メディアは何をすべきか:原島有史さんのお話を聞いて

性的少数者に関して、それぞれの組織や経営のあり方を問いただす必要があるのではないだろうか。
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Pichi Chuang / Reuters

駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部2017年度「実践メディアビジネス講座I」シリーズ講義「メディア・コンテンツとジェンダー」の7回目、ゲスト講師による講義の6回目は、弁護士としての仕事の傍ら、同性婚の実現に向けた活動を行うNPO法人EMA日本の理事も務めておられる原島有史さんをお迎えし、LGBTや同性婚の問題と法律やメディアについてお話しいただいた。

今回は都合によりゼミ生のレポートはなし。講義の概要は以下の通り。

1 講義の概要

「セクシュアル・マイノリティ」とは、「性(セクシュアリティ)のあり方からみた少数派(マイノリティ)」である。一般的には、性的指向が異性愛ではない人、身体的な性別と性自認との間に違和のある人などを指す。

電通ダイバーシティ・ラボが行った「LGBT調査2015」では、セクシュアリティを「身体の性別」、「心の性別」(自分は男だ、女だという性自認)、「好きになる相手・恋愛対象の相手の性別」(男性、女性、男女双方)の3つの組み合わせで分類した「セクシュアリティマップ」で示している。2×2×3で12通りに分かれるが、このうち、ストレート(異性愛者で、身体と心の性別が一致している人)の男性と女性以外がLGBT層と規定されている。

電通ダイバーシティ・ラボWebサイト

http://www.dentsu.co.jp/news/release/2015/0423-004032.html

この調査によるとLGBT層に該当する人は7.6%であった。また、博報堂DYグループのLGBT総合研究所が2016年に行った調査では、LGBTに該当する人は5.9%、その他の性的少数者を合わせると8%であった。概ね12~3人に1人という計算になる。

これだけいるはずなのに、一般的にそのようには認識されていない。2015年に日本で行われた調査によると、身の回りに同性愛者がいると答えた人は5.3%、性別を変えた人がいると答えた人は1.8%だったという。調査会社IPSOSが行った調査によると、米国では、55%が身の回りに性的少数者がいると答えており、だいぶ状況が異なる。性的少数者がそうと言いづらい社会であるということだろう。

釜野さおり・石田仁・風間孝・吉仲崇・河口和也(2016)『性的マイノリティについての意識-2015年全国調査報告書』科学研究費助成事業「日本におけるクィア・スタディーズの構築」研究グループ(研究代表者 広島修道大学 河口和也)編

http://alpha.shudo-u.ac.jp/~kawaguch/chousa2015.pdf

日本では、LGBTはメディアを通じて知るものとなっている。その中にも偏りがあって、最も知られているのがいわゆる「オネエ」であり、他の性的少数者より、メディアで見聞きする割合が高い。特にテレビの影響は大きい。LGBTに対する認知度が上がったのはいいが、取り上げ方が偏っているために、いわゆる「オネエ」以外のLGBTが見えなくなってしまっていることは問題である。

もともと日本では昔から、男性同性愛は広く認知されている。テレビが普及して以降は、テレビでも今でいう「オネエ」タレントたちが活躍してきた。しかし戦前に、当時の西洋の性科学に影響を受けた商売半分の「通俗性欲学」なるものが提唱されたこともあり、「異性愛」と「同性愛」を区別し、後者を異常かつ危険な性的欲求だとする見方が社会に広まった。

現在のメディアは、LGBTに対する配慮を行うことを自ら定めている。たとえば日本民間放送連盟の放送基準には、「11章 性表現」の中に、「(77)性的少数者を取り上げる場合は、その人権に十分配慮する」とあり、解説書には「性的少数者(同性愛者、性同一性障害者など)の性的指向を変態性欲・性的倒錯に含めてはなら」ないとしている。とはいえ、このくだりは人権ではなく性表現の項目に載っていることから考えると、人権問題としての位置づけが明確とはいいにくい。

社会全般でも、偏見はなくなっていない。政治家など公的な立場にある人の無神経な発言もしばしばあって、そうした影響もあるのかもしれない。あからさまなヘイトスピーチはさすがに少なくなったが、LGBTに対する差別的な発言は平気で行われる。

