南定四郎さん、87歳。
1974年から1996年までゲイ雑誌『アドン』の編集長を務めたことで知られる。
1994年に日本で初めてのセクシュアルマイノリティのパレード「東京レズビアン&ゲイパレード」を主催した、日本のLGBTムーブメントの始祖の1人だ。
8年前にパートナーとともに沖縄に移住。
今では年に1度、東京レインボープライド(TRP)に合わせて上京し、後進とともにパレードを歩くことを楽しみにしている。
そんな南さんがつい先日、『空とぶ船』というLGBT応援マガジンを創刊した。いま南さんが新たな挑戦を始めたのはなぜなのか。TRP会場でお話を伺った。
もともと政治的な意識は低かった
ーーもともとゲイ雑誌の編集長をなさっていた南さんが日本初となるセクシュアルマイノリティのパレードをやろうと思ったきっかけはなんだったのですか?
そもそものきっかけは、東京レズビアン&ゲイパレード(TLGP)の10年前に遡ります。1984年に国際ゲイ協会(IGA、現国際レズビアン・ゲイ協会/ILGA)から日本支部を作らないかと打診されたんです。
その頃、アジアにはIGAの支部がなかったのでなんとかしたい、ついては日本がいいだろうということで、ゲイ雑誌を発行している私のところに相談に来たのでした。
しかし、その頃の私は政治的な活動に興味がなかったので一度は断りました。
ところが、しばらくしたら、また同じ依頼が来たんです。他のゲイ雑誌に頼んだけど断られたからなんとかお願いできないかと。
ーーそれで仕方なく引き受けた?
いえ、すぐにではないんです。その時、スウェーデンから来ていたIGAの担当者が宿代が高くて困っている、と。聞くと、それより安い宿なんかなさそうな値段なんですよ。
仕方ないから我が家に泊めたんです。そうして1週間ほど彼の話を聞いているうちに、やってみたいという気持ちになりました。
——どんな話をされたんですか?
スウェーデンでもはじめは人集めに苦労したそうなんですね。まず家を一軒借りて食事を提供したりして人を集めたそうです。
そのうちに冬になって編み物教室をやったらいっきに人が集まったっていうんですね。スウェーデンは寒いですから編み物の技術の需要があるんだと。
そういう具体的なサービスの話を聞いて、面白いと思ったし、自分でもやれそうだと思ったんです。
それですぐに四谷三栄町にアパートを借りてIGA日本を設立したんです。その時からパレードを開催することは一つの目標でした。
はじめてのパレード。50人から300人まで増えた参加者
——実現まで、それから10年かかったんですね。
そうですね。パレードが実現した1994年には横浜で第10回国際エイズ会議も開かれました。HIVをめぐってゲイについての政治的な議論が活発になったことも大きな後押しになったと思います。
——初めてのパレードはどんな様子でした?
西新宿の出発地点に集まったのは50人ほどしかいませんでした。
ところが新宿南口に来たら大きな歓声があがって沿道から入ってくる人がいる。ゴールの渋谷宮下公園では300人ほどに増えていましたね。
ラフォーレ原宿の前あたりで振り返ったらすごい人になってて、これはすごいとびっくりしたことを覚えています。
46年間連れ沿うパートナーと沖縄に移住
——2011年にはパートナーと一緒に沖縄に移住されました。パートナーの方とはどのくらいのお付き合いなのですか?
46年になります。最近では婚姻の平等のための裁判もあり、同性婚について話題になっています。
ところが、ゲイに中には、「ゲイのカップルなんて長く続かないんだから結婚なんて意味がない」という人もいる。
しかし、異性愛の夫婦だってなんの努力もせずに長続きしてるわけじゃないと思うんですよ。
私もパートナーも仕事柄、生活が不規則で、なかなか2人の時間を取れないんです。だからお互いになんとか相手に合わせようと努力してきた。
そういう相手を思う努力が生活全般にわたっていたのでこれだけ長く続いたんだと思っています。
——移住された沖縄でもさまざまな活動をされて、4月には雑誌も創刊されました。もともと沖縄でそういった活動をしたいと思っていたのですか?
いえ、それもまったくそういうつもりではなかったんです。
私は狭心症で、冬の寒さがつらいんですよ。それで冬に沖縄に遊びにいったら暖かくて体が楽ですぐに移住を決めたんです。
しばらくしたら社会福祉協議会からLGBT向けの電話相談をしてくれないかと頼まれました。電話相談は東京でやっていたので引き受けたんです。
ところがこれが昼に2時間しか利用時間がなくて1人ひとりの利用者にどうも消化不足の感があった。
そこで毎月1回、日曜日に自宅を開放して誰でも来れるようにしたんですね。すると毎回30人くらい集まるようになって。そこでLGBTが相談できるカフェを作ったんです。
新しい雑誌『空とぶ船』の誌名は、このカフェの名前でもあり、ここから情報を発信していこうという試みです。
地方発の取り組みを発信していきたい
——IGA日本を作った時と同じく、まず場所を作ったわけですね。
地方にもこういう場所の需要があると思ったんです。そして地方は東京を真似るのではなく地方独自のやり方を工夫して、それを発信していくべきだと思いました。
地方に住むセクシュアルマイノリティは東京よりも生きづらい環境にいると思います。沖縄で出来ることは、他の地方でもきっと出来る。それぞれの地方がそれぞれの地方らしい取り組みを成功させるきっかけになればいいと思います。
——今日、TRPの賑わいを見てどうお感じになりますか?
今は企業の協賛なども多く、昔からは考えられないほど規模も大きくなりました。ただ、これをブームで終わらせてはいけないと思います。
ブームとトレンドは違います。ブームで終わらせないためには当事者自身が周囲に流されず自分の頭で考えて動かなければいけないのではないでしょうか。
南定四郎(みなみ・ていしろう)
1931年、樺太(サハリン)・大泊町生まれ。1972年、ゲイ雑誌『アドン』を創刊。1996年に休刊するまで編集長を務める。1984年にIGA日本を設立。日本のLGBTムーブメントのルーツの1つとなる。
(取材・文:宇田川しい 編集:笹川かおり)