故郷を一変させた熊本地震から1年 「復興進む」のニュースの影にいる人々の声をすくい取る【熊本地震】

故郷が早く元の姿を取り戻すよう願いながら、復興に取り残されそうな人々の声をすくい取る。それが、熊本から逃げられない地元紙記者としての役目だと思っている。

熊本県内の各地に甚大な被害を与えた熊本地震から1年。被災した人たちは、それぞれ違う歩幅で復旧・復興へ向けた歩みを進めている。その歩みを近くで見つめてきた地元紙の記者5人が、その時々の思いをつづったコラムを寄稿する。今回は益田大也記者の記事を紹介する。

(熊本日日新聞社 原大祐)

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【2017年3月25日 故郷から逃げない】

泣きながら悩んだ記憶がある。3年前、大学4年生の春。新聞記者を目指して就職活動をしていた時のこと。ある全国紙から「内定を出す代わりに、熊日の採用試験を辞退してほしい」と言われた。内定がほしくてたまらなかった不安な時期だ。

当時、熊日は1次面接が終わったばかり。気持ちは揺れたが、「大好きな故郷・熊本のために書きたい」という思いを貫いた。地元紙記者として熊本地震に向き合っている今考えると、運命的な選択だったのかもしれない。

本震1週間後の昨年4月23日から益城町で取材を続け、1年がたとうとしている。痛々しい倒壊家屋は解体され姿を消しつつあるが、被災者の生活再建は道半ば。災害公営住宅の完成を待ちわびるお年寄り、新店舗の資金繰りに苦しむ商店主、夫を亡くした悲しみが癒えない女性...。被災地に赴くたび、「復興進む」のニュースの影にいる人々に気付く。

自宅が半壊した男性の嘆きが耳に残っている。男性の友人が、県外から来た新聞記者に「更地が増えてだいぶ復興しましたね」と言われたそうだ。「ここに住んでいれば、まだ課題が山積みだって分かるんだろうけどね。熊日さんは地元だけん、私たち目線の記事ば書いてね」。信頼を寄せてくれることをうれしく思う一方で、責任の重さを痛感した。

正直、終わりが見えない取材に、気持ちが切れそうになる時もある。傷ついた町や人に真剣に向き合おうとすればするほど、自分の心も擦り切れていく。地震と直接関係ない取材をしていると「被災地に戻りたくない」という感情も芽生える。

だが、被災地には厳しい現実から逃げずに向き合う人々がいる。地震1年がたった今、そんな人たちのことを思い出したい。「大好きな熊本のために書く」という初心を忘れないためにも。

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家屋が倒壊した熊本市東区沼山津の街並み(昨年4月24日)撮影:益田大也

【2016年9月11日 〝銀座通り〟の女性】

「私はね、"銀座通り"に住んどるとよ」。昨年6月、避難所になっていた益城町の益城中央小で、82歳の女性の言葉に思わず首をかしげた。銀座通りとは熊本市中心部にある繁華街の名前だ。ポカンとする私に、女性が笑いながら教えてくれた。

「私の段ボールベッドがある列は、避難所で一番人通りが多いの。だけん、銀座通りって呼びよるとタイ」。ユーモラスな語り口に、つられて笑わされた。ほかの避難者も気さくで、取材に通うのが楽しみになった。

それまで避難所は近寄りがたいものだと思っていた。大切な人や家を奪われた人たちに、どう接すればいいのか。昨年4月14日の地震から約1週間後、震度7が2度襲った益城町で取材を始めたころを思い出す。「この先、どぎゃんなるとだろか」と、多くの人たちが疲れ切っていた。つらさに向き合う覚悟を決めようと、避難所の入り口で深呼吸する習慣がついた。

そんな中で、逆にこちらが励まされる思いだったのが、益城中央小の人たちだった。ここでは特に、避難者同士が励まし合い、明るく過ごしているように見えた。住民たちは避難所運営を行政やボランティアに任せっきりにせず、自分たちで率先して掃除や食事の準備に取り組んでいた。支援物資を活用して畳敷きのサロンや食堂などの語らいの場も設け、笑い声があふれていた。

ある主婦は「自宅が全壊して頭が真っ白になったけど、食事の準備でみんなと動いている間はつらいことを忘れられる」と語った。物資や食料の供給はもちろん大事だが、雰囲気のよい避難所をつくるにはどうすればいいのか、住民から教えられたような気がした。

"銀座通り"の女性は昨年7月、益城町の仮設住宅団地「テクノ団地」へ移った。516戸が並ぶ巨大団地でも孤立とは無縁。避難所で知り合った主婦が、今もご飯のお裾分けに訪れるからだ。「本当にあの避難所でよかった」という女性の言葉に、今度はしみじみうなずかされた。

【2016年12月26日 広報文の背後(父の関連死申請 却下された男性)】

「4名の方を平成28年熊本地震の関連死と認定しました。70代、女性、(死亡月は)5月。60代、男性、4月...」

震災関連死の審査結果はこんな広報文で市町村が発表する。担当者が死亡の簡単な経緯を説明してくれるが、氏名や年齢といった情報は明かされない。

個人を特定できないようにするためだとはいえ、人の死はもちろんこんな数文字の広報文で表せるようなものではない。その背後には遺族の無念や悲しみが渦巻いている。亡き父の審査を申請した益城町の被災者を取材して、とりわけそう感じるようになった。

その人はすし店を営む61歳の男性。店の創業者でもある父は、入所中の介護施設から震災で退居しなければならなくなった。移動先の病院で心筋梗塞を発症。その後移った特別養護老人ホームで誤嚥性肺炎になり、昨年8月に86歳で亡くなった。

男性と最初に知り合ったのは昨年6月だった。父親の死亡の経緯を聞いたのはその半年後。故人への思いは2時間近く、止まらなかった。頑固おやじで、魚の目利き。関西の料亭で修業した自分とはけんかばかりした。そんな父が地震後、転院先でやせ細る姿に心が痛んだ。「泣くわけがない」と強がっていた通夜で涙があふれた―。

記事の掲載から10日ほどたって、男性の申請が却下されたと知った。「仕方ない」と受け入れるものの、悔いも残る。「父は転院を境に弱っていった。元の施設に残れていたら...」

数日後、益城町が3人を関連死認定したとの広報文が届いた。そこに記された「80代男性」や「90代女性」の背後に思いをはせる。なぜ犠牲になったのだろう。できるなら遺族に会って、無念、怒り、悲しみとともに報じたい。そのことが次に犠牲者を出さないために役立つと思う。

故郷を一変させた熊本地震から1年がたった。しかし、出会った被災者の中には再建の青写真を描けない人も多い。故郷が早く元の姿を取り戻すよう願いながら、復興に取り残されそうな人々の声をすくい取る。それが、熊本から逃げられない地元紙記者としての役目だと思っている。

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全壊して雨漏りで壁にかびが生えた益城町の民家の内部(昨年8月18日)撮影:益田大也