韓国映画3.0?:消費される〈復讐〉

『シュリ』(1999年)という南北コリア間の抗争を描いた作品を一つのきっかけに、韓国映画が一躍この国のスクリーンの一角を占めるようになったのである。韓流ブームがはじまった。
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AFP時事

21世紀はじめ、日本の国産映画は今ほどの人気がなかったし、お決まりのプロットと大味のハリウッド作品に観客は食傷気味だったように思う(映連によると2001年の邦画の公開本数は281本で、全体の興行収入のうち4割に満たないシェアだった。2014年には615本で、6割近くのシェアとなっている)。

「黒船」が西からやってきたのはそんなときだった。『シュリ』(1999年)という南北コリア間の抗争を描いた作品を一つのきっかけに、韓国映画が一躍この国のスクリーンの一角を占めるようになったのである。韓流ブームがはじまった。

南北コリアものの映画の勢いの一方では、ヨンさま+『冬のソナタ』(2002年)ブームをきっかけとして「純愛」が韓流の代名詞となり、今日までその脈はつづく。映画でいえば、『猟奇的な彼女』(2001年)や『私の頭の中の消しゴム』(2004年)などなど。とりわけ今日30代以上であれば、男女とわず、何かしら韓国の「純愛」作品が心に刻まれている人は多いのではないか。

「純愛への純愛」の火は、テレビ画面をとおして広がった。地上波テレビ番組では、韓国ドラマがどっしりとした位置を占めるようになった。2011年には、異物の闖入(ちんにゅう)へのアレルギーを起こしたかのように、嫌韓派が韓国ドラマを放映しすぎるとしてフジテレビへの抗議を広げた。

それだけ「黒船」感が強烈だったということだろう。映像作品のみならず芸能や音楽シーンでも、韓国人アイドルやシンガーの人気が高まった。日本の一部市民が焦燥感をもっても不思議ではなかった。格下の二流国でしかなかったはずの韓国が、日本に文化攻勢をかけてきていたのだから。

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それが、今ではどうか。日本での韓国映画の人気はほぼ下火となり、観客は邦画を好んで消費するようになった。韓流ドラマのテレビ放映もだいぶ少なくなった。韓国の芸能や音楽のブームも、少なくとも世間的には落ち着きを見せた。そして、韓流の結果だとは到底いえないが、韓国への親しみも急速に薄れている

その一方、たしかにレンタルショップでは、韓流ドラマのDVDコーナーが完全に市民権を得た。けれど、近くのショップで日々コーナーをうろついている筆者としては、ドラマDVDの貸出率の低さが気になる。韓国映画のほうの扱いはバブル崩壊はなはだしく、最寄りのショップの韓国映画コーナーはついに一昨年解体され、「洋画」コーナーにまぶされてしまった。

あれだけブームを巻き起こした韓流の末路がこれか、と思えばいくばくかの淋しさはあるだろう。かつての「黒船」感は、今や「諸行無常の響き」がある。

だが筆者個人としては、この10余年でいちばん韓流を楽しんでいるのは、実は今なのである。ブームが過ぎ去ったあとの残骸にこそ真実/本物は宿る、というのはいいすぎか。ともあれ筆者の場合は、韓国映画を好んで消費してきた。

そこで、デジタル時代の小数点表記の流行りに乗じて、あえて手前勝手に分類してみると、南北分断ものが韓国映画1.0、純愛ものが2.0だとすれば、とりわけ〈復讐〉をテーマとしたノワール、サスペンスものこそは「韓国映画3.0」である。

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こうした系統の作品は、南北分断ものや純愛ものの陰に隠れつつ、韓流ブームまっさかりのゼロ年代初頭からすでにきらり光るものがあった。日本でも熱狂的なファンを獲得した、パク・チャヌク監督の「復讐三部作」(『復讐者に憐れみを』『オールド・ボーイ』『親切なクムジャさん』:2002〜05年)が代表的だろう。

エロ(身体を張って脱ぐ女優)+グロ(排せつ物や汚物への執着)+バイオレンス(えげつなきサディズム)、それにミソジニー(女性嫌悪・蔑視)+ホモフォビア(同性愛嫌悪)+ホモソーシャリティ(オトコ仲間の重視)。

いわば、こうした系統の作品には、カーニバルと化した描写に事欠かない。とりわけ1990年代以後の映画作品では、「伝統的〔儒教的〕価値観から見ておよそ考えつく限りのタブーが好んで描かれて」きた(土佐昌樹『アジア海賊版文化』光文社新書)。

