「拒食症は21世紀の病気」 リプニツカヤ選手が語った引退の真相とは?

メディア嫌いで有名なだけに、「最初で最後の」ロングインタビューかもしれない
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ソチ五輪で金メダルに輝いたリプニツカヤ選手=2014年2月
David Gray / Reuters

ソチ五輪のフィギュアスケートの団体戦で金メダルに輝いたロシアのユリア・リプニツカヤ選手(19歳)が引退を表明した。競技生活への早すぎるピリオドは、拒食症が原因だった。

ロシアフィギュアスケート連盟は9月12日、公式サイトでリプニツカヤさんのインタビューを掲載。長い沈黙を破って彼女が語ったのは、引退を決断するまでの葛藤とメディア批判だった。インタビューの詳細を紹介する。

◾️引退の決断

―ユリア、あなたがスポーツのキャリアを終える決心をしたと言われていますが、真相はどうなのでしょうか。

今回は100パーセント、(引退の)決心は固いです。1カ月とか2カ月とか、3カ月どころではないの。もっとじっくり考えて出した結論。引退した方がいいのか、悪いのか、すべてを考えました。冬の間、治療のために病院にいました。信じて欲しいのですが、あらゆることを考えるだけの時間があったのです。

スポーツのキャリアを終えるという決断にいたったのは非現実的な難しさでした。これからどうしようかと考え込んで、本当に眠れたり、眠れなかったり。とりあえず入院して、治療に向けて精神科医らと一緒に取り組み、彼らの助けによって、例えば健康など、人生における優先事項について見つめ直すことができました。

多くの問題について真剣に考えざるを得ませんでした。なぜなら、当初はフィギュアスケートの世界に復帰できると、私自身、信じていたからです。私だけでなく、母やトレーナー、その他みんなもそう信じていました...。

治療を受けていた病院はイスラエルにありました。通院を始めてから1週間後、週末のある日、携帯電話を盗まれたんです。外部とのあらゆる連絡が絶たれました。全くの偶然ですが、その結果、ネットなどに私のことが出なくなりました。今思えば、それは必要だったのだと思います。人生に起きていることを本当に考えるために。とても重要なことでした。

確かに私は携帯電話を買うこともできた。でも私は、あるがままを受け入れた。それが必要だから。私は英語ですらない、別の言葉が使われている外国で、外部との通信も断絶した環境にいたということです。

覚えていたのは母の電話番号だけでした。その後、安い携帯電話を買いましたが、それは単に母や親類と話すためだけでした。だから、私は何かをやることよりも、ただ自分の健康と、退院後に何をやるかについてだけ考えていたのです。

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ソチ五輪に出場したリプニツカヤ選手=2014年2月
Brian Snyder / Reuters

―とりわけ怖かったことは何ですか。

先行きが不透明だったことですね。これからのことを考えるのが一番怖かった。退院して、そしたらどうなる?ということです。とりわけ、引退という方向性が、99.9パーセント固まり始めてきたことが恐ろしかった。そして、引退後はどうなるのかということがまったくの白紙だったことで、私はパニックになりました。それは悪夢でした。

帰宅から1週間、私はじっと考え続けました。引退後、どうやって、何を始めるのか、と。先が見通せないということは本当に恐ろしいことです。

母に話したら、すぐにわかってくれました。新しい人生について、私たちは一緒に決めました。まずスケート連盟に行って、現状をすべて説明し、なぜこうなったのか、なぜ私はそうしたのかをすべて説明することが必要でした。

そして、引退表明は9月まで待とうと、連盟幹部と約束しました。ファンの皆さんには感謝したいです。理解してくれ、待ち続けてくれたファンだけでなく、すべての人に。

―あなたはトップレベルのスポーツ選手です。連盟としても手放したくないでしょうから、連盟幹部からもう一度考え直して欲しいとか慰留はありましたか。

もちろんありました。決断は思いつきではないかとか、感情的なものではないかとか、4月に聞かれました。でも、どれほど考えようが、感情的に決めるなんてあり得ません。私は時間を与えられたのですが、すでに決心は固かったです。

