2014年6月、東京・八王子市で、父親(65才)が三男(当時28才)を包丁で刺殺した事件があった(以下、朝日新聞、2014年12月4日付に基づく)。
三男は精神に疾患を抱えていて、高校のときから通院していた。大学卒業後は就職もできた。だが、仕事がうまくいかず、親への暴力をくり返した。5月には、蹴られた母が肋骨を折った。今度は刃物を使うから覚悟しろよ、との言葉も吐いていた。
父は警察にたびたび通報したし、保健所や主治医にも入院の相談を重ねた。主治医は、入院してもよくなるとはいえないが、警察による「措置入院」(行政や警察の判断により、患者本人の意思に関わらず行われる入院)ならばと助言した。父は警察に「措置入院を」と懇願したが、三男は警察官の前では落ち着いており、警察は「措置入院は難しい」と判断した―。
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この記事を食い入るように読んだ。もう20年ほど統合失調症と付き合っている姉を思い、その姉と付き合ってきた母と自分を思い返した。何度か修羅場があった。誰も死なずにここまでやってこられたのは、幸運だっただけである。
三男を手にかけた父親は、あの場合どうすればよかったのか。殺意を宿すことと、それを実行に移すことはまったく別である。父親には心から同情するが、手をかけてしまったことには共感できない。してはならない。
しょせん血のつながりなぞ、心の病をめぐるケースではまったくあてにならないことがある。むしろ、この事件のように、家族にこそ言動の刃が向かいやすいことも多いだろう。この場合は、第三者の前では安定を取り戻しやすくなると考えられる。
患う本人からのちに受ける「憎悪」が恐くとも、また世間から「どうせ自己都合の社会的入院だろ」「彼・彼女が可哀想だ、人権を無視するな」「家族なんだからそんな非情なことはするな」と後ろ指をさされようと、家族としては半ば無理にでも病院に入れなければならない深刻なケースは、ある。
今回の事件を受けて、このことはあらためて肝に銘じておきたい。患う彼・彼女本人を守るためでもあるし、家族が我が身を守るためでもある。強がって乱暴や自暴自棄な態度には出るが、「リングにタオルを放り込んでほしい」と彼・彼女が思っている刹那というものが、ある。
ただ、経験からいって家族には「売った」との罪悪感は残る。イエから彼・彼女が去ったのちの安堵、安眠こそ深いが、やがてすぐ、後ろめたさがまとわりつくようになる。安定を享受しきれるほど鷹揚とした家族は、多くない。
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本当は、入院させるより手前で、家族、精神科医、保健所、ケースワーカー、ソーシャルワーカー、ときに警察などがチームになって、心を患う人びとを支える仕組みが充実しているのが一番いい。また、急性期や悪化したときなどはどうしても入院が必要となるが、その場合もなるべく短期とすべきだろう。
日本は、およそ10年前からそうした方向を目指すようになっている。2004年に政府は、精神医療を入院医療中心から地域生活中心へ移行していくと進路をさだめた。
入院させないように食い止める努力。入院した場合はなるべく早期に社会生活へ復帰できるよう促す努力。こうした方向である。
だが、この方向での精神医療、精神保健福祉の取り組みは遅々としている。日本の人口10万人あたりの精神病床数は269床(2011年)、精神病床の平均在院日数は301日(2010年)で、OECD加盟国中ダントツの数値である。また、全国の精神病床数およそ34万のうち、1年以上5年未満の入院患者は29%、5年以上の入院患者は実に36%(2012年末)(朝日新聞、2014年12月16日、17日付)。
1950年代後半以後、厚生省(厚労省)による精神科特例、つまり精神科医療への優遇措置がきわめて充実していたのが一因である。また、今日まで日本の精神病院のおよそ9割が民間経営で、言葉は悪いが長期入院患者は「金づる」という面も大きかった。
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それでも、精神科医や精神保健福祉分野の専門家たちが、心の病と付き合う人びとを社会に包みこむ努力を怠ってきたわけではない。1970年代頃から英語圏で普及した包括型地域生活支援プログラム(ACT)が、ここ10余年のあいだ日本でも広まりつつあるのはその一例である。
これは、精神医療・保健・福祉の各分野の専門家が地域ごとにタッグを組んで、心の病を抱える人びとを日常的/シームレスに支援するものである。その人の人間性、尊厳、社会での生活力を尊重・回復するのが重要とされる。これと対比されるのは、病院内での精神科医と患者の支配・服従関係である(伊藤順一郎『精神科病院を出て、町へ』)。
また、統合失調症を抱える者の家族として勇気づけられるのは、ACTではいわゆるシステムズ・アプローチも尊重されている点である。つまり、家族や各専門家をはじめ周囲の環境を整えることから、心の病と付き合う人びとが豊かな人生を実現できるよう目指すのである。
「日本では、地域社会に住む精神障害をもった人々の約七割は、家族とともに暮らしています。......地域社会に住む人を支えるということは、家族のつながりの力も借りながら、その人を支えるということです。けれどまた同時に、家族のつながりが、病いや障害のもたらす負の影響からいくらかでも自由になるように、それぞれの家族のメンバーが自分の生活をとりもどしていくことを支援するということでもあります」(伊藤、同上書)。
患者本人の苦しみに比べ、家族の抱えるそれは、これまであまり顧みられることがなかった。八王子の事件を受けた私(たち)としては、家族の「生活の質(QOL)」の快復をも視野に入れたACTのような取り組みに、がぜん注目しないわけにはいかない。「ソト」の人が、家族という「ウチ」なる壁の奥にまでアウトリーチする方向へ。
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電車などで、奇声を発したり、独りでいながら誰かと対話しているかのような人びとと空間・時間をともにしたことはないだろうか。
あのときの、ザワつく心。いくらかの頻度で、そうしたザワザワっとした体験をすることが案外重要なのではないか。スマホや読書に興じるばかりで、まったくそうした存在を視認・認識しないよりかは、何倍も好ましい、人間らしい反応だと私は思う。
病について「よく知らない」ということは恐怖につながるし、嫌悪や忌避につながる。たとえば、心の病と付き合う人びとやその家族と、町内会、婦人会、子ども会、有志などが交流するシーンが少しでも増えたら、どうか。
もちろん、それで地域のすべての人が「温かく」接するようになると期待するのは、どだい無理である。「理解しきれない部分も大いにあるけど、案外恐くはないかも」ほどに思ってくれる市民が増えてくれれば、大収穫だろう。
精神科医療ではSST(社会生活技能訓練)が導入されてもう長いが、人間としての営みのトレーニングの機会を必要とするのは、なにも病を抱える人びとばかりではない。
ザワついた感覚と感触。これを市民が体験するチャンスが増えれば、心の病と付き合ってきた人びとが地域社会で暮らしやすくなることに間接的に寄与するのではないか。逆からいうと、その素地が整わないまま患者を病院から社会に放り出したところで、安寧が待っているとはいえない。
精神科病棟を原則廃止するという、ドラスティックな方向にかじをとってきたイタリア発のTVドラマ「むかしMattoの町があった」が、ここ数年、日本各地で自主上映されている。そうか、ザワっとなチャンスは、画面やスクリーン越しにも案外転がっているものなのかもしれない。