昨日と今日とで言っていることが違う人というのはあまり格好の良いものではありません。首尾一貫していてブレない人の方がかっこいいですし信頼できる印象を与えることは間違いありません。しかしだからといって、間違いに気づいた後にも間違いを認めずに押し通すのは正しいことではありません。それは単にブレない人のフリをして見栄を張っているだけで、その間に人生という限られた時間を無駄使いしています。
そうやって無為に過ごしているうちに、後戻りできないくらいの時間が経過してしまうこともよくあることです。間違いを認めない人は、間違いを認めずにこれまでの自分を正当化するためにさらに間違えたことをやり続けます。間違えたことをやり続ければやり続けるほど、今さら引き返すわけにはいかないという気持ちになりますから、さらに間違えたことをやり続けてしまいます。そんな不毛な首尾一貫よりは右往左往している方がよほどマシです。
間違いを認めてやり直すには勇気がいります。まず今まで間違えてきた責任を負わなくてはなりませんし、次にどういうやり方を選ぶのかを決断しなくてはなりません。責任を負いたくない人、決断ができない人は間違いを認めずに現状を維持して問題を先送りにしてしまいます。
自分のこれまでの人生の大半が間違いだったのではないかと心の奥で気づいた時、間違いを認めたくないタイプの人は、間違いを認めずに正当化しようとして論陣を張ります。たとえば結婚するタイミングを逃してしまった人が自分の間違いを認めまいとする時には、「自分は結婚できないんじゃなくて結婚したくないんだ」とか「そもそも結婚というのはしない方がよいのだ」といった内容の論陣を張ります。結果として、それ以降の結婚するチャンスを自ら逃してしまいます。
これは自分自身のプライドとか尊厳とかを守るための行為であって、そこには何の悪意もないのですが、これを聞いた若い世代の人が影響を受けて真似をしてしまうことはありえます。年齢の若い人は、年長者からのアドバイスを「自分自身の反省から出てきた役に立つアドバイス」なのか「自分自身のプライドを守ろうとしているだけの聞き流すべきアドバイス」なのか聞き分ける必要があります。
間違いに気づいても間違いを認めずにさらに間違えたことをやり続けるという現象は個人だけに起こるとは限りません。そういった体質の組織はよくありますし、社会全体がそういう風潮になることもあります。そういった体質の組織の中では誰もが間違えたことをやり続けてしまいます。
たとえばそういった体質の会社では、ひとりの社員の判断ミスで損失を出してしまったような時に周囲の人達は優しく見て見ぬフリをしてしまいます。そうやって失敗の原因を検証しないままうやむやにしていると、いずれまた誰かが同じ間違いを犯すことになります。こういう体質の組織では組織自体もそこに属している人達も永遠に進歩しません。
こういった馴れ合いから抜け出すためには、まず失敗すること自体は恥ずかしいことではないという認識を共有しなくてはいけません。同じ失敗を繰り返す人はただのアホですが、様々な失敗をしてきた人は経験値の高い人として評価されるようにならなくてはいけません。失敗をなかったことにするのではなく、失敗を共有することで失敗から学ぶ組織にしていかなくてはいけないわけです。
失敗を取り繕うために間違いをうやむやにするのはバカげたことです。それは本人も含めて誰のためにもなりません。
間違いに気づいた時には、そのまま押し通すよりも遅ればせながらでも改めるという姿勢の方が結局は自分のためになります。そもそも、常に自分の頭で考えて自分の意思で行動しようと心がけていると考えや意見が頻繁に変わってしまうのは当たり前のことです。見ばえこそ悪いですが、それは不毛な時間を減らすためにどうしても必要なことなのです。
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(2014年6月10日「誰かが言わねば」より転載)