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ソチ五輪で演技を披露するリプニツカヤ選手=2014年2月
Lucy Nicholson / Reuters

◾️拒食症の恐ろしさを語る「なぜもっと早く言えなかったのか」

―競技人生は全うできたと思いますか。

もちろん、全うできませんでした。フィギュアスケートのシングルでもっとやりたかったし、完璧を求めたかった。でも、なるようにしかならなかったんです。実際、ソチ五輪の後は、アイスダンスを試そうともしました。その希望は何年か抱き続けてきましたが、実現することなく、アイデアはすぐにつぶれました。

―実現を阻んだのは何だったのですか。

99パーセントは健康上の問題です。あとはその問題にかかりっきりになっていたことですね。私の診断がはっきりした後、なぜそうなったのか、聞かれたり、書かれたりするようになりました。仮に自分が言わなかったとしても、情報はいずれにしろ広まったでしょう。

拒食症は21世紀の病気です。とてもよく起こる問題です。残念なことですが、みんながみんな、それを克服できるわけではないんです。拒食症についてオープンに話せば、こんなふうにはならないだろうと思いました。残念なのは、なぜもっと早く言えなかったのかということです。なぜなら、すべては何年も続いてきたからです。

(昨年の)グランプリシリーズのロシア杯が終わって帰宅した時、スケート靴をタンスにしまいました。それっきり、靴を見ることはありませんでした。それ以来、氷の上に出ることはありませんでした。そして4月には入院。それが経緯です。

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ソチ五輪で演技するリプニツカヤ選手=2014年2月
Alexander Demianchuk / Reuters

◾️報道に苦しむ「たくさんのフェイク情報があった」

―ソチ五輪のあと、あなたに向けられた賞賛は、前進するための原動力になりましたか。それとも逆に重圧だったのか。

押しつぶされそうでした。私には力が残っていませんでした。本当に辛かった。私は公人ではありません。その上、子どものころからとても内向的な人間でした。初対面の人と話すとき、頑張らなければなりません。

今、少しはいろんな人と話せるようになって、多少は社交的になりました。でも、内向的な性格はすでに定着しています。私はすべての新聞、テレビ放送に自分が登場する必要があるとは思っていません。そのようなことは歓迎しませんし、自らもそうはしません。話すのも短く、必要があれば反論することもあります。

長い沈黙と引退宣言に関連して、たくさんの「お節介な人」が出てきて、記事が書かれたり、私が全く知らない人がインタビューを受けたりしました。

最初は滑稽なだけで、狂ってもいませんでした。次第にたくさんのフェイク情報が出るようになり、反論したくなったんです。

そのきっかけになった番組があります。国営放送の「1チャンネル」です。内容はすべて完全な嘘でした。番組の担当者たちに「どうやったらそんな結論になったのですか?」と尋ねると、彼らは「君は自分で情報を否定しなかった。だからそれは本当だ」と言ったんです。だから、私はこの場で憶測に対して反論せざるを得ないのです。

―では語ってください。

それではある番組から話を始めましょう。放送後、母と私は白髪になりました。私はさらに太りもした。その代わり、番組制作者にとっては、視聴率も好調で、よかったでしょう。

放送の中で、ザノージンと名乗る男性が出てきて、私がモスクワ大学に入ったと話し、それは信頼できる情報だと話しました。ところが、まだ私は大学に入っていません。1年後に受験して合格したらの話であって、まだ計画段階です。将来はスポーツマネージメントをやりたいと思っていて、それで生活できればと思っています。

二つ目は、私の父を名乗り、いろんな番組に出演している男性についてです。問題は、番組制作者はなぜ彼に好きなように語らせているのか、ということです。彼ははっきり言って詐欺師です。私がまったく関係ない人です。彼にさるぐつわでもはめたいぐらいです。聞くに堪えません。

私の父について言えば、彼がどこにいるのかはっきりわかっています。警告します。もし同じような放送が繰り返されるのであれば、その時は法廷で会うことになるでしょう。

新聞記事でもひどいのがありました。読みましたが、単なるアネクドート(ロシア語で「小話」を指す)ですね。記事の中で正しい情報は二つの単語しかありませんでした。「ユリア」と「リプニツカヤ」。それだけ。どうやって、私に引退を決意させた若い男性がいると思いついたんでしょうかね。匿名希望の親類の意見が引退の理由とのことですが、そのようなことをしてくれる親類も友人もいません。記事はすべて記者のファンタジーです。創作文なら最高の5の評価です。

