人工知能(AI)が発展すると多くの仕事が消失すると予想されている。 そんな時代を前に、大人は若者にどんな教育を提供すべきなのだろうか。
マークシート式のテストを繰り返して、効率や生産性を上げる鍛錬ばかりしてきた大人たちにとって「ヒントとなってくれるような1冊がありますよ」と語るのは、“本好き”として知られるホストクラブ経営者の手塚マキさんだ。
手塚さんが取り出したのは、山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』。
「白黒はっきりしている正解なんて、本当はないんだということを思い出させてくれた」と、山田詠美ワールドの魅力を語った。
ものごとを解決しようとしない高校生
「ぼくは勉強ができない」の主人公・秀美は、「勉強ができない」ことを堂々と公言する高校生。
バーで働いている、年上の女性・桃子さんと付き合っていて、恋愛やセックスに熱をあげている毎日です。
父親がいない秀美は、祖父と母と3人で暮らしています。家庭では恋愛や学校生活の話もあけっぴろげ。家族の誰もが、秀美を「子供扱い」せず、小さい頃から「いち個人」として接しています。
秀美の周りには、いろんなタイプの人間がいます。
ガリ勉の学級委員長、派手な行動で目立っている幼なじみ、政治家になりたいと言い出すクラスメート、まつ毛の先まで神経を尖らせて他人に好かれる努力をつづける美人同級生…。
教師もさまざま。社会のルールを厳しく教えようとする先生もいれば、熱血指導や説教をせず、生徒と一緒に学校帰りにラーメンを食べて、同じ目の高さで交流する先生も登場します。
パンを集める少女
こんな風に、あらゆるタイプの人間がいる社会では、ハプニングがつきものです。
でも秀美は、いざこざを解決しようと乗り出すことはありません。否定も肯定もすることなく、ただ向きあうんです。
小学校5年生の頃の秀美の、象徴的なエピソードがあります。当時、転校したばかりで、友達がいなかった秀美。ある女子児童が算数の時間に、分度器を教師からそっと渡される場面を目撃します。
その子は給食の後いつも「クラスメートから大量のパンを募っている子でした。
「うちにやって来る鳥にあげるため」というのが理由でしたが、実は違っていたんだと秀美は気づきます。
パンは家族のための大切な食料だった。彼女は分度器を買えないくらい貧しい暮らしをしていたのです。
後日、秀美は彼女の家までついていきます。明確な理由はなく、ただ気になってしまったから。 彼女の貧しい暮らしを解決できるはずもない。自分の目で見て「彼女にどう接するべきなのだろうか」と自問するだけ。そして答えを導きだすでもなく、何となくその出来事は過ぎていきます。
作者の山田詠美さんは、「あとがき」の中で以下のようにつづっています。
「私はこの本で、決して進歩しない、そして、進歩しなくても良い領域を書きたかったのだと思う。大人になるとは、進歩することよりも、むしろ進歩させるべきでない領域を知ることだ」
必ずしも「解決」や「進歩」を求めないで、受け入れていく秀美には、大人こそ学ぶ部分がある気がしました。
100%正しい人も、100%間違っている人もいない。
物語の中でずっと、意地悪な存在として描かれる奥村先生という人がいます。秀美が小学校5年の時の担任です。
クラスの空気を読まず、気ままに振る舞う秀美に手を焼き、何とかコントロールしようと必死になっています。
秀美の目からは「自分を制圧しようとする理不尽な大人」にしか見えない奥村先生。でも、彼には彼の、教育にかける思いがあります。
奥村先生だってそりゃ、秀美のような「自分の個性を生かせる人間」ばかりを社会に送り出すことができたら、“教師の鏡”みたいな、かっこいい先生になれたかもしれません。でも、学校を卒業してみんなが飛び出す現実の社会は、秀美みたいな子をたくさん受け入れる態勢になっていません。
「出る杭」は、やっぱり生きにくい。
だから学校で社会通念を叩き込むんですね。ちゃんと勉強していい成績をとって評価されたり、集団生活の中でルールを守ったりすることが、社会に出たあと、理不尽な階級社会を生き抜く上で役に立つから。
残念ですが、社会は数年では変わらない。だったら社会そのものを変えようとするのではなく、個々人がこの社会をサバイブしていけるように鍛えるのが学校の役目かもしれない、と奥村先生は信じ込んでいるのかも。
たった3年しか接することができない若者に、何を教えるべきか、についてはそれぞれの正義があるんだと僕は思います。
ある時、奥村先生を飲みに連れ出した秀美の母・仁子は「あんた(秀美)が言う程、やな奴じゃないわよ。あの人は、単に、学校以外の世界を知らないだけ」と先生を擁護します。
こうして色んな価値観の大人に育てられる秀美は、本当に幸せですね。
社会には「遊びに行く」
実は僕も、部下のホストに対して奥村先生のような態度をとる時があります。
「敬語をきちんと喋ろう」「TPOに応じた格好をしよう」などと口うるさく指導する。
心の中では、正直そんなのどうでもいいと思ってるんです。
でも、ただでさえ「水商売だから」と下に見られてしまう存在なので、世間の常識に敢えて合わせる態度も、時には必要だと心を鬼にするんです。
ここで大事なのは「敢えて」合わせるということ。
僕は、思うんです。社会の中で生きるってことを、もっと遊びにいくみたいに考えた方がいいんじゃないかと。
まるで旅行にきた観光客のような気持ちで過ごしていれば、変なしきたりも、厄介なヒエラルキーも、おままごとみたいに見えてきます。
敬語を使うのも「プレイ」。始末書書くのも「プレイ」。スーツを着て会議に参加するのも「プレイ」。
不思議なことに、プレイとしてこなしていると、それまで理不尽だと決めつけていたものが、意外と確からしい根拠のあるルールだったり、ゆるがない構造になっていたりすることに気づく時があります。
ムキになってないからこそ、色んな人の思いが見えてくる。
例えば、友だちの結婚式を想像してみてください。
すっごく楽しくて幸せが溢れてて楽しいけれど、新郎新婦の上司や友人のスピーチ、ご家族の振る舞いにヒヤヒヤすることってありませんか?
「野球チームが作れるくらい子どもを作ってください」とか、「内助の功」とか…(笑)
でも別に立ち上がって怒ったり憤ったりしないですよね。結婚式は祝福するために「遊びにいく」感覚で参加しているからだと思います。
理不尽な社会を「クソだな!」と恨むのは簡単だけれども、社会に遊びに来てるんだ、くらいの気持ちで諦められたら、この世界はもっと優しい場所になるのではないか。
奥村先生みたいな人は世の中にたくさんいます。変なルールや押しつけもある。でも、そういう世界に遊びに来た、と思えば気が楽になるし、秀美の母のように奥村の「意外な良いところ」に気づく余裕だって生まれるかもしれません。
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本記事は、手塚マキさんの新刊『裏・読書』の7章「ムキになって成長を目指す前に、ありのままに身を委ねる『大人観』」を再編集したものです。
手塚マキさんが名著を独自の見方で読み解いた新刊『裏・読書』が4月20日から全国の書店、ネット書店で販売されます。