最近思うところがあって、現場で数十人の日本人や現地人の医療スタッフたちを前に、こう言った。
「私たちよりお金を持っている人間なんて腐るほどいる。その人間たちが優秀な医療者たちを雇い医療を展開したとき、果たして自分たちの今やっている医療は本当に意義を保っていられるだろうか?」
「どうすれば、お金では買えない医療が出来るのだろう?」
「いい技術やいい器具、いい資材はお金で買える。優しい言葉や清潔さもお金をかければ買えるだろう。」
「私はお金で買えない価値を持った医療をやりたい。その医療はあなた方のこころの中にある。」
「こころからの同情ややさしさ、患者の人生に寄り添う医療、家族の苦しみを理解しようとするマインド」
などなど。
それがチームで成し遂げられたときに、私たちの行う医療はその存在価値を持つのだと思う。
世の中には、お金の力で私たちよりも多くの人を救える人は確かにいるだろう。
私は今までやってきてある真実に気づいたのだ。
それは医療というのは、患者の人生とそれを行う医療者自身の人生を救う行為だということだ。
医療者たちは自己のたった一度しかない人生の大切な40年という時間を、医療という仕事に捧げる。この間に、たくさんの患者たちが彼らの元を訪れ、患者も医療者も自らの人生を救うために必死に生きる。
自らのためにだ。
医療者たちは、その患者たちのために人生の一部を使い、必死に働く。この時間が濃ければ濃いほどに自分の人生の密度、すなわち価値も上がっている。
その時間を中途半端に、それこそお金のためだけに、たとえそれはどれほど技術的な事柄が充実していても、密度はそんなに上がらない。
通常、医療というのは人を相手にする行為であり、肉体の接触だけでは、半分しか密度ある時間を刻めない。
そう、こころとこころが摩擦していく中で、密度も上がりそれが可能になる。
そして人生の後半は、このこころとこころの摩擦こそが人生の密度を刻む大半を占めるようになっていく。
たくさんのお金を持っていれば確かに患者たちのいのちは救えるだろう。しかし果たして医療者の人生はどれほど救えるのだろうか?
人のいのちを単に数量だけでみて、多いほうがすばらしいと割り切ってしまうのは一面的な考え方のような気がする。患者のいのちや人生しかみない医療は、片手落ちである。自らの人生を消耗してしまうような医療では、こころある医療者たちは疲れてしまい、それは患者自身の治療にも影響するだろう。
すべての患者が治療で救われるわけではない。多くの人が治療の甲斐なく死んでいくのだ。
そんな人たちに疲れきった医療者が果たして何を与えることが出来るだろう?
私はいつもスタッフに言っていることがある。
「まず、あなた方が最も救わなければならない人生とは患者たちの人生ではない。
それは、あなた自身の人生なのだ。
あなたにとって最も大切なのは数万人、数百万人の患者たちの人生ではない。
たった一つの"究極の一"。
あなた自身の人生なのだ。
自らの人生を救うために優しい言葉を患者にかけよう。
それは、あなた自身にかけている言葉でもある。
患者のつらい人生に最大限の同情を示そう。
それはつらいあなた自身の人生に示している同情なのだ。
家族の悲しみに、患者たちの家族を思う気持ちを理解しよう。
それは、あなた自身の家族を理解する行為でもあるのだ。
自らの人生を大切にしたければ他人の人生を大切にしよう。
自らの人生を他人に理解してほしければ、まずあなたが他人に理解を示すのが大切なのだ。
私はこのことを深く理解し実行する医療者の集団をつくりたい。
なぜ医者になったのか?
なぜ看護師になったのか?
それは自らの人生をかけてでも手に入れたかったものを手にするためではなかったのか?
医者や看護師など、そのための単なる手段でしかなかったはずだ。
あなたが手に入れたかったものは何だったのか?
あなたの人生で最も大切にしているものは何なのか?
それがお金ならばお金で動かされればいい。
それで"究極の一"が救われるのならば、たった一度の人生そうすればいい。」
私はとうの昔、そのリターンのほとんどない賭けから降りたのだ。