7月、ワタミに関する以下のようなニュースが小さく報じられた。
居酒屋「和民」で働き、過労が原因で自殺した森美菜さん=当時(26)=の両親が、運営会社ワタミ(東京都大田区)側を訴えた裁判で支払われた和解金の一部を基に、従業員に過酷な労働を強いる「ブラック企業」との訴訟費用を援助する基金を来月7日に創設する。
「ブラック企業」と闘う基金=ワタミ過労死訴訟の遺族設立へ 時事ドットコムニュース 2016/07/08
上記基金はブラック企業との訴訟や弁護士費用として50万円を上限に無利子で貸し付け、賠償金を受け取ることが出来なかった場合は返済を免除する場合もあるという。
なんとも酷い話だと思い、以下のようにツイッターでつぶやいた。
自分は偶然テレビの短いニュースで知ったが、大手メディアはこのニュースの報道にあまり力を入れていないようで、ウェブ上でも短いストレートニュース(事実関係を手短に伝える記事)が何本か見つかる程度だ。
ニュースを目にしてつぶやいたのはちょうど書籍執筆に集中している時期だった。当初は仕事に忙しく全く気が付かなかったのだが、数日後にはリツートが5000件を超えていた。そしてつぶやきから一カ月たってもツイートは拡散を続けてとうとうリツイートが7000件を超えた。フォロワーが数千人しかいない自分には異様な拡散ぶりだが、各種メディアでこのニュースがまともに報じられていないことが最大の原因だろう。
■1億3000万円の和解金で基金を設立。
訴訟では1億3000万円と、異例と言えるほど多額の和解金を勝ち取り、実質的な勝訴といっても差支えのない結果だろう。これは懲罰的慰謝料として制裁の意味が含まれており、日本ではほとんど前例がない金額だという(新入社員全員に残業代返還「渡辺本」購入代も..."実質勝訴"と呼べるこれだけの理由 産経ウェスト 2015/12/26)。裁判の結果により多少でも心の傷を癒せれば良いのではとは思うが、その資金で御両親がブラック企業と戦う基金を作ることは決して並大抵の決心では無かったと思われる。
裁判沙汰にまで発展するトラブルは相当に悪質な可能性が高く、基金からお金を出すたびに「またか...」「うちの娘の時と同じじゃないか...」と心の傷をえぐられるような想いを繰り返すに違いない。自分が同じ立場ならばとても耐えられるとは思えない。それでもやらざるを得ないと考えた理由は、赤の他人には知れない覚悟や決意があったのだろう。
■ブラック企業との戦い方は交渉や裁判だけではない。
ではブラック企業と戦う方法はどのようなやり方があるのか。ブラック企業のやり口として、最低賃金を守らない、サービス残業を強要する、パワハラを行う、法律に定められた休憩時間を取らせない、休日(有給休暇)を取らせないなど様々なものがある。これら違法状態を企業と交渉して、場合によっては訴訟で是正させることが「ブラック企業と戦う」という表現からは思い浮かぶだろう。
ただ、実際にはもう一つの戦い方がある。それがスッパリと辞めてしまうことだ。勤務先に違法状態を是正させる... これがどれだけ困難なことかは言うまでもない。当然全ての人が出来ることでもない。では他の選択肢は泣き寝入りしか無いのかというと、そうではなく、それが会社を辞めることだ。
辞めることは逃げることではないのか? 戦うことと正反対じゃないか? と思ったかもしれないが、現在の人手不足の状況では社員に辞められることは会社にとって最大のダメージとなる。
例えばワタミの事例で言えば、自殺された方は入社2カ月にして140時間も残業をしていたという。これは一人で社員二人分の働きをしていたことになる。もしこれだけ長時間働く人がある日突然退職したらどうなるか。穴の開いたシフトを埋めると考えても単純計算で一カ月で約300時間分も働く人を確保する必要がある。学生アルバイトを数人雇った程度ではとても穴埋めできない。
そして飲食・小売は現在深刻な人手不足に陥っており、アルバイトでも正社員でも求人コストは極めて高く、一人当たり数10万円から100万円以上、新卒の社員ならば数百万円以上のコストがかかると言われている。
