先月入籍して、戸籍上の名字が「鈴木」ではなくなった。
かといって、私は今月に入っても「鈴木」と名乗っているし、これからも自己紹介では「鈴木」と名乗る。
「結婚しました」と報告すると、
二言目に誰かが言う「料理できるの?頑張って練習しなきゃねえ」
三言目に誰かが言う「子どもは早い方がいいよ~。」
皆さまからの善意のアドバイスに、社会人として笑顔で応える。
「やばい~料理なんて目玉焼きしかできないです~!練習しなきゃですね~」と焦ってみせる。
「ですよね~、年取ってから産むと仕事で大事な時期に産休とかなっちゃいますもんね~」と悩んでみせる。
そういうときの私は、言いたいことを喉の奥で噛み殺して、歯を食いしばって笑っている。
結婚したら女が料理を作って毎日家にご飯をそろえて待っていなければならない、と、誰が決めたのだろう。
子どもは女性全員が産むことができて、女性全員が産みたいものだと、何かのアンケートで判明しただろうか。
私はパートナーの男性から求婚されたときに、「あなたの帰りが遅いときに、一人でお家で料理を作って貞淑に待っている、ということは絶対にできない」と話した。彼は「家にいてくれればいいし、いなくてもいい。生きていることがわかればいい。我が家は仕事優先にする」と答えた。
「子どもは欲しくない。時間とお金はまず自分に使いたい。ゆくゆく欲しいと思う時も訪れるのかもしれないけれど、その時のことを今は考えていない。」とも話した。彼は子どもが欲しいと言っていたけれど、「だから別れるという話ではない」と言ってくれた。そもそも彼も私も、そもそも子供ができる体なのかどうか調べていないのでわからない。
もちろん、だからと言って「専業主婦になって、仕事で疲れて帰ってきた夫をおいしい料理でねぎらってあげたい」という女性の夢を否定するつもりも毛頭ない。そこに「この人が好きで、役に立ちたい」とか「誰かを喜ばせてあげたい」とか「家事のプロになりたい」とか、明確な意思があるなら、素晴らしい夢だと思う。
子どもを持って、一人の人間を育てて、あたたかい家庭を築いている大人たちのことは心から尊敬するし、家族は素敵なものだなと思う事も沢山ある。
単に、それらが「私の夢」ではないだけで。
えー、でも、やっぱり料理できて笑顔で振る舞ってあげられる女性って、素敵じゃん。
えー、奥さんには甘えたいなあ。
えー、子どもは可愛いし、いたほうがいいよ。誰かのために生きる幸せがわかるよ。
えー、お金と時間を自分に使いたいって、そんな考え方するなら子ども作らない方がいいな。
この世界には、「あなた」がいて、「私」がいる。
あなたの常識は、もちろん私の常識ではないし、世間の常識でもない。一般的な話として語らないでほしい。「私は」で、語ってほしい。
私は、そもそも今のパートナーと「結婚したい」と思ったことはなかったし、それは彼にも伝えた。「ずっと一緒にいたい」とは思うけれど、それは、区役所に紙を一枚提出することで約束されるものではない。けれど、ずっと一緒にいたくて、その形が何でもいいなら。友人や家族がが喜んでくれるなら、「結婚」という形を取ろう、という話をした。
区役所に紙を一枚提出した時に、彼や私が、仮面ライダーやセーラームーンのように、一瞬にして「夫」「妻」に変身するわけではない。彼はずっと彼で、私はずっと私。
あなたが、料理できる女性が、甘えさせてくれる女性が素敵だと思うなら、その素敵な女性を探して勝手に結婚してほしい。
あなたが、子どもを通して誰かのために生きる幸せを味わいたいなら、自由に味わっていてほしい。
あなたが、「そんな考え方するなら子ども作らない方がいい」と言おうが言うまいが、皆が子どもを作れるかどうかも、作りたいかどうかも、変わらない。
ただ一つ言えるのは、こうした"アドバイス"をくれる方たちは、完全なる善意をもって発言してくれている。きっと彼らは、女性はこういう方が素敵だと思うから、そうなったほうがいいよとアドバイスしてくれている。子どもは遅いと苦労するから、早い方がいいよと言ってくれている。
その善意には感謝するけれど、小さじ一杯分だけでいいから、わずかの想像力を持ってほしい。
ここにいるのは名前のない二体ののっぺらぼうではない。
あなた独自の意見を持ったあなたと、私独自の意見と体を持った私だけである。
あなたが「アドバイス」する相手は、(みんなが言う)"ふつう"そうであるように、異性を愛せないかもしれない。"ふつう"そうであるように、子どもが産めない体かもしれない。 "ふつう"そうであるような意見とは、違う考えを持っているかもしれない。
あなた基準の善意が、もしかすると、誰かを傷つけているかもしれない。私基準の善意が、もしかすると、あなたを傷つけるかもしれない。
世の中は私たちが思っているよりずっと広くて、奥行きがあって、精細なものだから、
毎日毎秒、そう思って生きたい。