7月半ば、福島第1原発から新たな問題が降ってわいた。原発事故現場のがれき処理から生じた粉じんが、福島県南相馬市などに飛来したというのだ。懸命な農業復興の途上にあるこの地域の農家は、怒りと困惑を隠さない。
■ 昨年産に「基準値超え」出る
「平成26年度調査田 野馬追の里・おひさまプロジェクト」。こんな大きな看板が、南相馬市原町区太田地区の道路脇にある。見渡す限り緑の田園風景だが、ほとんどが生えるがままの雑草だ。そのほんの一角、計4.2ヘクタールの田んぼだけに稲の葉が伸びている。
すぐ近くのこんもりとした森は、有名な相馬野馬追の出陣地の1つ、相馬太田神社。朝靄の中、苗田の1本道を駆けていく騎馬武者の姿が夏の風物詩だった。が、20キロ南にある福島第1原発の事故が起きた2011年以後、稲作は市内全域で自粛されてきた。
地元住民の太田地区復興会議、太田地区まちづくり委員会、同区長会が合同でプロジェクトを立ち上げたのは12年。初年度は神社に至る道路脇の田んぼに大量のヒマワリを植え、景観づくりと、土壌に含まれた放射性セシウムの吸収を狙った。2年目の13年は、南相馬市が「試験栽培」の希望者を募り、太田地区の農家有志も応じて同プロジェクトの実証田としてコメ作りをした。市内で155戸の農家が参加した試験栽培(計123ヘクタール)のコメは、放射能検査を通れば、自主販売をすることができた(国の食品安全基準は1キロ当たり100ベクレル未満)。約1万袋(30キロ入り)が収穫され、市にとっては農業復興の第1歩だったが、太田地区の27袋が基準値を超えた。うち24袋がプロジェクトの実証田のコメで、基準値を超えたのは太田地区のものだけだった。
太田地区復興会議のメンバーで農家の奥村健郎さん(57)=同市市議=は、震災の年から、稲作復活を念じ自らの水田で試験作付けをしてきた。「昨年、自分の分はND(不検出)だったが、『むら』の再生をかけたプロジェクトだけにショックだった」と4月の取材で語った。
■「がれき撤去」で生じた粉じん?
太田地区は、原発から20キロ圏(旧警戒区域)の線引きで一部が圏内に入った。震災直後はほぼ全住民が避難を強いられ、圏内の約200戸の住民が今もわが家に住めないでいる(日中の立ち入りは自由)。奥村さんらのプロジェクトは、旧太田村時代からの地域の一体感と農業の伝統を基に地域再生を始めた。定期計測する空間放射線線量は3年間で、年間1ミリシーベルト程度に下がった。水田の土壌には現在もセシウムが1キロ当たり2000ベクレル前後ある。
今春からは、有機農業の専門家である新潟大農学部の野中昌法教授らのグループと連携し、稲のセシウム吸収の有無をさまざまに条件を変えて調べる調査を始めた。「13年のコメにセシウムが出た原因が何か、突き止めるのが大きな目的」と、周囲の土壌から塩ビパイプで隔離した環境で稲を育てたり、波打ちトタンで試験圃場を細かく区切って、セシウム吸収抑制効果のあるカリウムの分量や、土に酸素を供給する「中干し」の程度を変えたりした。
今年8月からは、太田地区でもようやく水田のセシウム除染が始まる予定だ。これは、大型機械を使って水田の土を反転させ、表土に付着したセシウムを土中に閉じこめる方法(反転耕)で、農林水産省が実証実験を踏まえて推奨している。稲作再開への問題解決策となるものだった。ところが、7月半ば、地元の人々が基準値超えの前提とした土壌原因説を覆すようなニュースが流れた。
福島県南相馬市で昨年秋に収穫されたコメから国の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムが検出された問題で、農林水産省が福島第1原発のがれき撤去作業で生じた粉じんが原因の可能性があると指摘し、東京電力に防止策を求めていたことが14日、明らかになった。
7月14日に全国紙が報じ、河北新報には翌15日に掲載された。
基準値超えの原因は現在も特定できていないが、農水省は同原発で昨年8月19日、3号機のがれき撤去作業の粉じんで作業員2人が被ばくした事実に着目。粉じんが風に乗って飛散し、コメに付着した可能性があるとみて、ことし1月に原子力規制庁に相談。同3月、東電に原発の作業で放射性物質を外部に出さないよう要請した。(同記事より)
7月18日に農水省と東電の担当者が南相馬市役所を訪れ、事実関係を説明した。
出席者からは、粉じん飛散が要因の一つと考えた農水省が東電に防止策を要請する一方、市に情報提供しなかったことに批判が噴出した。同省の担当者は「(基準値超えの)原因はいまも不明。森林や土壌からの巻き返しなどほかにも可能性がある」などと主張し、謝罪しなかった。(翌日の河北新報記事より)
■ 因果関係は不明だが......
