日本とオーストリアの国交150周年記念事業のひとつとしてウィーンで開催された展覧会「Japan Unlimited」。9月24日からはじまった同展だが、10月末になって日本大使館が「公認取り消し」したことで大きなニュースになった。
総理大臣をモチーフにした会田誠さんの通称“首相ビデオ”や、福島第一原発事故をテーマにしたChim↑Pomの「堪え難き気合い百連発」に対してTwitterで「反日的だ」などの批判が相次いだことに端を発しての決定とみられる。
文化庁が交付する予定だった補助金を全額不交付と決めた「あいちトリエンナーレ」に続いて、権力の“後出しジャンケン”ともいえるような状況が続いている。
日本の現代アートに今、何が起きているのか?
渦中のアーティストとなった会田誠さんに会いに行った。
*少女をモチーフにした作品などを含む、これまでの会田作品に通底する「現代アート観」、自身の両親や「日本」という国に対する思いは後編として掲載します。
今回の騒動で”炎上”したのは、2014年に制作された、自身が総理大臣に扮して演説を行う映像作品《The video of a man calling himself Japan’s Prime Minister making a speech at an international assembly》、通称「首相ビデオ」。SNSで「反日的」「首相を侮辱している」などの批判が寄せられた。会田さんは「ジレンマや重層性に主眼がある、独立した作品であることは明らか」などとして、Twitterでバッシングに応戦。作品のセリフの全文書き起こしも公開した。
「極端な切り取りには訂正が必要だと思った」
ーー自らの言葉で発信しようと思ったのはなぜですか?
どこから引っ張ってきたのか、作品を見た人がメモでもしたのかよく分かりませんが、「首相ビデオ」の長いセリフの中から、アジアの国々に謝るところだけを切り取った画像とともに「反日野郎だ」と言われ始めたんですよね。「あれは、安倍首相のものまねであり、侮辱している」と決めつけられました。
ちょっとややこしいんですが、そもそもの大前提として、成熟した民主主義国家であれば、パブリックな存在である政治家や総理大臣のことを、エンターテインメントであれ美術であれ、批判的にモチーフとして使ったりするのは自由なはずです。だからもしこれが安倍首相批判をテーマにしたビデオだったとしても問題はない。
とはいえ、事実としてそれは間違いなので、違うものは違うとはっきりさせておきたい。
僕の作品が嫌いなのは別にいいんですけどね。事実と違う、あるいはあまりに極端な切り取りは、訂正しなきゃと思いました。
赤ペンのカタカナは「首相より僕が先」
ーーそもそも「首相ビデオ」はどういった経緯で作られた作品なのか、改めて教えてください。
ペロタンギャラリーというフランスの国際的なギャラリーの香港支店から、フランス人女性アーティストと二人展をという話をもらい、その展覧会用に作ったのがこの作品です。
香港といえば、アジアだけれども英語が公用語という特徴があるので、英語ネタを膨らませていこうかなと思ったあたりから始まりました。
そもそも、僕は全く英語ができなくて、自分の英語コンプレックスに関する作品シリーズがあるくらいなんです。(自分の英語コンプレックスに加えて)そこに、日本の歴代首相もだいたい英語のスピーチがうまくないので、その辺りをモチーフとしていった感じです。
ーーそれにしても似ていますね。安倍首相に似せようとはしていないということですか?
何もしていません。原稿を読むのに必要な黒縁メガネを用意したくらいです。
カンペの英語に赤ペンでカタカナのふりがなを書き込んだのも、そうしないと読めないから。「安倍首相が国連で演説した時に、赤ペンで書き込まれたメモを読んでいたのをパロディにしてバカにしている」などと言われましたが、あれをやったのは、安倍首相より僕の方が明らかに先です。
繰り返しになりますけど、アートを使って権力を批判してもいい。いいんだけど、僕は美術作品で現在の首相をバカにするというのはあまり興味がないですね。
リベラルなの、保守なの?