新しく雇った人への研修も当然必要となり、定着してくれなければ「ふりだし」に戻ってまた採用活動の再開となる... と、人が居付かない職場は求人・研修の無限地獄のループに陥り、この過程で潰れる企業も決して少なくないだろう。ワタミや牛丼のすき家を運営するゼンショーが大量の店舗閉鎖や営業時間の短縮に追い込まれたことは記憶に新しいが、その理由は社員やアルバイトの離反も強く影響している。
■辞める事も戦う事。
ブラック企業問題を語る際、この「辞めてしまえば良い」という話は一部で極めて嫌われる。そんな簡単に辞められるなら誰も苦労しない、ということのようだ。おそらくブラック企業を少しでも減らしたいという考えもあるのだろうが、すでに説明したとおり、辞めるだけでも十分ダメージを与える事は可能だ。もう一つ付け加えると、待遇が改善した所でブラック経営をしないと成り立たないような会社に居続けることが長期的に考えてプラスになることはほとんど無い。
もちろん、入社2カ月で自殺を選ばざるを得なかった娘さんにさっさと辞めていればよかったのに、などというつもりはない。あくまで酷い職場で現在苦しんでいる人へのアドバイスということになる。
結局、問題はブラック企業を辞めた後に生活が出来るのか? という現実的な話になるが、ほとんどのケースで問題は無いはずだ。生活保護を受けるほどでなくても、仕事を辞めた人に対する公的支援は現時点でもある程度は整っている。
■貯金ゼロで次の仕事が決まっていなくても生きていける。
貯金がゼロですぐに仕事が無いと生きていけない、という人には失業保険(雇用保険)がある。自発的な離職は通常支給されるまで3カ月も時間がかかってしまう(これを待機期間と呼ぶ)。これ自体は不正な受給を防ぐためにやむを得ないルールだが、辞めざるを得ない特別な事情があればすぐに支給を受けることは可能だ。それが「特定受給資格者」や「特定理由離職者」と呼ばれる制度だ。
この制度に該当するケースは多数あるが(詳細はハローワークHPを参照)、労働時間に関する決まりもある。例えば特定受給資格者には以下のような状況にある人も含まれる。
離職の直前6カ月間のうちに 1. いずれか連続する3カ月で45時間、2. いずれか1カ月で100時間、又は 3. いずれか連続する2カ月以上の期間の時間外労働を平均して1カ月で80時間を超える時間外労働が行われたため離職した者。
特定受給資格者の範囲 ハローワークインターネットサービスより
他にも契約内容と実際の労働条件が著しく異なる場合や、セクハラ・パワハラ等も該当する場合なども挙げられている。失業保険がすぐに貰えるならば、「次の仕事が決まらないと辞められない」「仕事を続けても地獄、辞めても地獄」という状況から脱出する事は可能だ。
他の制度でも、生活費を借りることが出来る「生活福祉資金貸付制度」、職業訓練を受けながら毎月10万円の給付を受けられる「職業訓練受講給付金」、仕事が原因の病気やケガが発生している状況ならば「労災保険」で治療費や休業の補償まで受けられる。手助けをしてくれる人が周囲に全くいない状況であっても、ブラック企業から逃げて生活をする方法はいくらでもある。
※これら制度の利用には様々な条件がつくため、詳細は制度を実施しているハローワークや自治体の窓口、あるいは専門家などに相談されたい。インターネット上にも多数の情報がある。
■1通の手紙で50万円を奪い返した話。
冒頭で先月は書籍執筆に集中していたと書いたが、書籍ではこれらの制度にも言及した。記事を書きながら、大昔にアルバイトを怪我で辞めた際、しっかり請求していれば休業補償を受けられたのでは... と、当時の嫌な気分を20年ぶりくらいに思い出してしまった。当時それが出来なかった理由は結局自分に知識が無かったからだ。
ドラマにもなった人気漫画「カバチタレ」では、物語冒頭で主人公が理不尽な理由により突然会社をクビにされる。社長からは「お前のせいで発生した損失と今月の給料は相殺するから1円も払わない」と無一文で会社から放り出され、窮地に陥る。
クビにされた主人公がスナックでヤケ酒を飲んでいると、偶然知りあった行政書士の男性が相談に乗り、内容証明郵便を送ることで結果的に未払いの給与と、予告なしの解雇時に発生する解雇予告手当金として50万円を勝ち取る... といったストーリーが描かれる。あくまでフィクションだが泣き寝入り寸前の所でお金や法律の知識で救われる、という印象的なシーンだ。
■お金で困っても誰も助けてくれない。
