治療構造と中立性について

私が心理臨床にかかわる者として、普段から意識している概念に「治療構造」と「中立性」があります。難しい症例を担当する時には、特にこれが重要です。
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このブログは、直接には相模原の事件に触発されて書こうと思いました。しかし、それ以外の社会の出来事について感じたことも、含めて書いています。

私が心理臨床にかかわる者として、普段から意識している概念に「治療構造」と「中立性」があります。難しい症例を担当する時には、特にこれが重要です。どちらも抽象的な概念ですが、これをしっかりと意識しておかないと、難しい臨床場面では相当な確率で泥沼にはまって迷子になってしまいます。

情緒面の混乱が強い難治例を担当する時に、かかわる治療者が一人だと本当に難しいと感じます。少なくとも、「ずっと本人に寄り添う人」と「ダメな時にダメ出しする人」の二人が必要だと思います。

精神的に弱っている人は、参加できる対人関係の場が少なく、深い人間同士の経験を持てる場が治療の場だけになっていることがあります。その場合に、治療における人間関係で経験することから学ぶしかない状況となります。その人間関係が治療的な影響を発揮するためには、主治医と患者の間に信頼関係が必要で「本人にずっと寄り添う人」であることが必要なのです。そして、多くの場合で、その1対1の関係性のなかで起きる出来事を通じて、大きな社会的な逸脱が起きることなく、対象となった患者に変化が起きていきます。

しかし、本人が社会的な事件・事故につながるような行動を起こしてしまった/起こしそうな場合には、やはりその行動を制御する必要がある訳です。そうすると「ダメ出し」を誰かが行わねばなりません。

しかし、心の中が混乱して弱っている人の場合に、本当に信頼している人からの「ダメ出し」には耐えられず、そのことで治療的な信頼関係が失われるかもしれません。そのような時に、患者本人との治療関係に二人以上の治療者が参入し、一人が本人を情緒的に支える役、もう一人が本人に現実的な限界がどこにあるのかを示す役を引き受けるようにすることが有効な場合があります。

どんなに優秀な治療者でも、情緒を支える役と、現実的な制限を課す役の両者を同時に担ってしまうと、その機能が大幅に制限されます。端的に言うと、患者にとっては、どんなに支えられても、「自分のことを叱った嫌な人のことは聞きたくない」という反応が出やすくなります。

そうすると、閉じた二者関係の中では、一貫した態度を保つことは難しくなり、その場の状況に応じて原理原則を欠いたまま、ある時は甘やかし、ある時は厳しいことを言うというように、治療関係自体が無構造のズルズルベッタリとしたものになりやすい。

患者にとって、その治療者が自分の幼児的な情緒を向けてもよい甘えられる相手なのか、権威を認めて従うべき相手なのか、分からなくなってくるのです。これは、難しい子育てを孤立無援のまま一人で抱え込んでいる母親と似た状況です。これが何年も続くことがありますが、この場合にお互いにしんどい思いをしている割には、なかなか効果が上がりにくい。そうすると治療者の方も弱ってくることも多く、治療者をケアする視点が必要になるかもしれません。

いったん治療契約を終結させて、「手放す」「他を紹介する」という判断が行われる場合もありますが、その場合に真意が理解されないことがあり、「見放された」と患者や周囲に受け止められてしまうことがあります。直接的で濃厚な接触を続けることを高く評価する人は少なくはなく、抽象的な「中立性」や「治療構造」を守ることの重要性、そしてそれが崩れて物事がズルズルベッタリとしてしまうことの危険性を納得してもらえない場合もあり、対応に苦慮することもあります。

患者の状況の応じた「治療構造」を設定することは本当に重要です。良い構造を設定できれば、半分以上は治ったようなものです。逆に、治療構造が悪いと、お互いにしんどいばかりで全然良くならないということも生じます。「治療構造」を考える場合には、「入院」か「外来」か「施設入所」か、といった具体的な場所の設定から始めます。それから、どんな立場の治療者を集めて治療チームを構成するのか、ということを考えるのです。

医師の他に、看護師や臨床心理士・ソーシャルワーカー・作業療法士等の精神医療関係者の他に、外部の行政、福祉・教育の専門家や事業所などの公共のサービスを提供してくれる人たち、内科等の他の医療機関、そして一番重要な患者本人、それから家族・地域・職場・学校などからの関わってくれそうな人、そのような全体を見渡して、その時々の治療にかかわってくれる人を巻き込んで行きます。その時に、役割分担が明確で、きっちりとした治療構造を構築できた場合の方が、治療が有効になります。

ところで、こういうことに費やす労力はほとんどすべて関係者のボランティア的な献身によるものです。そういう事情もあり、理想的な形でこのような調整が行われないことも、残念ながら珍しいことではない現状があります。