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ロシアのプーチン大統領(真ん中左から2人目)から祝福を受けるリプニツカヤ選手(中央)=2014年2月、ロシア・ソチ
David Gray / Reuters

◾️これからの夢「勉強が最優先」

―このような状況にあって、ユーモアのセンスを失っていないということはいいことです。今、あなたが夢見ていることはなんですか。

何を夢見てるかですって?何よりもまず、人生において楽しめることを探したいですね。私は今、岐路に立っています。というのも、たくさんのプロジェクトや提案を受けているからです。でも、私は単に「お飾り」にはなりたくない。自ら参加し、自分が最も楽しいと思えることをやりたいんです。勉強しなければそれはできないことです。

だから今の私にとって、最優先なのは勉強です。家庭教師のもと、一生懸命英語を勉強しています。勉強に集中して、それから見えてくるものがあるでしょう。並行して別のことにも取り組みたいですし、自分のために何かを見つけるよう頑張りたい。

スケートショーに出るかとよく聞かれますが、今はできないし、出たくもない。オファーはありますけど。時間がたてばたぶん、何か変わるし、氷の上に戻りたくなるかも。まあ、様子見ですね。しかし、コーチにならないことだけははっきりしています。仕事とスポーツはまた別の話。

いずれにしろ、教育を受けていなければ何もできません。興味があることは趣味ですが、趣味は趣味であり、仕事とは教育です。

―ページはめくられ、夢や計画が将来に向けて動き始めている、と言えますか。

はい。私は新しい人生と計画を持っています。スポーツのあとに残ったのは習慣です。自分を見つめ直し、明瞭な計画を立てるという習慣。

自由な時間、今はたくさんありますが、すぐ何をしようかなと考えます。じっとしないよう、やりたいことを予定として入れていきます。予定が決まっている日は気分がよく、頑張ろうと思えます。週末はダーチャ(別荘)に行きます。

みんな知ってると思いますが、私、馬が好きなんです。もうすぐ自分の馬がモスクワにやってきます。ダーチャの近くに馬小屋があって、乗馬ができます。

馬に乗って30~40キロ散歩するのです。私が熱中していることの一つで、時間がたつのが惜しくないです。幸せになります。馬の名前はダコタと言います。品種はトラケナーです。背が高く、モデルのような体型で、性格もすごくいいです。夢ですね。

―すばらしいですね。最後に何か言いたいことはありますか。

連盟と、私を支援してくれたすべての人に感謝したいです。かつての私のコーチ、アレクセイ・ウルマーノフさんには特に感謝したい。できる限りの時間を私に割いてくれ、何か問題が起きても素早く解決してくれました。

ソチでもとても気持ちよくトレーニングできて、まったく別の人生のようでした。ソチでは、チームがとても仲よくて、お互い穏やかでした。もしこのチームで結果を出せたら、私はどんなに幸せだったか。でも、残念ながらそれは叶わなかった。

でも、もう一度言いたいです。皆さんと一緒に仕事ができて本当に心地よかったと。

ファンの愛と信頼、私を見てくれ、待ち続けてくれたことにも感謝したいです。たくさんのメッセージをいただきます。時には返事を書くように努力しています。

何人かの人は心からのメッセージを書いてくださって、それを読んだとき、私は泣いたり、笑ったりするからです。私にそのように温かく接してくれる人がいて、私はとてもうれしいのです。

うまくいかない時に発破をかけてくれた人や、私を嫌ってくれた人にもありがとうと言いたいです。それは時々、私に考える時間をくれ、次に進ませてくれたから。

みなさん、ありがとうございました。

―ありがとう、ユリア。

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ソチ五輪フィギュアスケート団体戦で金メダルに輝いた、リプニツカヤ選手(左)らロシアチームのメンバー=2014年2月
Shamil Zhumatov / Reuters

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