2人のリー:「リー・クワンユー」と「李登輝」

リー・クワンユーの死について、いちばんコメントを聞きたいと思ったのは李登輝だった。2人は同じ「李姓」で、まったくの同世代に属する。
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 リー・クワンユーの死について、いちばんコメントを聞きたいと思ったのは李登輝だった。2人は同じ「李姓」で、まったくの同世代に属する。ともに1923年生まれ。1月生まれの李登輝より8カ月、リー・クワンユーは遅く生まれた。そして、2人とも客家の家系。「4匹の龍」(シンガポール、台湾、韓国、香港)と称された「国」を率いた。

 私が特派員として滞在したシンガポールと台湾で、2人はいずれもすでに第一線からは退いていたが、その存在感は依然抜群であった。私はかねてから「2人のリー」と勝手に名付けて、比べてきた。様々な類似点と相違点、互いの感情の対立。何より自由・民主と経済発展の関係をめぐる現代アジア論が「2人のリー」からいくらでも語れそうだ。

「反日」と「親日」

 2人の最大の相違点は、リー氏の「反日」と李氏の「親日」である。

 リー氏は李氏について、回顧録で、「李登輝は読書家で、情報収集のキャパシティーが莫大だった」「自信があり、博学で、関心のあるあらゆるテーマに通じていた」とその知性を認めてみせている。しかし同時に、日本の新聞を読んでいること、NHKの衛星放送を見ていることを例にあげ、「日本の歴史と文化にどっぷりつかっていて、李登輝は大陸を重視せず」「共産党指導部を蔑視し」などとして、その知性の源である「日本」を疑い、「私には李登輝の立場を理解することができなかった」と切り捨てた。

 漂っているのは、李氏の「日本びいき」への嫌悪感である。リー氏は日本人の能力や技術は高く評価していた。日本政府や日本の経済界とも関係は良好だった。しかし、その根底には、リー氏が日本のシンガポール占領軍に殺されかけた経験が横たわっている。日本の侵略への反感、歴史認識への警戒感は根強く、歴史問題をめぐって感情的とも言える日本批判をしばしば展開してきた。

客家出身の地元エリート

 リー氏と李氏はともに「李姓」であり、リー氏は南洋移民、李氏は台湾移民という違いはあるが、どちらも中国・福建省の同じ地域の一族をルーツとしている。

 2人の出身である客家は中国の1つの族群で、流浪の民とも呼ばれるほど中国内外の各地に散らばっているが、言語や食事など、独自の伝統を保持している。同時に勤勉、努力の民でもあり、鄧小平など政治指導者や経済人には客家出身者が多い。

 そして、どちらも植民地統治の高等教育を受けた地元エリートでもある。しかし、それは共通点でもあるが、相違点でもある。リー氏が受けたのは英国教育であり、李氏は日本教育を受けたからだ。

 リー氏は英ケンブリッジで法学を学び、李氏は京都大学で農学を学んだ。それぞれ、ネイティブ顔負けの英語と日本語を操る。言語と教育は、当然、その指導スタイルや政治思想にも影響を及ぼしている。リー氏はエリート政治と透明性を追及し、李氏は大衆政治と権謀術数を得意としたと言えるだろう。

「台湾から来た総統」

 リー氏は反共の政治家だった。1965年のシンガポール独立後は、同じく反共を掲げた国民党の蒋介石・蒋経国の独裁体制と深く結びついた。特に蒋経国とは深く付き合った。リー氏が台湾の阿里山賓館を訪れたとき、蒋経国はリー氏が西洋料理しか食べないことを気遣い、台北の円山大飯店のシェフとスタッフをまるごと山の中に送り込む配慮を見せて、リー氏を感動させたという。

 その2人の関係が結実したのが、シンガポール兵士の訓練プロジェクト「星光計画」だった。兵士の訓練場所がなく、また、周辺のマレーシアやインドネシアへの配慮から訓練風景を見せたくないシンガポールは、国軍の訓練場所を台湾に求めた。台湾側もいつ、どこでシンガポール兵士が訓練を受けているのかを徹底して明らかにせず、いまでも詳細は秘密のベールに包まれている。