一般の人々の間にも、差別や偏見は根強く残っている。特に身近な人に対してはそうだ。人種差別の場合、家族は同じマイノリティに属するので苦しみを共有できるが、LGBTの場合、身近な人ほど認めない傾向が強い。当事者は身近な人にこそ相談できないという苦しみがある。

東日本大震災のとき、仮住居に住んだ同性カップルが周囲からの排除する動きのため退居を余儀なくされ、心中してしまったケース、一橋大学ロースクールにおけるアウティングにより学生が自殺してしまったケースなど、取り返しのつかない結果に至ってしまう事例が後を絶たない。

学校教育では、LGBTの問題を取り上げたがらない。77%が一切習わない。肯定的に習ったと答えたのは6%だけである。

結果として、多くの性的少数者たちが、生きづらさを感じながら生きていくことを余儀なくされる。自殺未遂経験者を対象とした2001年の調査によると、異性愛者でない男性はそうでない男性と比べ、自殺未遂の経験が5.98倍となっている。これはいじめ被害の経験者の5.3倍よりも高い。

日高庸晴ほか(2001)「わが国における都会の若者の自殺未遂経験割合とその関連要因に関する研究

http://www.health-issue.jp/suicide/index.html#nav07

もちろん、近年は、企業でも対策が進みつつある。経済同友会の調査では、約4割(大企業では3/4)の企業がLGBTに関する何らかの施策を行っている。とはいえ、実際にはまだまだ問題がある。LGBTを理由として内定辞退に追い込まれたケースもある。

経済同友会調査

時事ドットコムニュース 2017年2月7日

http://www.outjapan.co.jp/news/2017/2/4.html

LGBTと就活――混乱、さらに極まれり?!

シノドス 2014年2月13日

https://synodos.jp/society/6769/2

同性婚についても問題はある。2017年7月現在、G7のうち5か国、つまり日本とイタリア以外では同性婚が認められている。イタリアにもパートナーシップ制度がある。世界の人口に占める、同性婚を持つ国・地域の人口の比率は16.4%に達する。何もないのは日本だけだ。日本は、海外に向けては性的少数者に対する積極的な態度をアピールしていながら、国内向けには何の制度的保障も作ろうとしない。

現在日本では、法的には同性婚を認めていない。いくつかの根拠が主張されているが、いずれも理由がない。たとえば日本国憲法第24条第1項に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とあることをもって、同性婚には憲法改正が必要とする主張があるが、第24条はもともと戦前の家制度を否定するための文言であって、同性婚を否定する趣旨ではない。

同条第2項において「配偶者の選択」に関して、「法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とあることからしても、第14条で「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあることからしても、同性婚を認める方が自然である。

同性婚を認めると「少子化になる」という批判も目にするが、昔とちがって、今は望まない結婚を強制することはできない。したがって、同性婚を解禁しても異性婚が減るわけではない。

逆に、同性婚を認めることにはメリットがある。米国では同性婚を認めた州において、同性愛者の若者が自殺を試みる割合が減ったとする研究結果が発表されている。

Fewer Teens Die By Suicide When Same-Sex Marriage Is Legal

Forbes.com 2017年2月20日

https://www.forbes.com/sites/tarahaelle/2017/02/20/fewer-teens-die-by-suicide-when-same-sex-marriage-is-legal/

Julia Raifman, Ellen Moscoe, S. Bryn Austin, et al. (2017).

"Difference-in-Differences Analysis of the Association Between State Same-Sex Marriage Policies and Adolescent Suicide Attempts." JAMA Pediatrics 171, 4:350-356.

http://jamanetwork.com/journals/jamapediatrics/fullarticle/2604258

LGBTは特殊でも異常でもなく、ふつうの人々がそれぞれ持つ属性の一部にすぎない。さまざまな属性をもった人々がそれぞれ「普通」に生きられる社会を作っていくことが求められている。

2 感想

2-1 メディアとLGBT

2回連続して弁護士の方を講師としてお招きしたことになる。前回の伊藤弁護士はAV出演強要問題だったが、今回の原島弁護士はLGBTなど性的少数者の問題、中でも同性婚について重点的にお話しいただいた。