韓国映画 この容赦なき人生』(鉄人社)はこうした作品の数々を広く取りあげる優れたカタログであるが、そこで日本の映画人や俳優がこぞって嘆息するのは、もうこれほど息がつまって熱を帯び「すぎた」映画は、今日の日本では創りがたいということ。隣国のリミットレスな描写に、羨望さえおぼえているのが印象的である。

当初は、かつての軍事政権下での抑圧からの解放感が、露悪的・偽悪的に、過剰表象されていたのだろう。しかしその流れは、韓国が民主化してから30年近く経った今でもいっこうに途絶えていない。むしろ深化している。ノワール、サスペンスものを創らせたら、この国の映画はちょっとやる。クセになる。

とりわけお家芸にまで研ぎすまされたと筆者が思うのが、みる者をも巻き込む復讐の描き方である。たとえば、『殺人の告白』(2012年)は途中からすじが読めてしまう作品なのだが、そのラストはザ・復讐映画の面目躍如である。日本で似たような作品を創ったら、真逆のラストとなっただろう。

そして韓国映画ファンの中で評価の高い『悪魔を見た』(2012年)である。イ・ビョンホンが、観客からみたら「正当だな」とも思える復讐に手を染めはじめるのだが、やがて復讐に味をしめてしまい、やはり観客からしたら「やりすぎだろ」という段階まで振り切れる。正気が狂気へ触れ、後半はさながら狂喜乱舞である。本作をみる者もまた復讐をのぞきみしつつそれに一体化し、陶酔してしまうのは必至なあたり、恐ろしい一本である。

悪魔は誰だ』(2013年)は、娘を誘拐された母親による、時効をむかえた元犯人に対する復讐劇である。これまた日本映画の繊細さやニュアンス、グラデーションある描写に慣れた者からすると強引すぎるやり方で、復讐が完遂される。その復讐を仕上げたのが母親ではなく、彼女に添う刑事だというのがおそらくはミソで、みる側も知らずと彼に感情移入してしまっている。

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ここに取りあげたのはごく一部にすぎないが、〈復讐〉は韓国映画のテーマとしてきわめて一般的だし、かの国の映画作品の重要な一角を担っているだろう。もし今でも、映画がその社会の欲望や実態を表すものだとすれば、復讐を楽しみ、嗤(わら)い、味わいつくし、完遂するという韓国映画の一側面からは、社会の実相が浮かび上がってくるだろうか。

ここですぐ思い浮かぶのは、昨年の大韓航空「ナッツ姫」事件に接した韓国世論の激昂、糾弾意識、処罰感情の高まりである。これも、国内で一握りの「持てる者」に対する「社会的復讐」の一種なのだろうか。少なくとも隣国日本で暮らしながら内面化してきた規準からすると、たとえ財閥への悪感情があるにせよ、「刑事罰や懲役うんぬんとまでは行きすぎじゃないか」の感がある。

もちろん、たかだか映画における復讐のあり方を、社会の実相にまで拡大して考えることは、こじつけもはなはだしい。文化と社会は別である。そういう意見もあるだろう。

いずれにせよ、韓国映画3.0とでもいうべき哀感と滑稽にみちた復讐劇はみる者をひきつけ、クセになるのはたしかである。が、ややもすると手前の正義の完遂にとまどうときが、創り手側にもみる側にもくるのではないか。

正義を貫くことは、いつでも痛い。長い日々が過ぎても復讐の火を絶やさない、というのは美しくあるかもしれないが、それが幸せかと問われれば、自信はない。

「哀切であることは誰でも撮れる、それが痛切であるかだよ、オグリ」。『伽倻子のために』(1984年)で知られる映画監督小栗康平は、先輩の浦山桐郎にこういわれた(小栗『哀切と痛切』平凡社)。今や韓国映画の復讐劇は、哀切さの表象をふくめてお家芸ともいうべき水準にあると思う。だが、たしかにそれと痛切さはまた別の話なのだろう。

ひょっとしたら、「赦す」(ゆるす)という契機が復讐劇に挿入されたとき、それは痛切さをおびるのかもしれず、韓国映画は新たなフェーズ(3.5?)に入る準備ができるといえるのかもしれない。

海の向こうの国の映画館とレンタルショップから韓国映画をウォッチする一ファンとして、今後いかなる独特の展開をみせるのか、がぜん楽しみである。