 一方、リー氏と李氏との関係は、蒋経国ほどはうまく構築されなかった。蒋経国のあとを継いだ李氏は1989年、総統としてシンガポールを訪問する。シンガポールは東南アジアで最も遅く中国と国交を結んだ国で、1990年のことだった。台湾とは国交がない状態で、中国への配慮から「台湾から来た総統」と李氏のことを呼んだ。李氏は「不満だが受け入れられる対応だった」と述べている。

決定的な「決裂」

 その後も2人は何度か会談を重ねたが、話は噛み合なかった。李登輝は英語も達者だし、リー氏も中国語を話せる。2人は何語を使ったのかよく分からないが、2人が背負ったものの違いが響いたのだろう。決定的に2人が「決裂」したのは、1991年のリー氏の台湾訪問だった。

 台湾の外交部長を長く務めた銭復は、台北での会談に同席したときの様子を「非常に気まずいものだった」と振り返っている。銭復によると、2人はお互いに相手の話を遮って話をしようとして、何ひとつとして話がかみ合わず、特にリー氏が台湾の政治やメディアについて「民主的すぎて、自由すぎる」という批判を加えると、当然李登輝は反論をする。その後、リー氏は台湾にあまり来なくなった。

 リー氏は台湾メディアの自由な報道ぶりに疑問を持っており、「シンガポールで台湾の新聞を読んでいるが、このままでは、あなたたちの政府は遅かれ早かれ面倒なことになる。いつか、死ぬほど痛い目に遭うぞ」と銭復にも警告したという。

 この言葉通り、李氏の退任後、台湾は世界でも指折りの報道の自由を謳歌する一方、国民党は政権を失うという痛い目に遭った。一方、シンガポールの与党・人民行動党は、選挙制度を何度も自党に有利に改変するなどの手法を用いて圧倒的多数を維持する第一党でありつづけている。そしてメディアの自由は次第に狭められ、事実上すべてのメディアがシンガポール・プレス・ホールティングスという公営企業の傘下に収められる状況になっている。

 他方、リー氏は中台関係改善のプラットフォームを提供することには前向きだった。1993年には初めての中台窓口トップ会談がシンガポールで開催された。この会談実現の背後では、リー氏が仲介的な役割を進んで果たしたとされる。それは、「古い友人」の台湾と、「新しい友人」の中国の両方に恩を売りたい、という計算もあったと見られる。

意地の火花

 経済面では、シンガポールの成長は台湾を追い抜き、1人当たりのGDPは日本をもしのぐようになった。グローバル経済の勝者である。一方の台湾はシンガポール、韓国、香港と比べて経済成長が鈍化し、「4匹の龍」の最後尾となった。ただ、その政治的自由は、すでに4度の総統選、2度の政権交代を経て、アジアで最も活気のある民主制度が根づいている。

 リー氏は回顧録でこう語っている。

「台湾が独立国になれば、李登輝は台湾史に英雄として残るだろう。台湾が武力で大陸と統一されれば、不必要な苦痛と損害を台湾の中国人にもたらした人間に対して、歴史はそれほど優しくないだろう」

 一方、李氏はリー氏の死去について、こんな風に語っている。

「私たちは友人だが、思想は違う。彼は中国に依存したがった。私は中国に依存したくなかった。彼はアジア的価値、私は自由民主。サミュエル・ハンチントンが言っていたが、李登輝が死んでも台湾の民主は残るが、リー・クワンユーが死ねば、シンガポールの制度は続かない」

 2人の言葉からは、「自分が正しい」という意地の火花が散っているようだ。

 人生は長生きの競争という一面もある。その意味からすれば、何度も健康危機をしのいでリー氏より長生きした李氏は勝利したのだろう。ただ、いま李氏が亡くなっても、リー氏のように「世界的な賛辞」は贈られないだろう。中華民族は、死後の歴史にどのように自分の名が刻まれるかを何よりも気にする人々である。歴史評価をめぐる2人の戦いは、これからも続いていく。

野嶋剛

1968年生れ。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、2001年シンガポール支局長。その後、イラク戦争の従軍取材を経験し、07年台北支局長、国際編集部次長。現在はアエラ編集部。著書に「イラク戦争従記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)。

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(2014年3月31日フォーサイトより転載)