日本的ナルシシズムの克服と自我の確立

筆者がわざわざ精神分析の言葉を引用しながら、「日本的ナルシシズムの克服と自我の確立」などと大げさな言葉を用いて語ろうとしている内容は、1948年にすでに太宰が語ったことを、現在の文脈の中で言い直しているだけである。
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現代日本における意識の分裂について(5)

日本的ナルシシズムの克服と自我の確立

太宰治の『人間失格』の中に、次のような一節がある。

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ!などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、「冷汗、冷汗」と言って笑っただけでした。

けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。

筆者がわざわざ精神分析の言葉を引用しながら、「日本的ナルシシズムの克服と自我の確立」などと大げさな言葉を用いて語ろうとしている内容は、1948年にすでに太宰が語ったことを、現在の文脈の中で言い直しているだけである。

現代日本における意識の分裂について(1)~(4)」で論じたように、日本人の意識は、日本社会や「世間」との一体感の中に留まりやすい傾向がある。

漠然とした一体感からの「個」の意識の分離が妨げられやすいことと、こころの内側に「自我」という構造が成立しにくいことの現れの一つは、精神分析で「成人性愛」と呼ぶ関係性が成立しにくいことである。成人性愛は、自分も他者も全体としての「こころ」を持つことを了解している者同士の間で成立する関係性であり、「自由恋愛」という西欧近代の文化の所産である制度は、「自我」の確立をうながすような社会体制の中でこそ合理的である。

恋愛は個人の努力や情熱を、共同体の事業から個人的な領域に振り向ける性質を持つために、その一部に非社会的な要素を含む。2月14日はバレンタインデーであった。伝え聞くところによると、この日に祝われる聖人は、時のローマ皇帝の命令に背いて、秘密裏に兵士たちを結婚させた罪のために処刑をされたのだという。ローマ皇帝は、愛する人を故郷に残した兵士の士気が下がり、献身的に死を賭して戦わなくなることを恐れた。

冒頭に引用した『人間失格』の一節は、主人公が堀木という人物から「女道楽」を控えるように説教をされるという文脈を受けての記述であった。責任のある成人男子として、恋人への社会的義務を十分に果たせないことをくり返す主人公の葛藤に対して、「世間」に同一化した立場からの断罪が行われた。

現在の日本社会における問題として、「少子化」「草食系男子」などの問題が指摘されることがあるが、その一因として、伝統的な集団主義的な精神性を称揚する風潮と、「自由恋愛」を尊ぶ空気の混乱があると連想している。

「自我」が成立するためには、攻撃性が適度に意識化され、統合されることが必要である。他者や集団の利益に反しても、自分の利益を主張できるようになることが自我の成立のために求められる。その上で他者にも他者自身の利益を主張する権利があることを認め、そのような存在としての個人同士が社会的な関係性を構築していくことが、近代的な「民主主義」が成立する前提である。

このためには、自分の内側にある攻撃性や闘争心・性欲・自己愛などについての洞察を持ち、ある程度それらを意識化した上で、それを社会的に許容される仕方で表現することを学ぶ必要がある。そして、それが可能になるためには、実際にある程度の失敗を経験し、そのことについて周囲から許される経験が必須である。この経験を通じて、私たちは他者に感謝をすることを学ぶ。しかし、現在の日本社会においては、そのような「自我」の成立に必要な「失敗」の経験への許容度が、著しく低下しているのではないだろうか。

社会的な場というものがある。失敗が許容されるべき場で過度に厳しい非難が行われる一方で、失敗に対して厳しい統制が行われるべき場でそれが許容されてしまう、きわめて奇妙な出来事が日本社会で頻発している不安を感じている。私たちの社会の伝統的な「場」が崩れて、それが再編される移行期にあるのだろう。

現代日本における意識の分裂について(1)」で言及した「メランコリー親和型」は、うつ病の病前性格として扱われることが普通であるが、木村や樽味のような研究者にならって、筆者はこれを「日本人」の性質を説明するものとして理解している。これを最初に提唱したテレンバッハは、精神分析家のアブラハムを引用しながら、メランコリー親和型の特徴について、「他者とのポジティブな共生関係を損なうすべてのものを、すなわち一切の攻撃性、一切の不潔さ、他人の承認を得られないすべてのものを排除しようとする傾向」があることを指摘した。

このように、一切の攻撃性が排除された共生的な人間関係の空間が(残念ながらこれは想像的なものにならざるを得ない)、多くの日本人が社会や世間について抱く理想としてあり、そのような場を形成して維持していくことがまともで、「道徳的な」行為であると想定されている。そして、批判や自己主張・競争などの排除が理念とされる空間で生活している個人にとっては、自らの攻撃性を統合した自我という内的構造を作り上げ、その表現方法を洗練させるということは至難の課題となる。