この2つの問題は、対象者やその数を始めとする多くの点で異なっているが、共通点もある。当事者の苦しみがきわめて深刻なものとなりうる点、身近な人が助けになるとは限らない点、そして法律上の保護が充分ではない点だ。

AV出演強要問題についても、自殺者がいたという話が出てきたが、性的少数者の自殺率も一般に比べると高い。そのことと無関係ではないだろうが、当事者の家族や近しい人々が当事者につらくあたるケースが少なくないという。確かに、自分の家族が当事者だったときに受け入れられない人は少なからずいそうだ。当事者にとってのスティグマは、同時に家族など身近な人たちにとってのスティグマにもなりうるわけで、心配や苦しみを与えたくないために相談できないという例も多いだろう。

原島さんのお話のポイントのひとつは、当事者やその周囲の人々の苦しみが、メディアによる偏った情報発信によって生み出され、あるいは助長されているということであるように思う。

この点はシリーズ講義第4回の三橋順子さんの講義でも触れられた点だ。いわゆるオネエのタレントが注目されるため、それ以外の人たちの存在感が希薄になるだけでなく、ゲイやMtoF全体がオネエのイメージでみられ、からかったりバカにしたりしていい対象と思われてしまうという話は、お2人が共通して挙げておられる。

直感的にはいかにもありそうな関係でなるほどと思うが、メディアへの接触と性的少数者に対する態度との関係についてこれまで行われたさまざまな研究結果をみると、必ずしも明快な関係が見出されているわけではなく、接触するメディアの種類、性別や年齢、生活環境、信仰や政治的態度を含む価値観など、その他さまざまな要因が関係しているということのようだ。ただ、総じて男性より女性の方が、高齢者より若者の方が、性的少数者に対し肯定的な態度である傾向が強いという点は共通している。全体の傾向はともかく、当事者が嫌な思いをする機会は少なからずあるだろうことは充分想像できる。

山下玲子、源氏田憲一(1996).「同性愛者に対する態度についての一研究 : 男女差,メディア接触量を中心として」『一橋研究』21,2: 163-177.

http://jairo.nii.ac.jp/0033/00000187

Jerel P. Calzo & L. Monique Ward (2009). "Media Exposure and Viewers' Attitudes Toward Homosexuality: Evidence for Mainstreaming or Resonance?" Journal of Broadcasting & Electronic Media 53, 2: 280-299.

http://dx.doi.org/10.1080/08838150902908049

吉仲崇他(2015).「セクシュアル・マイノリティに対する意識の属性による比較 : 全国調査と大学生対象の先行研究を中心に」『新情報』103: 20-32.

http://sjc.or.jp/topics/wp-content/uploads/2017/06/vol103_3-1.pdf

また、上掲Calzo and Ward (2009)は、メディアへの接触が増えると人々の考え方の差が小さくなっていくという長期的な効果(mainstreaming effect)がみられるとしている。テレビなどでオネエばかりが取り上げられる状況が長く続いていれば、性的少数者へのイメージがそれに引きずられることはあるのだろう。

同じ意味で、私たちの社会に根強く残る性的少数者への差別感情も、過去のメディアにおける彼らの取り上げられ方の影響の残滓なのかもしれない。

原島さんは「もともと日本では昔から、男性同性愛は広く認知されていた」とするが、逆にいえば、女性同性愛は必ずしもそうではなかった。たとえば江戸時代の春画などでも、男性同性愛を描いたものと比べて女性同性愛を描いたものは圧倒的に少ないという。シリーズ講義第4回でお呼びした三橋さんは、この時代には女性の同性愛という概念そのものがなかった、としている。これらが男性中心社会において女性を「客体」としてみる考え方とつながっている、という点は、かねてから指摘されてきた。

杉浦郁子(2010)「レズビアンの欲望/主体/排除を不可視にする社会について――現代日本におけるレズビアン差別の特徴と現状」好井裕明編著『セクシュアリティの多様性と排除』(差別と排除の〔いま〕⑥)明石書店、55-91.

三橋順子(2016)「日本におけるレズビアンの隠蔽とその影響」小林 富久子・村田 晶子・弓削 尚子編『ジェンダー研究/教育の深化のために― 早稲田からの発信』「早稲田大学ジェンダー研究所」創立15周年記念論集.

