<東京大空襲から73年>悲劇の現場を記録し、GHQから写真を守り抜いたカメラマンがいた その名は「石川光陽」

「イモリのような赤い腹で飛ぶ米軍機の下でシャッターを切った」
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石川光陽氏
By Koyo Ishikawa, Reiko Ishikawa (CBC documentaries) [Public domain], via Wikimedia Commons

約10万人が犠牲となった1945年3月10日の「東京大空襲」から、73年を迎えた。

太平洋戦争中、米軍による"帝都"東京への空襲は1944年11月に開始。100回以上にわたって繰り返されていたが、いずれも日中におこなわれ、軍需工場を目標とするものだった。

ところが1945年3月10日の空襲から、米軍は町工場や住宅がひしめく市街地への爆撃を敢行した。一般民衆への無差別爆撃で、死者10万人以上、焼失家屋は27万戸に。下町一帯は焦土と化した。

■GHQからネガを守ったカメラマン「石川光陽」とは

太平洋戦争中、警視庁所属のカメラマンだった故石川光陽氏は警視総監の命を受けて東京の空襲被害を撮り続けた。東京大空襲の時も、その惨状を現場で撮影した。

当時、空襲などの被害状況は「軍の機密に触れる」として撮影を禁じられていた。石川氏の写真は、当時の状況を伝える貴重な資料となった。

おびただしい数のB-29爆撃機。下町に落とされた無数の焼夷弾。強風にあおられた炎熱風は、容赦なく人々に襲いかかった。石川氏は愛機のライカを手に、地獄絵図のような光景を後世に残すべく撮影し続けた。

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ライカを構える、石川光陽氏
By Tokyo Metropolitan Police Department [Public domain], via Wikimedia Commons

石川氏は当時の状況を、こう語っている。

 1945年3月10日からの東京大空襲は、とくに忘れられません。警視庁の管内地図は爆弾の落下を青、焼夷(しょうい)弾は赤、と豆電球で表示していたのですが、それが一斉に点滅するんです。猛火を浴びた警察署からは電話が殺到しました。

 その夜は、下町に行きました。地上の炎を映してイモリのような赤い腹で飛ぶ米軍機の下で、焼け落ちた民家からしたたり落ちる水道水を鉄かぶとに受けながらシャッターを切ったのですが、煙ばかりで何も写っていなかった。1人で乗って行ったシボレーも、この時に焼けてしまいました。

 8月15日の玉音放送の後、皇居前は大変な人出でしたね。みんな頭を深く下げていた。松林の中で割腹した人もいた。ファインダーが涙でくもって、何も見えないんですよ。あのころでしたね、皇居内にも空襲でやられた建物があって、そこにかがみ込んでいる人を見かけたのは。それは、亡き陛下が焼けたクギを拾っておられたのです。

(朝日新聞1989年01月17日朝刊・東京本社版)

戦後、日本を占領統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は被害写真のネガを提出するよう命令したが、石川氏はこれを命がけで拒否。ネガの代わりに、プリントを提出して追及をしのいだ。貴重なネガは、自宅の庭に埋めて守り抜いたという。

石川氏は1989年、85歳で亡くなった。

石川氏や米軍が撮影した東京大空襲のころの写真を紹介する。

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