会田さんが公開した「首相ビデオ」のセリフ全文を読むと、その演説が訴える内容は「反日」どころか、むしろ過剰な「愛国」だ。グローバル化の脅威を感じ「鎖国」を呼びかける内容は、保守や右翼と親和性が高いようにも思える。
ーーところで、会田さんはリベラルなのか保守なのかわからなくなります。一体どっちなんでしょうか。
日によって、局面によってもいろいろ違うんですけどね。僕は…、どう言いましょうか…。この質問、一回パスしていいですか。
ーーはい。今回「反日」との批判にかなり反論していましたが、これまでリベラルから批判されてきた作品も多いので聞きました。
この作品が「反日だ」という批判が出始めた頃、Twitterに「ネトウヨは俺にとって出来の悪い後輩だから」というようなことを書いたんです。挑発的な書き方でもあったから、ちゃんと伝わっていないかもしれないけど、実際、僕は高校から大学の半ばぐらいまで、ベタに三島由紀夫にハマり、小林秀雄に深くハマっていきました。特に小林に傾倒していたので右翼というより保守だ、と自覚していましたね。
美大(東京芸術大学)の飲み会でも、一人で「俺は保守主義だ」といって周りに絡んで、友だちを失ったという青春時代がありました。
首相ビデオで主人公が話している「ヨーロッパ近代の帝国主義は悪だったが、今それがグローバリズムという名前の悪に変わっている」というようなことは、割と本気で思っているところでもあるんですよ。
今でも自分のベースには保守的な部分があって、それが作品の端々にも出ていると思います。
ーー 一方で、リベラルな“会田誠”もいるように見えます。
こうした(自分の中の)保守とリベラルのジレンマみたいなものは、30年以上前から今もずっと続いていて、むしろますます深くなっています。
あの頃は一美大生だったけれど、今は現代美術家で、活動の中心は日本とはいえ、グローバルな活動を平然としなければならない立場になった。自己矛盾みたいなものは、実はずっとあるんですよね。
こういうウジウジした複雑さを30年間持ち続けている男からすると、新参者のネトウヨなんて小僧にしか見えないわけで、「出来の悪い後輩」というのは心の底からの思い。なんなら「かわいい後輩」というニュアンスすら帯びているんです。
アートは「対話」を促すのか?
ーーそういう「後輩」たちからの批判に対して、ネット上で応答してきたわけですが、「対話」の手応えはありましたか?
ネトウヨと意思が通じたかというと…。Twitterのプロフィールに「縁なき衆生は度し難し」(「人の忠告を聞こうとしない者は救いようがない」の意)と書いてしまいましたが、結局はそういう始末です。
彼らは僕のことをネガティブに話題にはするけど、こちらが何か書いても、そもそも読まない。コミュニケーションが成立しないんですよね。
お互い様なんでしょうが、人間というのは、固定してしまったモノの考え方や枠組みを変えるのは難しい。言葉を尽くせば、分かってくれる人もいるとは思いますが、無理なところは無理ですよね。これは右翼左翼だけじゃなく、あらゆる局面でそうじゃないでしょうか。
ーーアートを通して「わかり合う」みたいなことは、難しいんでしょうか?
ネット時代においては、現代アート文化の「外側」にいる人たちも、受動的に作品に触れてしまう機会が溢れていますよね。そこには今言ったような、他人が何を言っても考えを変えない人たちもいるんだと思います。
ただ、こういう誤解が生じるのを避けられない状態を、僕は他のアーティストに比べると楽しんでいる気がします。
人間とか社会というのはクソミソ一緒というか、クソとミソのミックスだと思っている。玉石でもいいんですけど、玉だけとか、石だけというのは、全体ではないでしょう? 僕は“全体”が好きなんですよね。
僕だって立派な聖人では到底ないし、かといって極悪人とかでもないですしね。両方ある。
種類が増えてくるからいざこざが起こるわけで、あらゆることが1種類になればシンプルなんでしょうけど、それはミックスの宿命だということで。
僕はやっぱり異なるものがランダムに隣り合ったりしているのが好きだから。炎上してもどこかで、楽しんじゃっている部分もあるんだろうな。
*通称“首相ビデオ”の書き起こし全文はこちら。