責任を持って犯罪などの危険性が高い症例を担当する場合には、警察などに社会的な抑止力の役割を担っていただかないと治療が成り立たない場合があります。その場合に、どうしても理解していただきたいのは、心理臨床家は「中立性」を守らねばならない、という職業倫理があることなのです。つまり、他の何らかの存在が、患者を管理することに無条件で協力することはできないのです。

患者の中の非合理な情緒や願望にも一定の理解を示しつつ、場合によってはそれを受容・共感し、それでも現実的な制限を加えるという構えが、治療を成り立たせるためには必要です。そうでなければ、患者との間に信頼関係は成り立ちません。

つまり、患者の中に反社会的な要素を見出したとしても、それを警察などに伝えるか否かの判断は、精神科医などの心理臨床家に委ねられている出来事なのです。社会防衛上の配慮も必要なことは社会の一員としてもちろん理解していますが、専門職としての精神科医が社会防衛上の立場を最優先しないことも、私たちの職業倫理には含まれています。それは、私たちの職業の一番の目的が、行政機関等からは独立した立場から、患者さんの健康と幸福の向上を実現していくことだからです。

残念ながら、「中立性」というものへの理解が日本社会では大変貧弱だと思います。医療の他にも、「中立性」が重要な仕事としては司法やジャーナリズムが挙げられると思います。しかし、こういった職業についている人々の業績を、「中立性」を保っているかどうかで評価する習慣は乏しい印象です。

他のブログで取り上げたことがあるのですが、日本では国策上の最重要案件について、最高裁判所の長官が中立性を維持していなかった事実が、アメリカ側からの資料の開示によって明らかにされました。

「共同体についての意識の混乱と分裂」

私にとっては、これは大変なスキャンダルで、徹底して追求するべき問題だと思いますが、実際はそうなっていません。それは当然で、中立性などの基本的な法をめぐる概念についての国民の理解が乏しいからです。私は、そのような国民全体と社会の状況がある中で、憲法等の問題についてのまともな議論が展開されることは、期待しにくいと感じています。

これは、今回私が「中立性」といった問題を取り上げて話題としようと思った根拠の一つです。「ズルズルベッタリ」は、政治学者の藤田省三が日本社会の性質を形容するために使った言葉ですが、本質をとらえていると思います。

閑話休題

残念な話が続きます。現在の日本の精神医学界では、アメリカ式の実証主義が皮相的に取り入れられて、精神医学における現在のほとんど唯一の参照枠となっています。ある施設の患者の「平均在院日数」とか、「抑うつが何点」と症状を点数に評価するような方式で示される数字を、統計的に扱うことだけが評価に値する対象であるとみなす学問的な風潮が、現在の主流です(そうすると、良い数字をつくるためには、面倒な症例にはそもそもかかわらないのがよいのだ、という極論が生じる危険性すらあります)。

この風潮はこの20年ほどで急速に進展したので、私(平成9年卒です)よりも若い精神科の医師の場合、今回説明させていただいた「中立性」や「治療構造」といった概念に興味が乏しかったり、そもそも教わっていなかったりしている可能性があります。もっとも、現状でも危機感を抱いてきちんとした教育を行っている機関の方が、多数ではあります。

もう一つ、精神科の医者が考えている内容と世間からの期待がずれやすい領域があります。精神科医は、患者の言動について「病気の症状」か「性格や環境の問題」か、分けて考える習慣があります。この場合の「病気」は狭い意味で、脳などの身体のコンディションに第一義的な原因を求めることができるものです。

現在でも病変は特定されていませんが、統合失調症やⅠ型の双極性障害もそうだと考えます(うつ病の扱いが微妙で、そのことが世間にずいぶんと混乱をもたらしていますが、それは別の話なので今回は控えます)。

そして、精神科医は「病気」にかかわる問題は自分の責任でしっかりと対応することを当然だと思っていますが、「性格や環境の問題」については、必ずしもそうは思っていません。それは、単に無責任なだけなのではなく、そのような種類の問題に積極的に介入することの倫理的な妥当性が乏しいと考えているからです。

性格や環境の問題の場合には、本人が治療について積極的なモチベーションを示した場合に、治療契約を結んで治療を行うものだと考えていて、もし患者さんが途中でその契約を破棄したくなったら、それを無理に留めることができないものだと考えています。「性格や環境の問題」について、治療を強制する論理は、精神医学の中に内在していません。

しかし、この部分については世間の期待とのギャップが大きく、世間は「性格や環境の問題」でも、精神科医が関わった場合には、責任を持って管理してくれるものだと思っています。この部分は、制度の狭間になりやすく、トラブルが生じやすいところなので、今後は改善のために議論していく余地が多いにあると考えています。

「中立性」と「治療構造」の概念を紹介しながら、現状の日本の精神医療について私が感じていることをお伝えさせていただきました。ワクワクするような物語は皆無ですが、現場で起きていることの背景にある、抽象的な概念を把握して物事を分別することの大切さについても多くの人に知っていただきたいという意図で、この文章を書きました。長文にお付き合いいただき、感謝いたします。