これが明治以降になると、女性、特に若い女性の同性愛はある種の社会問題として取り上げられるようになってくる。富国強兵が国是の時代に、「産む性」と位置付けられた女性がそれに背く行動に走っているというわけだ。一方で、多くはやがて男性と結婚するまでの一時的な現象であるからさほど問題視しないでよいという、やや歪んだ形の擁護もなされた。

杉浦郁子(2015)「「女性同性愛」言説をめぐる歴史的研究の展開と課題」『和光大学現代人間学部紀要』第8号. p.7-26.

https://www.wako.ac.jp/_static/uploads/contents/managed_html_file.name.8c034ecafbe8dbf1.3030372d3032362de69d89e6b5a62de69c80e7b582572e706466/007-026-%E6%9D%89%E6%B5%A6-%E6%9C%80%E7%B5%82W.pdf

実際、朝日新聞の記事データベースで「同性愛」を検索すると、最も古い1880年(明治13年)9月9日の記事も含めそのほとんどは比較的若い女性同性愛者に関するもので、新聞だからある意味当然だろうが、心中や傷害、逃亡など何らかの事件として報じられている。

許嫁の男を嫌つて朝鮮へ 同性愛の噂ある若い女 二人下関で保護中

朝日新聞1924年(大正13年) 2月 24日

もっとも、時代が下ると、西洋由来の「通俗性欲学」の影響もあるのか、男性同性愛も、少なくとも表面的には「変態性欲」の仲間に入れられるようになる。こちらも「産めよ増やせよ」にはつながらないからだろうか。いずれにせよ明治以降の数十年間、性的少数者たちを正常でないものとみる考え方は当時の「科学」に基づく当然の考え方として、人々に刷り込まれてきた。

恋の軍曹を刺して脱営す 女形活動役者出の一等卒が変態性欲にもだえて

朝日新聞1925年(大正14年) 6月 9日

戦後の日本は、新しい憲法の下で、個人の自由と権利を保障する方向へ転換した。新憲法の草案をGHQが作ったことは有名だが、その中に第24条の原形となる条項を盛り込むことを主張した女性職員は、女性の権利に注目はしたが、性的少数者までは考えが及ばなかった。もちろん時代からすればやむを得ないことだったろう。欧米でも性的少数者たちの権利が主張されるようになるのはその数十年後だ。

日本の戦後復興は、会社員の夫+専業主婦+子どもからなる核家族がモデル家庭となる社会の中で成し遂げられた。女性の権利に関しては並行して進んだ社会運動によって徐々に改善し現在に至るわけだが、性的少数者の権利についてはそれより数十年遅れ、海外での動きを概ね追いかけつつ進んでいるのが現状、ということだろう。

2-2 同性婚をめぐる状況

同性婚は、その中でも大きなテーマの1つといえる。これまで異性間で行うのが当然とされてきた結婚を同性間でも認めようということだ。人生のパートナーとして同性を選ぶ人たちにとって、同性婚は、相続など法的な取り扱いや社会生活のさまざまな局面において実質的なメリットがあるだけでなく、自分たちが社会に認められた存在であると自覚できるという意味で大きな意義がある。

海外での動きについては原島さんのお話にある通りだが、日本では東京都渋谷区を始めとして、いくつかの地方自治体が「パートナーシップ証明」などを発行する動きがあるほか、企業レベルで実質的な取り扱いの改善をはかる取り組みが始まっている。とはいえ国政レベルでの動きは未だ鈍い。

その背景には、同性婚について社会全体の合意ができているとはまだいえない現状がある。上掲『性的マイノリティについての意識-2015年全国調査報告書』をみると、全体としては同性婚を認めるかどうかにつき「賛成」が51.2%、「反対」が41.3%と賛成意見が過半数を占めるが、差は圧倒的というほどではなく、反対も根強いことがわかる。

