JR蕨駅近くにあるケバブ店「ハッピーケバブ」。周辺のクルド人らが集まってくる
中東のトルコやシリアなどにまたがる地域に多く住むクルド人は、「国を持たない世界最大の民族」と呼ばれる。そのクルド人は、実は日本でも東京近郊の埼玉県川口・蕨の両市を中心に多く住み、国内最大のコミュニティーができている。
クルドの人たちはこの異国の地でどう暮らしているのか。あるクルド人夫婦の家に足を運んだ。
グルジャンさん(左)とメストさん=埼玉県川口市
■「拘束されることは考えたくない」
「ここに住んでいることはよかった。でも、難民であることは大変で、いつ入管に拘束されるかわからない。そのことは考えたくない」。
川口市の住宅街にあるアパートに、メストさん(34)と妻のグルジャンさん(28)さんが住む。グルジャンさんは川口や蕨での暮らしについてそう語った。
2人とも来日して難民申請しているが認められておらず、「仮放免」の立場だ。本来は不法滞在者扱いだが一時的に身柄を拘束されない状態で、制度的には働くことは認められない。2カ月ごとに入国管理局に顔を出さないといけない。
メストさんはトルコ南東部アドゥヤマン出身。子供のころの夢は、ヨーロッパに渡ってサッカー選手になることだった。
一方、グルジャンさんは南部ガジアンテプ生まれ。トルコでは、学校ではトルコ語を使わなければならず、クルド語を話すことは禁じられている。「『あなたはトルコ語が話せない』と訛りをバカにされたこともある」と悔しそうに話す。そして、家の外でもクルド語をつかうことはほぼない。
クルド人はクルド語を母語とし、トルコやシリアなどにまたがる山岳地帯に暮らす民族で、多くはイスラム教徒だ。世界の推定人口は2000万人とも3000万人ともされる。かつてオスマン帝国の領内に住んでいたが、第1次世界大戦に勝利したイギリスとフランスが帝国を解体した際、トルコ、シリア、イラク、イランなどに分断された。政治的弾圧を受けたり、経済的に不安定な立場に追いやられたりするため、他国に逃れる人が多い。
トルコ国籍のクルド人らでつくる「日本クルド文化協会」などによると、川口市と隣接する蕨市の一帯には、トルコを中心に様々な国籍のクルド系の市民約1300人が生活している。1990年代はじめにクルド系イラン人が住み始めたのをきっかけに集まるようになったとの説がある。最近ではシリア内戦の戦禍を逃れるため来日する人も多い。川口・蕨に住むクルド人のことを、「クルディスタン」(クルド人居住地域)と蕨を合わせた造語で「ワラビスタン」という人もいる。
その多くが難民認定を希望し、欧米とは違ってビザを取得しなくても入れる日本に逃れてきた人たちだ。しかし日本は、難民をほとんど認めていない。とりわけクルド人に関しては、親日国で日本と関係が深いトルコ政府に日本政府が配慮していることが大きな要因とされる。
日本クルド文化協会の事務局長、チョーラク・ワッカスさん(35)によると、ほとんどの男性は建設・土木現場で働く。真面目に重労働をこなすため、重宝されるという。また、300人ほどが「仮放免」の状態。2世にあたる約130人の子供が地元の学校に通っている。チョーラクさんは「子供を学校に入れるのにも手続きが複雑です。健康保険を持てず、ケガや病気の時に困る人もいます」と話す。
JR蕨駅周辺でパトロールをしながらゴミ拾いをするクルド人ら
■「クルド人の国ができればそこに戻りたい」
「国には帰ることができないから、日本で頑張るしかない。もしクルド人の国ができればそこに戻りたいけれど」。母国に65歳の母ときょうだいが住んでいるメストさんは、そうしみじみ語った。
メストさんは高校を卒業して2002年、19歳のときに初来日した。日本には、クルド系政党に携わる活動をしていた2人の兄が住んでいた。2年半滞在した後に難民申請したが認められず、強制送還された。イスタンブール空港に着くと、日本滞在中にクルド人の新年祭「ネウロズ」に参加していたことが当局側に伝わり、そのまま3日間、拘束された。トルコ政府はネウロズを問題視しているのだ。
「ネウロズ」は日本でも毎年3月に川口・蕨で開かれ、国内各地から多くのクルド人が参加している。「日本クルド文化協会」が中心となっている。
メストさんは空港での拘束を解かれて実家に帰った。しかし約2カ月後、家に警察がやってきて、取り調べを受けた。その後、裁判が終わるまでは街から出ることを禁じられた。判決を待っても結局は刑務所に入れられると思い、我慢できずに日本に逃げる決意をした。2006年のことだった。