「すべての低次の個人的な欲求を乗り越えた、集団への献身的な生き方を行う、高い道徳性を達成した日本」に心理的に同一化している部分の日本人の心性が現れると、あらゆる他者の「自分」の利益に関わる行為を、道徳的に低劣なものであると感じやすい。自分についてのそれは往々に心理的に否認・排除され、他者に投影される。そのために、日本社会において、自分の利益や権利を主張したり求めたりすることは、周囲からの強い軽蔑の対象となる。日本人にとっての自己主張は、世間的な名誉や信頼の失墜などの見えないコストを懸案すると、割の合わない行為となることが少なくない。

精神科医の内海は、メランコリー親和型では、自分が行う献身に対しての報酬として与えられる反対給付への期待は、相当に大きいものがあるのにもかかわらず、あるいはそうであるがために、無意識に抑圧されていると考えた。「滅私奉公」を行うのが共同体の理想である限り、自分の中のそれと反する姿は意識の中に統合されることが妨げられる。自分の属する社会に対する期待が高ければ高いほど、自分の欲望については抑圧し、間接的にそれが共同体から付与されることを期待すると同時にその事態を否認するという、自縄自縛の状況にメランコリー親和型は落ち込んでいる。不遜な自己主張を行って自らの利益を主張する「悪い」姿は、その場で目立っている他者に投影されやすい。なお、無意識の反対給付への期待が裏切られる状況で、うつ病発症の危険性が高いことを内海は指摘した。

「世知長けた人」として、このような社会で成功するために用いられてきた心理的な技術は、「オモテと裏」の使い分けに習熟し、公的な場面では自分に関する主張を可能な限り行わないように心がけ、非公式の場面で自分の影響力を高く保つ立場を獲得して維持していくことであったと思われる。その結果として、「オモテ」では攻撃性などが一切関与しない清浄な社会の側面のみが言及され、「裏」の私的な領域では、原始的で前近代的な低次の形態での欲動の表現が横行する問題への抑止力が働きにくくなる傾向が存在した。

しかしながら、「オモテ」の場面でも許容されやすい攻撃性の表現方法が存在した。ある対象者の世間の理念に合わない側面を指摘し、それを道徳的に非難する空気を作って、それへの一体感に乗じて攻撃性や怒り・羨望などの感情を発散させることである。これは、普段の生活においてそれらの欲動や欲望が無意識的に抑圧されている程度が高いほどに、強い無意識的な享楽を提供する機会となる。「スケープゴート」を作ることには、管理的な立場に居る者が意識的に関与することもあったと推察される。このことは当然、いじめや自殺の問題とも関連しているが、そのことはまた別に論じる機会を持ちたいと思う。

集団に心理的に一体化することは、道徳的な万能感を与えるので、攻撃を行う主体は自らの姿への洞察を失っていることが普通である。しかしながら、攻撃を向けられた対象が太宰のように洞察に富んでいる場合には、その「道徳的主張」の清浄さの陰に付着している「汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性」が看破されることになる。これは自我に統合されない、否認された原始的で幼児的な心的要素についての小説家の記述であったと考える。

くり返しになるが、ここで記載した精神性の、最も悲劇的な側面は身近な人を愛せないことである。筆者の普段の仕事は精神科医であるが、残念ながら少なくはない人が、世間的なこだわりからオモテでは「(精神的な)問題はない」と主張して公的な介入や援助を拒否し、裏では近親者に対して何らかの強い依存や攻撃性を向けていることが少なくない。そのような場合に、次第に数が少なくなっている自分の味方である近親者に対して、何らかの道徳的な優位性を主張して攻撃性を発揮していることが、珍しくはないのである。

精神分析家のアブラハムは、次のように記載している。「(躁うつ病患者では)口唇期への固着が過度の依存性として現れ、そのために対人場面で過剰な期待を向けた対象からの幻滅を体験しやすくなり、そこから自己愛の損傷を感じやすい」と論じた。患者は活発な口唇期および肛門期のサディズムのために、愛する対象についても憎悪が優位となってしまう苦悩を経験している。

世間的な立場への一体感から保証されるナルシシズムの満足を断念し、身近な他者を愛しうる自我の世界への移行が、求められているのではないだろうか。

自戒を込めて今回の論考を閉じる。

「日本的ナルシシズム」などというものはなく、私のナルシシズムがあるだけかもしれない。

 Wo es war, soll Ich werden.

岩崎学術出版社;東京;1993