意見の差は、人々の属性によって濃淡がある。女性は「賛成」が過半数であるのに対して男性は「反対」が過半数を占め、また年齢層が上がるにしたがって「反対」が増えるというのは、上掲の性的少数者への態度全般にも共通する。また、男子校出身者はそうでない者と比べて「反対」意見が大幅に高い、結婚しているかどうかにかかわらず子どもをもつ人はそうでない人と比べて「反対」が多い、自営業主や経営者・役員、管理職は「反対」が過半数を占め、また農林漁業職は圧倒的多数が「反対」であるなど、さまざまな特徴がみられる。

これらの要因間の相関など詳しいことは不明だが、それぞれなんらかの関係はありそうな気がする。また、この調査では居住地域による分析が書かれていないのが不思議だが、地方において、より否定的な意見が多いのではないかという仮説は、以下のような記事をみると、少なくとも直感的にはありえそうに思う。

都会と地方の生活ってどれだけ違うの?LGBTの地域間格差

2016年04月18日

https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/lgbt_2_b_9714092.html

「匿名性の低い」地方でLGBT当事者はどう生き、理解を訴えるべきか 明治大の鈴木教授に聞いた

2017年06月01日

https://www.huffingtonpost.jp/2017/06/01/lgbt_n_16907350.html

一般的には、やっぱり地方は匿名性が低い社会であり、その意味ではLGBTに対する理解を広げるのは困難があると思うんです。世間が狭いというか。何かやろうとするとすぐに誰か特定されてしまう。近所の人たちには、子供の頃からよく知られてしまっていますし。

顔の見える関係が強いと、自ずと人の人生に干渉してしまうんでしょうね。社会で広く共有されている価値観からはみ出たていたら、それを注意してあげようとする。それはおそらく善意なのでしょうが、うっとうしいですよね。田舎の温かさが裏目に出ているというか。だからみんな、しがらみのない都会に出ようとするんです。

本来、結婚は当事者同士の問題だ。誰かが誰かと結婚することが、赤の他人に損害や迷惑をもたらすわけではない。家族や近しい人々には何らかの影響があろうが、そもそもそうであったとしても「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると定めたのが家制度を否定した今の憲法だ。同性婚を制度として認めることは同性婚をよく思わない人に対して同性婚を強要するものではないし、同性婚を制度化していない現状でも同性愛者に異性婚を強制することはできない。

それでも反発が強いことの理由が何なのか、正確なところはわからない。歴史的、宗教的背景に基づく反対もあるだろうが、それだけでもなさそうだ。少なくともその一部に、「異形の者」としての「オネエ」たちの姿や、彼らを笑い者にする一般の人々、それが問題ない行為として受け入れられるさまをメディアで繰り返し見ることが、何らかの影響を及ぼしていてもおかしくはない。

2-3 メディアは何をすべきか

メディアの影響力がなにがしかあるとして、ではメディアはどのような情報を発信すべきなのか。原島さんのお話しを聞きながら三橋さんのお話を併せ思い出していて、当事者が望む最大公約数は「特別視されない『ふつう』の存在でありたい」ということであろうと思い至った。にもかかわらず、適切なロールモデルがいないことが大きな問題となっているわけだ。だからといって、オネエタレントをテレビに出すなというわけにもいくまい。

最近は、映画やテレビドラマでもオネエ以外の性的少数者が登場する作品が少なからず出てきているが、どうも性的少数者を主人公とした作品は彼らが周囲との軋轢や差別に苦しむ姿を描くものが多いように思われて気になっている。物語を盛り上げるためだろうが、仮にそれを克服する「ハッピーエンド」であったとしても、当事者の中に、それを見て「自分はあんなふうに苦しみたくない」と思う人が出てきても不思議ではない。

多数派の人々がそうであるように、性指向や性自認は必ずしも人生の目的そのものではない。世界の中心で愛を叫ぶ人だって、叫ぶ以外にやりたいことはあるだろう。性指向や性自認とは関係なく、たとえば会社員や公務員として働きたい、家庭で子どもを育てつつ平穏な日々を送りたいといった「ふつう」の人たちが「ふつう」の生活を送れる社会が望ましいとすれば、そうした人々を描くことが、メディアの役割の1つになるかもしれない。

主人公ではなく、たとえば脇役。ドラマの中心ではなく周辺にいて、特殊な才能を持つでもなく、特別な苦難にも遭わず、ふつうに暮らしている人。そうした人がたまたま性的少数者であって、そのことが周囲に自然に受け入れられている状況。そうした描写は、多くの「ふつうの」性的少数者にとってのロールモデルを示すものとなるのではないか。