自分が書いた「一生お金に困らない人 死ぬまでお金に困る人」という本では、これら公的な制度にも触れているが、その目的として冒頭には次のように書いた。
お金を貯めるべき理由は二つだけです。
一つは、やりたいことをやるため。
もう一つは、やりたくないことをやらないためです。
書籍の内容は全ての人に必要なマネーリテラシーを伝える内容だが、やりたい事をやり、やりたくないことから逃げる。それがお金の知識を学び、お金を貯めるべき理由だ。
「やりたいこと」は家を買いたい、美味しいものを食べたい、趣味にお金をかけたいなど何でもいい。過去に受けた相談では、子どもの習い事にお金をかけたい人もいれば、仕事を休んで無給になっても良いから被災地にボランティアに行きたい、という人もいた。いずれもお金(貯金)が無ければ実現出来ない。
一方、やりたくないことをやらない、というのはすでに書いたような苦境から逃れるためだ。ブラック企業で働く人が貯金をたくさん持っていたら我慢して働こうと思うだろうか。あるいは上記の様な公的な制度を熟知している人がサービス残業を黙って受け入れるだろうか。
ウチの職場は大丈夫という人も、将来の異動時や転職時にパワハラ上司やセクハラ社長と運悪くぶつかってしまう可能性もある。これは交通事故で車にひかれて死んでしまう状況よりよっぽど確率が高い。そして生命保険や医療保険はあってもパワハラ保険やセクハラ保険、ブラック企業保険は無い。自分と家族を守るものは自身の持つ「お金の知識」と「お金」だけ、ということになる。
■お金の知識で生活水準が決まる。
そこまで困れば誰かが助けてくれるのでは? と思った人も多いかもしれないが、残念ながら日本の制度はそのようになっていない。身近に親切で知識がある人でもいれば別だが、先ほど挙げたような公的な制度は全て自分から申請や相談をしない限り使うことはできない。一番身近で最も利用率が高い公的制度である健康保険は、放っておいても加入する仕組みで、年金も給料から勝手に差し引かれる。おそらくこれが公的制度に対する勘違いを助長しているのではないかと思う。
公的な制度は何もしなくても全て受けられると誤解をしている人は多いが、実際はその真逆で申請をしない限り使えない。どんなに生活に困っても区役所やハローワークの職員が「生活保護を利用しませんか?」「失業保険はちゃんと受け取っていますか?」等と自宅まで訪問してきてお勧めしてくれる事は無い。いうまでもなく個々人の生活状況を把握出来ないからだ。
例えば生活保護の受給者数は現在200万人を超えてさらに増え続けているが、それでも実際の補足率は2割程度という調査データもある。つまり本来受け取ることが出来る人は5倍もいるのでは? ということだ。こういったデータからもお金の知識が無い人はそれだけで損をする仕組みになっていることが分かる。公的な制度がそんな状況なんておかしいと思うかもしれないが、現状ではそうなっているとしか言いようが無い。
お金の知識で生活水準が決まる。
身も蓋も無い話だが、FPとしてはこれが真実だと言わざるを得ない。
■基金の無い世界が理想の世界。
この基金はブラック企業と戦う人を支援するということだが、戦い方にも色々あることはすでに説明したとおりだ。企業との交渉や訴訟を否定するつもりは全くないが、辞めることもまた企業との戦いであり、可能であればそんな人も基金で支援して貰えればと思う(この記事も微力ながらブラック企業との戦いを支援するつもりで書いた)。
そしてツイッターで書いたように、本来はこういった基金があること自体が政治や行政の失敗であり、敗北であることを明確に示している。法律自体の問題もあるが、ブラック企業がいまだのさばる状況に「現在の法律でもやれることをやっていない」という批判も強い。今回の基金の存在は警察があてにならないから仕方なく自警団を作ったような状況で、これは先進国として恥と言ってもいいレベルだ。
基金設立の意思は尊いものだが、本来は基金が必要の無い世界が理想である事は言うまでもない。
最後になりましたが、亡くなられたお子さまとご両親、ご家族に哀悼の意を表します。
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●参考書籍 「一生お金に困らない人 死ぬまでお金に困る人」
中嶋よしふみ シェアーズカフェ・オンライン編集長 ファイナンシャルプランナー