東日本大震災から間もなく4年の月日が流れようとしている。
雪深く残る1月の最終日、被災地、南三陸に降り立った。
私達の目を捉えたのは、更地のまま手つかずに残る土地、津波の被害で山肌がむき出しになった四方の山々、そして、塩害で変色した杉林―。
遅々としてではあるが復興の歩みを続けるものの、いまだ、震災の爪痕は色濃く残る。
そして、被災された地域の方々の生活は、今もってままならない。
心の癒えも進まぬまま、明日の復興を夢見、「今」を懸命に生きる人々。
そんな人たちが静かに私たちにあの日のことを語ってくれた。
南三陸、震災の象徴といわれる防災対策庁舎。
当時、この庁舎からは町職員と住民43人が犠牲となった。
訪れる人たちが後を絶たないこの場所は、最後の最後まで町民のために生きてくれていた人たちの魂が眠る。
訪れる人たちは皆、誰からともなく庁舎に向かい手を合わせ、鎮魂の祈りを捧げる。
保存するか、解体するか。
同僚を失った町職員の女性はいう。
「まだ自分自身の中でも結論が出ません。壊すにしても、残すにしても、皆が納得できるまで悩んだらいいのではないでしょうか。それが5年かかっても、10年かかってもいい。その答えを出すには、4年という月日は短過ぎる」。
震災遺構の意義を問う長い議論がなされてきたこの庁舎は、ひとまず保存する方針で解体は免れた。
私達に出来ることはないのか。
今、地域外の人たちに何を一番望んでいるのか、数人の地域の方々に伺ってみた。
奇しくも、この問いに対する答えは皆同じであった。
「あの出来事を、ただただ、忘れないでほしい」。
この答えを町民の方たちから聞いた時、助けるとか、救うとか、支援するなど、そんな発想がいかに厚かましいか、いかに思い上がったものであるか、恥じ入るような思いがした。
東日本大震災は過去のものになったわけではない。
全てを失った人たちにとって、あの震災はいまだ終わっていない。
悲痛と喪失感と絶望の中においても、ここに住む人々は明日への希望を、豊かな暮らしを、そして、新たなる未来を創造しなければならないとの重責を担い、亡くなった方たちの分までも必死で生きている。
絶対に風化させてはならない。
そして、被災の地に心を寄り添わせ、私達も真摯に生きなければいけない。