2回目となる来日では成田空港に着くなり難民申請をした。そして、そのまま入管に1カ月に収容された後、日本で暮らしている。
一方、妻のグルジャンさんは2003年、14歳の時、クルド人の権利拡大を求めて積極的に活動していた兄が逃れていた日本を初めて訪れ、2カ月半滞在して帰国。だが軍人が家に押しかけたりすることに嫌気がさし、2005年末に再び来日した。
2人は埼玉で知り合い、2008年に結婚。グルジャンさんはまだ19歳だった。2人は子供がほしいとずっと思っているが子宝に恵まれず、今は治療に取り組んでいる。
JR蕨駅近くにあるケバブ店「ハッピーケバブ」。周辺のクルド人らが集まってくる。中東で広く親しまれている水タバコをふかすすがたもあった
■「入管は刑務所のような感じ。不安になったり、イライラしたりする」
「働きたいけれど、この体では働けないよ」。メストさんは腰と足をさすりながらそう話した。椎間板ヘルニアに悩まされているのだ。
建設の仕事をしていた2010年、仕事中に約2メートルの高台から落ち、腰を強く打った。精密検査をして問題ないと思っていたが、2016年2月、いきなり腰に激痛が走った。一瞬だけかと思ったが、同年10月にまた腰が痛み、我慢できずに病院に行くと、治療せざるを得ない状況だとわかった。
今は、歩くときは足を引きずり気味だ。手術はしないで定期的に注射をし、マッサージとリハビリで回復をめざしている。一方、妻のグルジャンさんは料理教室などクルド文化を伝える活動をしたり、通訳をしたりしている。生活費は、日本に住む2人の互いの兄からの支援も受けている。アパートには大家さんの配慮で、敷金・礼金は払わずに入居したという。
そんな状況の中、2016年12月、入管から3度目となる難民申請が認められないと告げられると、そのまま収容された。その後、5月下旬まで拘束されていた。
「入管に入っていると不安になって気分が落ち込んだり、イライラしたりもする。中には母国に帰りたいと思い始める人もいます。刑務所に入れられたような感じで、そこには実際、罪を犯した外国人も一緒です」。メストさんはそう振り返った。
「私たちの多くは、クルド民族の存在を認めてくれればいいと言っているだけ。独立させてと求めているわけではないのに」。クルドへの弾圧を強めるトルコのエルドアン大統領に対して、妻のグルジャンさんは悲しそうな表情でそう語る。「私はクルド人。自分の言葉や文化の中で生きていきたい。トルコ人じゃない。欧米の国に行けるなら行ってもいいけど、今はここで生きていくほか仕方がない」。
JR蕨駅周辺でパトロールをしながらゴミ拾いをするクルド人ら
■排除ではなく、一緒に街づくりを
「お疲れ様です」ーー。
川口・蕨に住むクルド人と日本人の有志約10人はJR蕨駅周辺の繁華街で、月に何回かの日曜夕方、安全パトロールをしている。パトロールの主体となっているのは日本クルド文化協会だ。おそろいのオレンジのヤッケ姿で、ゴミ拾いをしながら、街のクルド人に挨拶をした。その彼らに対して、街の日本人が、労いの声をかけていた。
「『クルド』って(服に)書いてあるけど、トルコの方の人よ」「イスラムの人たち」
クルド人たちが立ち去ると、日本人同士でそんな会話を交わしていた。
クルドの人たちは彫りの深い顔立ちで、ヒゲが濃い人も多く、イスラム教徒でかつては日本人から警戒されることも少なくなかった。今でも分別しないなどゴミの出し方がよくないと日本人から指摘されたり、話し声が大きいとか、話している様子が喧嘩しているようだとか、歩きたばこが目につくとか言われたりすることがある。
「日本に住むならルールを守ることが一番大切。私たちも、日本語や日本の文化習慣を教えないといけない」。国内の支援組織「日本クルド友好協会」代表理事の木下顕伸さんはそう話す。地元住民に加え、警察や地元自治体なども理解を深め、手を携えるようになってきたという。「排除されるのではなく、一緒に街づくりをしたい」。
日本クルド友好協会代表理事の木下顕伸さん(左)と同会幹事で「日本クルド文化協会」事務局長のチョーラク・ワッカスさん=東京都千代田区
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