マイルドヤンキーに「貧困」「反知性主義」が短絡される現象について

若者文化の表象を理解する糸口として「ヤンキー」「マイルドヤンキー」といった言葉を用いるのは悪く無いと思うし、そこからマーケティング論を展開するのも面白い。だが、そういうストーリーから「マイルドヤンキー=貧困」となり、あまつさえ「マイルドヤンキー=みんな馬鹿」的な誤解を生みそうになっている現状は、ウヘェ、と思わずにいられない。
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 私もリンク先の視点に賛成だ。

 若者文化の表象を理解する糸口として「ヤンキー」「マイルドヤンキー」といった言葉を用いるのは悪く無いと思うし、そこからマーケティング論を展開するのも面白い。だが、そういうストーリーから「マイルドヤンキー=貧困」となり、あまつさえ「マイルドヤンキー=みんな馬鹿」的な誤解を生みそうになっている現状は、ウヘェ、と思わずにいられない。

 予め断っておくと、原田曜平さんの『ヤンキー経済』も、斉藤環さんの『世界が土曜の夜の夢なら』も、とても興味深く、面白い本だ。前者はマーケティングの視点からヤンキー的地方民を書き綴った本だし、後者はヤンキー先生こと義家弘介さんのヤンキースピリットに潜む反知性主義を指摘し、ヤンキー→ヤンキー的なものへの変遷を知るヒントを彩り豊かに紹介している。

 だが、こうしたヤンキー論・ヤンキー本を出汁にネットで語られている文章やリアクションを観ていると、どうも、「ヤンキーはかわいそうな貧民(そして俺達はそうではない)「ヤンキーは反知性(そして俺達はそうではない)」的な受け取り方が優勢と感じられてならない*1。いかがなものか。

■ マイルドヤンキーったって色んな人がいるし、昔の不良とは違うわけで。

 『ヤンキー経済』の趣旨はファスト風土のマーケティング論だ。70~90年代のツッパリやヤンキーとは似て非なる"ヤンキー的な"文化表象の地方民にスポットライトをあて、彼らの消費傾向を論じている。後半パートには非正規雇用な若者の話が多いが、前半パートに出てくる家庭は、それほど貧しい風ではない。ヤンキー的な文化表象をまとい、地元の仲間意識を大切にしているという意味では『ヤンキー経済』に出てくる地方民はまさにマイルドにヤンキーっぽいが、ここには、たまたまファスト風土に住み、たまたま流通しているヤンキー的表象を拒否せず消費している人がだいたい含まれている。

 要するに、マイルドヤンキーとは、昔から地方に住んでいる普通の人達・わざわざ東京に出るまでもなく十分楽しくやっていける"地元のリア充"が一緒くたになった語彙と考えて差し支え無い。そのなかには、地元インフラ企業に勤めているような人物や、地方公務員として働きつつ、普段着をアベイルやユニクロで買い求める人物も含まれるだろう*2。『ヤンキー経済』のうちに「貧困」を読み取り過ぎるのは、いささかミスリーディングというか、本来の眼目からはずれているようにみえる*3

 同様に、『世界が土曜の夜の夢なら』に書かれている「ヤンキー先生は反知性主義」というくだりも、ヤンキーや不良が対抗文化だった頃に思春期を迎えていた義家弘介さんの反知性主義的・反学校教育的傾向が例示されているのであって、学校教育や戦後民主主義になんら抵抗の無い現代のヤンキー的な人々――それこそ、マイルドヤンキーのような――まで同じだとみなすのは、読み込み過剰だろう。学校教育に鋭く対立した時代のツッパリやヤンキーは、反知性"主義(イズム)"と言えるかもしれない。学校教育的なものを拒否し、経験知だけに頼って生きる人々を反知性主義と表現するのはわかる話だし、名著『ハマータウンの野郎ども』を連想したくなる。だが、学校教育システムを所与の条件とし、そこに乗っかるかたちでリア充たろうとする現代のヤンキーっぽい人々は、それほど反知性的でもなかろうし、ましてや反知性"主義"だとは言えそうにない*4

 げんに、文化表象としてマイルドヤンキーとカテゴライズされるであろう私の知己には、必要なら学問知を積極的に学び運用する人や、経験より理論に頼るべき場面をきちんと区別つける人がたくさんいる。彼らの文化表象や暮らしぶりは、表向き、まさにマイルドヤンキーと呼ぶに相応しい。そして、日常的なコミュニケーションシーンで学問知をひけらかすような粗忽さとも縁が無い。だから、地方のショッピングモールを物見遊山で訪れる人達からみれば、いかにもヤンキー的な人物とうつるかもしれない。だが、必要性を感じさえすれば、彼らとて学問的な知を学ぶことを厭わない。

 敢えてディスアドバンテージを挙げるとしたら、地元の実業高校を卒業しすぐ働くような人達は、学問の体系だった把握まで手が届いていない人が多い、という点だろうか。さすがに有名大学を卒業する人達には及ばない。しかし、そのあたりは教育機会の問題や文化資本の問題を多分に含んでいるわけで、当人の反知性性の証拠とみなすのは勇み足だろう。そして地元大学を出て地元で働いている人のなかにも、学問の体系だった把握を達成している人は現にいる。そもそも、非ヤンキー的な生活をおくっている大都市圏の人達のなかにだって、学問の体系だった把握に至っていない人は仰山いるし、専門職の領域を一歩離れるや、どうにも無根拠で迷信にあふれた生活をおくっている人もたくさんいる*5。教育機会や文化資本の問題を差し引いて考えれば、それほど大きくは違わないのではないか。

 以上のような現状を思うにつけても、マイルドヤンキーという語彙にネガティブな意味合いが不当にくっついてまわる現象には、注意を払っておきたい。ヤンキー的な文化表象がファスト風土に広がっているさまを表現した言葉として、ソフトヤンキー・マイルドヤンキー・ヤンキー的なもの......といった語彙は的を射たところがあると思うけれど、【ヤンキー文化圏由来のコンテンツや服装を身につけている=貧困で反知性主義】のごとき短絡は、避けなければならないと思う――いみじくも、自分達は阿呆ではないと確信している人達こそ、そのような分別を働かせるべきではないか。

 ヤンキー的か、オタク的か、サブカル的か――そういった文化表象のいかんにかかわらず、貧しい人もいれば豊かな人もいるし、知に開かれた人もいればそうでない人もいる。もちろん、平均年収だの平均学歴だのといった統計を取れば、千代田区や港区あたりのタワーマンションに住む人々に軍配があがるに違いない。世間一般で世帯間格差が拡大しつつあるのもわかる。だからといって、ファスト風土に住んでいる市井の人間が、マイルドヤンキーという言葉ごと、やたら憐れまれたり、反知性主義とレッテルづけられたりするのは、なんだか納得がいかない。私は納得がいかないから、そうした誤解には反発したいと思う。

(2014年3月27日「シロクマの屑籠」より転載)