光州事件とは 1980年5月、韓国の街は戦場だった【画像】

「5.18記念財団」によれば、認定された死者は154人、行方不明者70人、負傷者1628人に上る。
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Student demonstrators watch a police vehicle burn near Seoul's South Gate on Thursday, May 15, 1980. More than 50,000 university students continued anti-government demonstration for the third straight day. (AP Photo)
ASSOCIATED PRESS

1979年10月26日、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺され、18年にわたる軍事独裁政権が幕を下ろした。しかし12月12日、軍部の一部勢力が粛軍クーデターで事実上、政権の実権を握ると、軍事政権の復活を警戒する学生らの民主化デモは韓国全土に拡大した。

1980年5月17日、軍の実権を握っていた全斗煥(チョン・ドゥファン)は、非常戒厳令を全国に拡大。金大中や金泳三ら有力政治家を連行した。民主化を求める学生デモはさらに激化。南部の光州では、空挺部隊が投入され、市民への発砲などで多くの死者、行方不明者が出た。「5.18記念財団」によれば、認定された死者は154人、行方不明者70人、負傷者1628人に上る。

5月27日、戒厳軍は市内を制圧した。光州市内の電話がこの日まで通じなくなり、メディアも情報統制されたため、光州市内で何が起きていたのかの真相は、長く明らかになることはなかった。

5.18記念財団
韓国の国旗を掲げ、「民族民主化大集会」参加のため校門を出た全南大学の教授ら。後ろから学生らが続き、民主化を求めるスローガンを叫んでいる
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全羅南道庁前の広場。噴水を中心に2万人以上の市民と学生が集まり「民族民主化大集会」を開いた。
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全南大学の正門前で機動隊と向かい合う学生デモ隊
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棍棒で無抵抗の学生を叩く衛生兵
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空挺部隊に棍棒で頭を叩かれ、血を流して連行される若い夫婦
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警察がデモ隊に押され始めると、光州中心部に戒厳軍が再投入された
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1980年5月19日午後3時ごろ、戒厳軍は光州市東部の錦南路に投入され、市内の全地域に配置された。
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5月20日午後7時、光州市内の各地で空挺部隊の残虐行為を目撃したタクシー運転手による、約200台のタクシーデモが始まった。走りながらクラクションを鳴らして市民側を鼓舞した
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戒厳令撤廃を求める市民が、光州市東部の錦南路にあるカトリックセンターの前で空挺部隊や警察と向かい合っている。
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デモ隊は郷土予備軍の武器を奪取して武装し「市民軍」となった。トラックの荷台に乗って走る「市民軍」に、沿道で市民が拍手をしている
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光州市内の各地で見られた、炊き出しで市民軍を支援する女性
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光州市内の病院が負傷者で溢れ、血液が不足したとの情報を聞き、多くの市民が献血に訪れた
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事件当時の光州市内。市内は事実上、無政府状態に陥ったが、光州市民は自発的に秩序を守り、困難を打開するため知恵を絞っていた
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全羅南道庁前の広場は、情報を求める市民で埋め尽くされた。抗争指導部は「民主守護市民決起大会」を開き、事態を市民に知らせた
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光州市内に再度投入された戒厳軍
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1980年5月29日、光州市北東部で執り行われた129人の葬儀。当時は政府の情報統制により「暴徒」と規定された
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ドイツのシュピーゲル誌に掲載された、光州事件で死んだ父の遺影を持つ幼児の写真

この記事はハフポスト韓国版に掲載されたものを参考にしました。