映画「新聞記者」が好評だという。
私は朝日新聞の記者になって21年(うち2年はハフポスト)たつが、好評だと言われても正直、居心地が悪かった。
というのも、自身の記者人生を振り返れば、事件や事故の取材が長く、ある意味、人の不幸を「ネタ」に仕事をしているという後ろめたさを常に感じてきたからだ。
加えてこの間、メディアに対する人々の不信も増大した。
それでも映画というフィクションを通じて、記者という仕事に多少なりとも光が当たることはありがたいことだ、と前向きに受け止めようとしていた。
だが、そんな矢先、暗澹(あんたん)たる気持ちにさせられる出来事があった。
政権に「はめられた」わけではない
自分の組織である朝日新聞が7月9日付の朝刊1面トップで誤報を出したからだ。
記事は、ハンセン病患者を隔離し続けた国に損賠賠償を命じた熊本地裁の一審判決について、国が控訴する方針を固めたとする内容だ。
記事の大きさや書き方から、朝日新聞は「特ダネ(スクープ)」として掲載している。
ところが、その日の午前中、安倍晋三首相が控訴を断念することを表明。記事は誤報となった。
Twitterなどソーシャルメディアでは、朝日新聞は安倍政権に批判的だから、政権によって「ガセネタ」(うそ)をつかまされ、はめられたという見方が一部で広がっていた。
映画「新聞記者」の中で官邸が情報操作をするなどのシーンがあり、権力によって記者がはめられた、という説に拍車をかけたのかもしれない。
だが、こうした「スクープ合戦」に長いこと身を投じてきた私が想像するに、真相は、そんな壮大で陰謀めいた話ではないと思う。
仮に「ガセネタをつかまされた」のであっても、全く言い訳にはならない。
私たち記者が取材先から嘘を付かれたり、虚実ないまぜの情報を持ち込まれたりすることはよくあることだ。
それを裏付け取材して見極めるのが私たちの仕事だ。
今回の件で言えば、ひとえにこの裏付け取材が甘かった、ということに尽きると思う。
実際、翌10日付の朝刊には、政治部長が「取材は十分ではありませんでした」などと記事で経緯を説明している。
間違った特ダネ観
もちろん、間違うことは誰にでもある。人が取材・執筆し、紙面を作り上げていく以上、ヒューマンエラーはつきものであり、開き直るわけではないが、ここで今、問題にするつもりはない。
そうではなくて、私が深刻に思ったのは、報道界で今の特ダネ観がいつまで続くのだろう、ということだ。
特ダネ観とはつまり、ある注目の出来事を、他社に先んじて報じる「前打ち」を特ダネだとことさら評価する業界内の共通認識のことだ。
新聞各社では、政権や捜査機関、行政機関などの当局の動きや意思決定をめぐり、他社に先んじて報じることを特ダネとして評価する傾向が昔から強い。
「○○の事件で、○○警察は○○容疑者を逮捕する方針を固めた」「政府は○○の検討に着手することを決めた」…。こんな表現をよく紙面で目にするだろう。
「方針を固めた」「~に着手する」「~に乗り出す」「~がわかった」「~が明らかになった」…。これらはほとんどが特ダネと位置付けた、前打ち報道だ。
こうした前打ち重視主義に加え、当局の動きに過度に重きを置く(ニュースととらえる)当局重視主義も合間って、この種の前打ち競争はなくならない。
速報が報道の大きな使命の1つであることは異論を待たない。
だが、速さを求めるあまり、裏付けが不十分なまま掲載し、あまつさえ誤報になれば多方面に迷惑をかけることになり、本末転倒だ。
熊本のハンセン病がらみの訴訟では、控訴期限(一審判決から14日間)は7月12日だった。
その3日前に朝日は前打ちして失敗したわけだが、この期限までには発表されるであろう国の判断について、誤報のリスクも冒しながら3日早く報じることに、読者にとってどれほどの意味があったのだろうか。
報道は「博打(ばくち)」ではない
もっと極端な事例はたくさんある。
例えば事件で、容疑者を逮捕する場合、その日の朝刊で「逮捕する方針を固めた」「逮捕状を取った」などと報じることがある。
この場合、逮捕を発表する数時間前の前打ちになることも多い。
誤報になれば、場合によっては人権侵害など取り返しのつかない事態を招きかねない、読者不在の業界内「ゲーム」。そんな前打ち合戦はなぜなくならないのか。
そこには、速報を目指す使命感よりやっかいな問題がある。それは、前打ちできる記者を高く評価する新聞社内のあり方だ。
新聞各社は、前打ちを特ダネと位置付け、それを書いた記者を優秀だと評価する。
評価されれば、記者は自分が望む部署や担当に就くことができ、されなければ、場合によっては記者職や編集から外される。
元々書くのが好きで記者になった人が多く、「書けなくなる」ことは恐怖だ。
前打ちの中でも、とりわけ評価されるのが当局の動きや情報に関する内容だ。
それは大手報道機関が当局の動向を重視するからだが、この場合、情報は基本、当局側から入手することになり、当局と記者側との「癒着」という別の懸念も生じる。
情報欲しさのあまり、記者が当局者に気に入られようとすり寄る。
もちろん、取材先の「ふところ」に入り込むことは記者にとっては重要なことだ。
だが、ネタ元として関係を築いた当局者やその人がいる組織について、毅然と批判できるだろうか。
多くの記者はもちろん、「是々非々でやる」と言うだろうが、言うほど簡単ではないということは私自身、よく知っている。
いずれにしろ、報道機関が、この手の前打ち報道を過度に評価する姿勢を改めない限り、裏付けが不十分な前打ち記事はなくならないだろう。
ひいては、権力との癒着の可能性も減らない。
報道が「当たるも八卦当たらぬも八卦」のような、「博打(ばくち)」になってはならない。
私もかつて、こうした前打ち合戦に明け暮れてきた。誤報を書いたこともある。「自分のことを棚に上げて」という批判は覚悟している。
それでもこうした文章を書こうと思ったのは、問題点に気づきながらも感覚を麻痺させ、組織に物言わずにここまで過ごしてきたことへの後悔と反省からだ。
大阪地検を担当していた時、ある検事からこう苦言を呈された。
「我々捜査機関は、記者に『ほらもうすぐ逮捕するぞ、逮捕するぞ』と言われなくても必要があれば逮捕する。そんなことより、逮捕すべき時にしなかったり、逮捕する必要がなかったときにそれを批判することこそ、君たちの役割ではないのか」
あれから10年以上たった今、この言葉の重みをかみしめている。