり出すこと、も必要なのだ。
もちろん、多くの脳科学の知識と同様、これは仮説に過ぎない。しかしながら、私はこれを実践することで、これまで現実に多くのアイデアを得てきた。また、世界的に多くの優れたクリエイティブ企業が、リラックスできるオフィス空間に投資していることも説明できる。それは、単にかっこいいからでなく、実際に効果があるから行われている、と見るべきだ。
ポイントはここだ。アイデアを考えているのは、あなたではなくあなたの脳だ。「自分自身が考えている」と考える傲慢さを捨てて、もっとあなたの脳の働きをリスペクトしよう。そして、脳の負荷について、その状態をケアするという発想をもつこと。
現代の多くの人は、肉体をケアするためにフィットネスやダイエットを行う。しかしながら、脳をケアするという発想を持っている人は少ないだろう。あなたがものづくりにおいて、一歩人より秀でたいと考えるのであれば、「脳のフィットネス」を心がけるといいだろう。
6 Do not make another shit for shit.(無駄のための無駄をつくるな)
まずは不適切なタイトルをお詫びしたい。ここは「誠実さ」についての話だ。
私は二十年以上、広告業界で働いているが、広告主に呼ばれてブリーフにいくと、その商品の多くは、Shitであることが多い(失礼!)。しかしながら、多くの広告代理店やデザイン会社は片目をつぶって「まぁ、これはなんてすばらしいShitなんでしょう」とお世辞をいい、Shittyな広告をつくり出す。そして毎年、南フランスに集まって、世界一のShitを決めるお祭りを行う。
なぜ、そんなことをするのか。―それはお金のためだ。ようするに私たちは、お金のために、another shit for shitをつくり出す仕事をしている。これは、広告会社に限らず、ものをつくる企業がよくしてしまいがちなことだと思う。
私は、そろそろそんなことはやめにした方がいいのではないか、と思っている。グローバルなスケールでみれば、それはものづくり能力や資源の無駄遣いでしかない。
広告主も、広告代理店も、デザイン会社も、すべてが同時に「メイカー」であると考えよう。メイカー同士が、本音ベースで向き合う「砂場」を囲んで、一緒に新しいものづくりに取り組む、というように考えたらどうだろう? ここに集う参加者すべてが、これまで書いてきたように「知り過ぎず」「チームで考え」「お互いの領域侵犯を許容しあい」「捨てることにためらいを持たない」でいることができれば、私たちはきっと、もっともっといいものを、みんなでつくり出すことができる。
そのためには、「正直であること」を美徳としなければならない。広告主であれ、広告会社であれ、デザイナーであれ、shitはshitと言わなければならない。そして、そう言われることに感情的にならず、それをいかによくしていくか、ということのみについて、共感し合わなければならない。
ものづくりをする人は、正直であることを美徳とするべきだ。そうでなくては、ほんとうにいいものをつくり出すことはできない。ちょっとしたお世辞や気配りが、創造を台無しにしてしまうのだ。
7 愛と尊敬
最後に、ものづくりのゴールをどう設定するべきか、ということについて話す。「いいもの」「人びとに共感されるもの」とは、論理的にはどういうものか、ということである。
ブランドにせよ、プロダクトにせよ、芸術作品にせよ、エンターテイメントにせよ、人びとに共感されて、世の中に広まっていくものを決定づける二つの要因は、「愛」と「尊敬」だ。愛されることと、尊敬されること。この二つの原理が、人間の共感や動機を形成している。
しかし、なぜその二つなのか。私がこれらを根源的なものだと考えているのは、人間という生き物が「この二つを評価するようにプログラムされている」と考えているからだ。別の言い方をすると、「愛」と「尊敬」を根源的な動機とすることで、人類という種は生き残ってきた、と考えているのだ。
人間という生き物は、極めて脆弱な生き物だ。ライオンのように牙もなければ、カモシカのように早く逃げられる足も持っていない。こんな軟弱な生き物が野生の中で生き残り、地球を支配するまでに至ったのは、人間が「集団や組織を構成する生き物」だったからだ。そして、その集団や組織を成立させるのが、「愛」と「尊敬」という二つの感情のプログラムだ。
人は同じ何かを愛する者同士で、集団をつくる。家族であれ、国家であれ、フーリガンであれ、ブランドであれ、人間の集団は必ず「何か同じものを愛する集まり」として構成される。逆に言えば、「同じものを愛する相手に共感を持つ」という感情プログラムを人間が持っているから、人類は集団を構成するに至った。その結果、単独では勝ち目のない軟弱な生き物が、厳しい大自然の中で生き残る道を見つけたのだ(その感情プログラムを持たずに、集団を構成できなかったタイプの人類は淘汰されたと考えられる)。
しかしながら、単に集団になっただけでは、生き残る強さに直接は結びつかない。烏合の衆では意味がない。集団は、優れたリーダーに統率されることによってはじめて強くなり、生き残りの道を見つけることができる。
この優れたリーダーを見つけ出すための感情プログラムが「尊敬」だ。尊敬という感情プログラムを持つことで、人類は愛によって構成された集団を統率するリーダーを生み出すことができたのだ(そして、そうした優れたリーダーを持つことができた人類だけが生き残った)。
一般的には、愛や尊敬といった感情は、食欲や性欲などと比べるとかなり高度な感情のように思われている。しかしながら私は、この二つは人類を生存させ続けた、かなり根源的な感情であると考えている。だからこそ人間は、この二つを刺激されたとき、否定できない高揚感を感じる。そして、言葉にできない忠誠心をつくり出すのだ。
もしあなたが、ものづくりにおいて「いいもの」をつくりたいと考えるなら、この「愛」と「尊敬」を、価値判断の尺度として持つといい。自分がつくるものは、愛されるか、そして、尊敬されるか。この二つの感情が、逆らうことのできない忠誠心を生み出す。広告にせよ、ブランディングにせよ、プロダクトにせよ、アートにせよ、エンターテイメントにせよ、ものをつくる人であれば、この二つの原理を忘れてはならないし、逆にこの二つの原理を利用することで大きな成功を収めることができるとも言える。
Appleにせよ、ビートルズにせよ、キューブリックにせよ、バンクシーにせよ、すぐれたメイカーたちが何を勝ち取っているかを考えてみて欲しい。結局のところ、それは「愛」と「尊敬」だ。なぜなら私たちは、この二つを評価することをプログラムされた動物であり、それがゆえに生き残ってきたからだ。そして、それは根本的なものであり、現在でも何も変わっていない。
「いいものをつくろう」という言い方は少し漠然としている。人間が言う「いいもの」とは何か。それは、「愛されるもの、尊敬されるもの」のことだ。ものづくりの目的は、そういうものをつくり出そう、ということなのだ。
さて、どうやら紙数が尽きようとしている。私の話は少しランダムに聞こえたかもしれないが、何かをつくり出すという行為は、予定調和からは生まれない。体系化できない、言語化できない、ぬるっとして、ふわっとした言葉や行為の後ろにこそ、新しい創造のヒントがある。
また、どこかでお話しましょう。さようなら。
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いかがでしたでしょうか。こんな感じのエッセイが18人分も収録された本です。
面白いのは、国籍も職業もまったく異なるクリエイターやアーティストの人たちが、それぞれの語り口で語っている内容に「共通点」が多い、ということです。
それを感じながら読んでいただくと、あなたの脳内の「クリエイティブOS」がアップデートされていくのを体験できるでしょう。是非。