「本当に因果関係が分からないのか、特定して責任を認めたくないのか。いずれにせよ、納得できなかった」と、説明会に出席した奥村さんは言う。「昨年、検査されたコメはすべて、脱穀された後の玄米だ。8月19日なら稲は出穂しているが、空から降ったなら、セシウムは表面に付くはず」。
むしろ、要因として思ったのは、稲刈り前の昨年9月中旬にあった、強い風雨による水田の稲の倒伏だったという。土壌表面のセシウムに稲が接しないよう、当時、福島県から倒伏に注意するようにとの情報が出されていたが、太田地区では実際に多くの稲が倒伏していた。「土が付いた状態で脱穀すると、ほこりが舞って、もみに付着する可能性は生じやすい。あるいは、原発から飛来した粉じんがほこりに混じったことも考えられるが、推測でしかない」。
奥村さんが怒りを覚えたのは、「なぜすぐ、情報を南相馬市に知らせてこなかったのか」という点だ。東電の回答は「当時、飛散に関し自治体への通報義務はなかった。今後は対策を徹底し、情報提供にも努めたい」というものだった。今後でなく、仮に昨年8月19日の発生時点で情報が共有されていたら、「太田でも、自分たちがただちに田んぼの坪刈り(本来は収量を調べる方法)をして汚染の有無を調べられた。現地に何の手掛かりも残っていない今ごろになって知らされても......」。
何よりも心配なのは、さらなる風評であり、農家の意欲への影響だという。「因果関係は不明でも、全国メディアのセンセーショナルな報道はそのまま多くの消費者の不安になって残るのでは。第1原発が廃炉になってなくなるまで、こんな状況が続くとしたら、コメを作る人も、これから先の農業復興の担い手もいなくなってしまう」。
南相馬市は今年、「本格的なコメ作付け再開」を宣言した。しかし、参加した農家は86戸、面積は111ヘクタールと、いずれも前年より減り(農家数はほぼ半減)、市が目標に掲げた500ヘクタールの5分の1、震災前の栽培面積の2%にとどまった。
農地除染の遅れに加え、東電から10アール当たり約5万7000円の休作賠償が支払われることも、「作っても、果たして売れるか」を懸念する農家の判断を左右したという。作付けをすれば、賠償金は支給されない。このため市は、独自に10アール当たり2万円の奨励金を支給することで農家の参加を促したが、効果は薄かった。来年の見通しもまた不透明になったという。
■「コメ依存」の見直しも
「農家が自信と意欲をなくすことが怖い。農地はもちろん、農業機械も3-4年手入れをしなければ、だめになる。苗作りをするにも、育苗用のハウスはやはりこの3年で壊れたところが多く、農協から苗を買えば、1俵(ぴょう)で4000-5000円の赤字だ。震災前でさえ農家は高齢化し、ギリギリの経営をしてきたのに。『さあ、作って』と言われても、売れるという希望がなくては。楽観的に考えるには、いろんなことがありすぎた」
奥村さんらのプロジェクトは、これからの太田地区の「むらづくり」を議論する中で、伝統のコメへの依存を見直そうとしている。菜種の大規模栽培による搾油、景観づくり、搾りかすのバイオ燃料化の可能性にも注目し、来年は20ヘクタールの畑づくりを目指すという。「新しい時代に合う農業の形、太田の生き方を見つけたい。だから、立ち止まってはいられないんだ。この1年の調査田で、まず自分たちの手で『なぜか?』を究明しなくては」。
調査田に伸びた稲を見回る奥村さん=7月28日、南相馬市原町区太田地区(筆者撮影)
寺島英弥
河北新報編集委員。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。東北の人と暮らし、文化、歴史などをテーマに連載や地域キャンペーン企画に長く携わる。「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
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(2014年8月6日フォーサイトより転載)