昨年の人気テレビドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』では、脇役にゲイと設定されたキャラクターがいて、そのことを特段強調されるでもなく自然に溶け込んでいたが、あのドラマはどちらかといえば女性をターゲットとする(原作漫画も女性向け漫画だ)ものだった。あのような描写が、上掲調査で性的少数者や同性婚に対してあまり寛容でないとされた、たとえば男性や高齢者などをターゲットとする物語、たとえばNHKの朝ドラや大河ドラマなどのようなものの中に登場するようになれば、そうした人々の考え方に多少なりと影響を与えていくかもしれない。

とはいえ、創作物よりも重要なのは現実だ。テレビのバラエティ番組ではオネエタレントが活躍しているが、それ以外の性的少数者が登場しないことが問題だとの指摘もあった。オネエに限らず、マスメディアで活躍する人々は一般人からみれば「特殊」な存在であり、ふつうの生活を送りたい性的少数者のロールモデルとはなりにくい。

必要なのは、「等身大のロールモデル」【後編】

LGBTER 2016/06/16

http://lgbter.jp/yukito_uno2/

では、性的少数者の出演者を一定割合含めることを義務付けるクォータ制など何らかのアファーマティブアクションが必要かというと、それも少し違う気がする。考えてみれば当然の話だが、「オネエ」のように外見ですぐそうとわかるわけではない性的少数者は、外見ではわからないことが多い。だからといってそうした人々にカミングアウトを迫るのもスジ違いだ。そもそも性指向をあからさまに外部に表明すること自体、社会的に適切でない場合は少なからずある。マスメディアでも報道の分野では、出演者というより取材対象として「等身大のロールモデル」が取り上げられることも少なからずある。全国紙各紙のウェブサイトでみると、朝日、毎日にはLGBTについての特集ページがある。とはいえ、記事は社会面のものが多く、内容も「がんばっている人がいる」といった美談めいたものばかりで、どこか他人事のようにみえる。メディアの「中の人」自身にとって、このテーマが「自分ごと」ではないからかもしれない。

LGBTに関するトピックス:朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/topics/word/%EF%BC%AC%EF%BC%A7%EF%BC%A2%EF%BC%B4.html

LGBTを知っていますか?|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト

http://webronza.asahi.com/politics/themes/2913043000002.html

LGBT 私らしく生きる - 毎日新聞

https://mainichi.jp/LGBT/

発信する内容よりむしろ、企業自体の問題ではないか、と想像している。つまり、メディア各社の組織におけるLGBTなど性的少数者への対応はどうなっているのか、という問題だ。たとえば、こんな記事がある。

同性婚対応、動く企業 パナソニック、規則改め容認へ

朝日新聞2016年02月19日

パナソニックは4月にも就業規則の「配偶者」や「結婚」の定義を変え、運用対象の拡大を考える。同性パートナーも慶弔休暇や介護の制度を使えるようにする。世界で約25万人の従業員を対象にした行動基準で、性的指向で差別しないといった内容を盛り込む方向だ。

珍しく経済面で性的少数者を取り上げたこの記事では、見出しにもあるパナソニックの他、日本IBMやNTTドコモなど、企業での取り組みが進みつつあると報じている。では、マスメディア、なかんずく自社を含む新聞業界、あるいはより広くメディア業界ではどうなのか、報じた記事は管見の限り見当たらなかった。別の記事でも書いたが、マスメディア企業は総じて、女性活用やその情報公開においても、あまり積極的とはいえない。性的少数者に関してはそれに輪をかけて消極的という印象を禁じ得ない。マスメディアは社会を映す鏡であると同時に、社会のあるべき姿を提示し、よりよい方向への変革を促す役割をも負っている(少なくとも「社会の木鐸」を自認するならそうであるはずだ)。もしそうだとすれば、女性に関しても、性的少数者に関しても、すべきことは少なからずある。「どの口がいうか」と後ろ指を指されないためにも、性的少数者に関して、それぞれの組織や経営のあり方を問いただす必要があるのではないだろうか。